セリーヌ・ディオンは知っている:吹っ切れた中年女性のスタイルに学ぶべきこと

中年の女性に対する年齢差別がメディアから完全に消え去るのには、もうしばらく時間がかかりそうだ。しかし今、メディアは、“ノーマル”の概念を笑い飛ばして、独自のファッションセンスを謳歌する女性たちを讃えはじめている。

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aug 28 2017, 12:34pm

Image via Instagram

2017年の夏がなにか目的のようなものを持って存在しているのだとすれば、それは、「歌手、アイコン、そしてスタイルの達人としてのセリーヌ・ディオンを、わたしたちに再確認させるため」だろう。現在49歳のセリーヌだが、ここ数ヶ月のあいだ、カルチャーのあらゆる領域で輝きを放っている。クチュールの服を着て絶賛を浴び、Instagramでは極上の#OOTD写真や、ファッション・フィルムさながらの動画を次々に投稿している。ようするに、セリーヌは、ヘレナ・モナム=カーターやエマ・トンプソン、ヘレン・ミレンなど、孤高の存在感を放つ中年(もしくはそれ以上)女性陣の仲間入りを果たした感があり、もう何をやっても許される高みに達したのだ。しかし、こんな風に、女性がある一定の年齢に達するまでは好きなように服を着ることができないという状況も、そろそろ終焉を迎えることになりそうだ。

セリーヌを"中年女性"と位置付けることは馬鹿げている。"中年女性"とは、主にわたしたちが母親や叔母、そして若いとも老人ともカテゴライズできない女性を形容する際に用いる言葉だからだ。現代社会では、若さばかりがもてはやされ、"高齢"に達するまで女性が評価の対象となることもない。ハリウッドでもいまだに年齢差別が横行している。マギー・ギレンホールが55歳男性の恋愛対象を演じることは"歳をとりすぎている"と言われて批判しながら、他方ではエマ・ストーンやジェニファー・ローレンスに、数十歳も歳の離れた俳優たちと男女の関係を演じさせても、誰も咎めない。そしてわたしたちが片手間で非難する業界の基準を通して、わたしたちもまた特定の女性たちをまるで存在していないかのように扱っている。特定の男性層にとって、性の対象とするには「歳がいきすぎている」女性、しかし賢明なアドバイスをしても「まだ若いくせに」と信憑性を疑われてしまう年齢層の女性は、存在しないも同然のように扱われてしまう。だから今そのような女性たちが、ファッションを通して主張し始めているのだ。

"中年"女性がレッドカーペットに奇抜な服装で現れることを、社会は良しとしてこなかった。1998年のアカデミー賞では、セリーヌがJohn Gallianoによる前後逆になった白いタキシードをまとって現れ、また2013年のアカデミー賞ではヘレナ・ボナム=カーターがVivienne Westwoodのドレスを着て現れた。しかし、いずれもエンターテインメント情報テレビ番組『E!』で「ワースト・ドレス」リストに挙げられた。過去数十年間、そのような風潮はもてはやされてきた。アカデミー賞に"ふさわしくない"服装で現れるということは、個性が強すぎ、品位に欠け、敬意にも欠けると考えられてきたのだ。わたしたちの多くもまた、好きなセレブが何を着てそのようなイベントに現れるかに大きな関心を寄せ、それらイベントに"ふさわしくない"服装の女性たちを口汚く罵って育った——まるで、それが「個性を打ち出すとこうなる」という失敗例であるかのように……そして、それが自分の行く末であるかのように未来を悲観してしまうひとまでいる。

「インターネットとソーシャル・メディアの登場で、わたしたちは年齢差別や矮小化について、世界と話し合えるようになった。わたしたちはそこで、一人ひとりの女性が自分らしさを受け入れれば、それがほかの女性たちの自己表現を支援することにつながると学んだ。」

