© 2017 F Comme Film / Gaumont / France 2 Cinéma

映画の平行線 第11回:『マチルド、翼を広げ』

毎月公開される映画を交互に語り合っていく人気連載。今回は月永理絵さんが、フランスで90万人動員の実力派監督ノエミ・ルヴォウスキー待望の新作『マチルド、翼を広げ』を取り上げます。

by RIE TSUKINAGA
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18 January 2019, 10:44am

© 2017 F Comme Film / Gaumont / France 2 Cinéma

女の出てこない映画はない。けれど女はまだ語り尽くしていない。 “映画の女” を見ながら感じたアレコレを、お喋りのように、戯れ言のように、手紙のように、交わしてみたい。「映画の平行線」は最新映画とともに、映画ライター・月永理絵と文筆家・五所純子が意見交換していく往復コラムです。


五所さんが、「エルヴィラ/エルヴィン」「彼/女」と、そう書いたことに妙に動揺した。『13回の新月のある年に』でフォルカー・シュペングラーが演じた人物は、エルヴィンという名前で生まれ育ち女性と結婚するが、アントン・ザイツという男の「お前が女だったらな」という言葉一つのために、性転換手術を受け女=エルヴィラの体を手に入れる。だがアントンはエルヴィラを受け入れず、エルヴィラは女の体で生きながらも、男に愛されるためにときに男のふりをして男娼を買う。その人を、私は「エルヴィラ」あるいは「彼女」とだけ書いた。過去はエルヴィン=男で、現在はエルヴィラ=女である人として、当然のように「エルヴィラ」「彼女」と書いた自分に、急に不安を感じ、怖くなった。

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『13回の新月がある年に』©2015 STUDIOCANAL GmbH. All Rights reserved.

言葉で何かを書くことの怖さをいつも感じている。簡潔に書こうとすればするほど、何かを取りこぼす気がする。スラッシュ「/」を入れるか入れないかが問題ではない。嘘か真実かなんてどうでもいい。ただ、映画のあらすじひとつ書くうえでも、何かを書こうとするとまた別の何かを見逃している気がして、その見逃している何かの大きさが見えなくて怖ろしくなる。「そのとき彼はこう言った」と書こうとして、一人称は「彼」でよかったのか、「彼」は本当にそう言っただろうかと不安になる。「彼女は彼と一目で恋に落ちた」と書き始め、そんなこと画面の中で説明されたわけでもないのに、とハッとする。映像を言葉で定義しようとすればするほど深みにはまる。「言葉はかならず嘘をついている」と五所さんは書いていた。たしかに、嘘の真実を探すという不毛さから映画は生まれていくのかもしれない。だとすればその映画を再び言葉で語る行為とは何なのか。

ロブ・グリエの映画はそんな混沌とは無縁だ。「彼」と言おうが「彼女」と言おうが「彼/女」と書いてみようが、そんなのどれでも同じ、いや、どれも正しくないのだから何だっていいとあっけらかんと宣言されるような出鱈目さに溢れている。『不滅の女』で絶対に死なない女Lは、果たして生きているのか亡霊なのかわからない。そもそもLは常にLという女なのか定かじゃない。同じ顔をした別の女が何度も現れているだけかもしれないし、男Nの前に何度も現れる、不滅の女Lとの奇妙な邂逅の物語……と書いたそばから煙に巻かれた気がしてくる。『ヨーロッパ横断急行』のジャン=ルイ・トランティニャン演じる運び人の男の話は、列車の中で映画人たちによって構想される想像上の出来事のようでいて、何度も繰り返されることによってそれが現実なのか映画内映画なのかわからなくなる。『嘘をつく男』ではもはや意図的にふたつの名前(ジャンとボリス)は入れ替わり、臆病な裏切り者とはジャンなのかそれともボリスなのかあるいはどちらでもないのか。誘惑する男でもあるボリスあるいはジャンは、ローラ、シルビア、マリアと3人の女たちを誘惑し、女たちの区別もつかなくなっていく。ボリスでありジャンである男。あるいはかつてジャンであったがいまはボリスであり、だが同時にジャンであるかもしれない男。こんなふうに男の名前を書いているだけで楽しくてしかたない。とはいえロブ=グリエの映画を高度な悪ふざけとして紹介すれば、それはそれで大事なおもしろさを見失ってしまう。真面目に考えたら負けだよ、なんて高みから呟くのではなく、ただ永遠に映画のあらすじを書き続けることこそ、ロブ=グリエの映画にもっとも適した快楽方法だ。

名前をどう記述するかという問題をぐるぐると考えていたとき、ノエミ・ルヴォウスキーが監督した『マチルド、翼を広げ』のエンドクレジットを見たら、思った以上にとても簡潔だった。主な登場人物は、マチルド、母、父、フクロウの4人(3人と1羽)。ルヴォウスキー演じる母にも、マチュー・アマルリック演じる父にも名前はない。これは娘であるマチルドから見た関係性で、彼女にとって、ふたりはあくまでも母と父でしかない。9歳のマチルドは、アパートで母とふたり暮らし。離婚した父はどこか別のところに住んでいて、時々Skypeで話をしたり、何かあれば様子を見に来てくれる。母と子の愛の物語。それも“狂った母”の物語といえば映画にとってはあまりに常套すぎて、それだけで警戒しそうになる。ルヴォウスキー本人と母との思い出をもとにしたお話、と聞いて、さらに怖くなる。母と子、という言葉にまとわりつく呪いはあまりに大きい。グザヴィエ・ドランの映画も、だから最初は苦手だったけれど、近作ではもはや呪いの影が消え去り、過剰なオペラのように進化していて、その気楽さが好きになった。

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© 2017 F Comme Film / Gaumont / France 2 Cinéma

『マチルド、翼を広げ』も最初はそんな警戒心から見始めたものの、開始早々に杞憂は消え去った。学校で子供たちが戯れるシーンのすぐ後(そこでマチルドだけ時が止まったようにストップモーションとなることにも感動した)、マチルドの普段の様子を聞くため、母が、先生に呼ばれて小学校へやってくる。そこで母は「なぜここに来たのかわからない」と話し始め、その直後、「『なぜここに来たのかわからない』という表現は間違いだった気がする」とつぶやく。正しくない気がする。なぜこんな間違いをしたのか自分でもわからない。何度もそう繰り返す彼女に教師は困惑し、母娘の会話に入れないまま、三者面談は終わってしまう。母と娘の関係はあくまでもふたりだけのもので、第三者が入り込む隙はない。それを望んだのはマチルドで、彼女は自分たちふたりの世界に誰かを侵入させないよう、家のまわりに結界を張り、必死で目を光らせている。母を外の世界に晒さないように。誰かが母を批評しないように。だけど母はこのふたりきりの世界から一人逃げだそうとしている。そんなのは裏切りだ、と娘は怒る。一方の母は、自ら境界線を引く勇気のないまま逡巡し、明日こそは逃げ出すか踏みとどまるかを決めようと、毎日新たな決意を固め続ける。やがてふたりの世界を緩和し正しい知恵を授けるものとして、一匹のフクロウがやってくる。

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こうして物語を綴ればシンプルに映画を理解できそうだ。境界線をめぐって攻防する母と娘の物語。境界線を引く、と聞いて身を固くするのは私だけでは無いだろう。女と男。大人と子供。異常と正常。二者の間に正しい境界線なんて引けるわけはないし、引こうとすれば、必ずそこからこぼれ落ちるものがある。時々、「ここからこっちは狂った世界。それでは狂っている側を存分に描いてみせましょう」と何の迷いもなく「こちら」と「そちら」に境界線を引いた映画と出合い、ぎょっとしてしまう。そんなときは『EUREKA』(青山真治監督、2001年)で背中合わせに回転していた役所広司と利重剛の姿をふと思い出す。怪物のような男と恐怖に打ち震える男とが、互いの境目が無くなるくらいぐるぐると回り続けていた光景こそ私たちが生きる世界だと、確認したくなる。それでも、境界線は引かれなければいけない。そうでなければ世界はどこまでも混沌に陥ってしまうから。だとすれば、いつ、どこに、どんなふうにその線は引かれるべきなのか。

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© 2017 F Comme Film / Gaumont / France 2 Cinéma

9歳のマチルドがどれだけ結界を張り巡らそうと、母との間に境界線を引くことは避けられない。いつまでも侵入者を拒むわけにはいかないし、フクロウを招き入れた時点で崩壊は始まっていた。それが単なる悲劇とならないのは、彼女たちが、互いに適切な距離を取ろうと努力するからだ。マチルドも、母も、父も、そして彼らを取り巻く大人たちも、みな、他者との適切な距離の取り方を模索する。どこまで近づくべきなのか、どんなふうに他者の体に触れるべきなのか。みなが、誠実にその問いに向き合っている。そしてこの映画は、娘と母の物語であると同時に父と母の話でもあって、私はこの画面の外側にはみ出しそうな彼らの物語にも強く興味をそそられた(そういえば、父と母を演じるマチュー・アマルリックとノエミ・ルヴォウスキーは、アルノー・デプレシャンの『キングス&クイーン』で狂った弟と“正しい”姉とを演じている)。状況だけ見れば、娘と妻を捨てた男と言われてしまいそうな父だが、彼もまた、ふたりとの正しい距離を慎重に探している。傷ついた体を優しく撫でた元妻に、「あなたの手は私には重すぎる」と言われたら、その手をどこに置けばいいのだろう。慌てて手を離すべきなのか。手を離すことで、彼女を永遠に失うかもしれないのに? 迷い、共に悲しみ続ける彼らは、正面から向き合わず、ベッドの上で身を固くして並び合う。彼らの間の境界線はすでに引かれてしまい、それを超えることは許されない。

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© 2017 F Comme Film / Gaumont / France 2 Cinéma

マチルドと母もまた、向かい合い、互いの体を抱きしめ合おうとはしない親子だ。正確には、向かい合うし抱きしめ合うたびに、いつも言い知れぬ緊張感が漂ってしまう親子。お風呂で命令ゲームをするときも、母の顔を下から見つめ「ママには私が必要でしょう?」と必死で問うときも。ふたりの距離感は決して一致しない。むしろ学校に呼び出された際のように、横に並び、足を絡め合うほうが、そしてその様子をカメラが同時に収めたときのほうが、ふたりはずっと心地よさそうだ。横並びのふたりをどうやって向かい合わせ、それを対決ではなく、幸福な抱擁へ導くことができるのか。カメラの視点もまた、実に丁寧に、根気よく、ふたりとの距離を測り続ける。

映画はいくつもの時間を超えて、大きく成長した娘は、母と雨のなかダンスをする。ふたりの初めての対決。娘が真っ正面から見つめても、母はもう逃げたりはしない。取っ組み合い、抱き合い、そしてまた手を離す。ふたりがようやく対等に向かい合えたことを、心から祝福したい。境界線が引かれても、その距離はいつでも伸縮可能だ。ときには近づき、ときにはまた遠く離れていく。そうしてふたりの対話が再開される。私の娘よ、と呼びかける母の声に、娘はただ応答する。向き合いながら、まっすぐに互いの顔を見つめ合いながら。

マチルド、翼を広げ
新宿シネマカリテ、名古屋名演小劇場ほか全国順次公開中。

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