歳を重ねるごとに、女性は、過剰で"奇妙"と思われてもいいと吹っ切れるものらしい(エマ・トンプソンに至っては、神聖なるゴールデン・グローブ賞授賞式でヒールを脱ぎ、それを肩越しに投げ捨てた)。「世界がどう思おうとかまわない」という解放感が生まれてくるのだ。それに気づくと、「セクシーか否か」「TPOにふさわしい美しさか否か」といった基準で測られるメディア報道は、単に無難で退屈なファッションを良しとしているだけのように感じられてくる。そこに、自己表現手段としてのファッションはない。そう考えると、ヘレナやエマ、シェール、シャナイア・トゥエイン、マライア・キャリー、そしてセリーヌ・ディオンが、メゾンの"美しいドレス"などよりも100万倍興味深く美しいことが解るはずだ。また、それらの"美しいドレス"は、痩身の白人女性をイメージして作られている傾向が強い。中年白人女性も、社会で軽視されている——それはたしかだ。しかし、有色人種女性やトランスジェンダー女性、二分化されたジェンダーのいずれにも当てはまらないひとびとの状況について考えてみてほしい。そうした矮小化されてきた人たちのファッションは、ヨーロッパの美の基準をもとに、"異性愛者のフェミニンな白人女性"をイメージして作られたものを強要されているのだ。表面的なファッションに洗脳され、「美しい」か「大惨事」でしかスタイルを判断できないような白人女性を対象に作られた服を着なくてはならないのだ。

年齢と思い切り、そしてスタイルについて、今、わたしたちに大いに気づかせてくれているのがセリーヌ・ディオンだ。中年期に入ったセリーヌは、今、若かりし頃の華々しさを忘れさせてしまうほどの変化を見せている。2017年のメット・ガラで、彼女は1998年アカデミー賞授賞式で見せたエキセントリックなスタイルを凌ぐ世界観を映像で放った。インターネットとソーシャル・メディアの登場で、わたしたちは年齢差別や矮小化について、国境を超えて話し合えるようになった。わたしたちはそこで、一人ひとりの女性が自分らしさを受け入れれば、それがほかの女性たちの自己表現を支援することにつながると学んだ。しかし、1990年代初頭のバラード女王から2017年の華麗なる変身へとセリーヌがたどった軌跡をリアルタイムで見てきた者ならだれもが、彼女がこれまで一貫して「自分」という存在と、ドラマチックな演出の才能を放ってきたかを知っているだろう。1996年にヒットしたシングル「It's All Coming Back To Me」のMVでも、最近『Vogue』で作った映像でも、セリーヌはこれまで彼女がもっともよく知るキャラクターを演じ続けている——そう、そのキャラクターとは、彼女自身だ。

しかし、1998年当時、わたしたちは雑誌や"ファッション・ポリス"に洗脳されたファッション感覚でしかスタイルというものを考えることができなかった。19年前のわたしたちは、30歳のセリーヌに、わたしたちが考える"若いスタイル"を押し付けていた。だから、当時の彼女が模索した美的感覚も惨事、パンツの選択も惨事、周りとは違う服装をすることも大惨事とした。だから彼女は、他の多くの有名人が中年期に差しかかるとそうするように、表舞台から姿を消した——そして、ひとの評価など気にしない、力強く吹っ切れた女性として帰ってきた。それが今、わたしたちが見ているセリーヌだ。

今メディアがスタイルを押し付ける風潮は、急激に減速しつつある。メディアでのファッション報道はあらゆる文脈のスタイルも取り上げるようになり、社会が押し付ける"ノーマル"よりも個人のセンスを優先し、ファッションを謳歌するひとたちを評価するようになっている。特定の年齢層に対し、排他的な視点を持ってしまう社会をわたしたちが懐疑視し始めている今だからこそ、特にその勢いは強い。ポップカルチャーから年齢差別が消えるまでには、まだ長い時間がかかりそうだ(ウディ・アレン監督が最新映画でセレーナ・ゴメスを起用したというニュースが、その事実を裏付けている)。しかし今、単純にファッションを楽しもうとする風潮があり、個性的なスタイルを臆することなく主張をする人たちがいて、"アリかナシか"という考え自体も廃れてきている。そして、「人生の新たなステージを思い切り楽しもう」という気風が大きく評価されてきている今、もはやスタイル自体が必要とされてないのかもしれない。必要なのは、きっと世間の評価を気にせずに、"美意識を持ち続ける"ことなのだ。

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