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山内ケンジ評:『たかが世界の終わり』

若き天才監督グザヴィエ・ドランが最新作で描くのは、愛するがゆえに互いを傷つけあってしまう<ある家族の1日>。第69回カンヌ国際映画祭グランプリ受賞を受賞した本作を劇作家・映画監督の山内ケンジがレビュー。

Kenji Yamauchi

©Shayne Laverdière, Sons of Manua

聖書ルカ伝に出てくる「放蕩息子の帰還」というのはキリスト教文化圏の中では有名なエピソードで、フィッツジェラルドやフォークナーなど文学の中ではよく形を変えて下敷きにされているわけだけれども、この『たかが世界の終わり』もまず初めに思い浮かべるのが、このエピソードだ。
他に映画ではルイ・マルの『鬼火』(1963)を思い出す。『鬼火』は主人公の男がパリに帰ってきて、旧友たちに会い、自死するまでを描いているが、このグザヴィエ・ドランの新作では自死するまでは描かれない。そもそも主人公ルイは、「死を告げにやって来た」というが自死するつもりなのか病気(原作戯曲の年代を考えるとエイズか?)なのか、わからない。実はこの映画(おそらく戯曲が)はほとんどのことははっきりわからない。わかるのは、ルイは放蕩息子どころかむしろ成功した劇作家で、12年ぶりに帰ってきた実家の家族は、彼を悲喜交じった感情で迎える、ということ、そしてこの母、兄、兄嫁、妹たちは、どちらかというと貧困層であり、経済的な理由でその家から離れられないでいる、ということだけだ。ルイがゲイであることも周知なのだが、どのようにして家を出たのか、どうもなにかあったらしいのだが説明されない。

この映画で実に感心したところは、こういった背景の説明はほとんど描かれないのに、ルイが帰還してから出ていくまでの数時間が、言葉と演技だけで異常なまでの緊張と劇性に満たされていることだ。
帰還した冒頭、別れたときは幼かった妹が成熟した女になっていて、ルイにいきなり抱きつく。ルイは戸惑う。これが最初のポイントだ。これによってルイの思惑が崩壊し、「死を告げること」の困難がそこに淀んでいることがわかる。そしてドランお馴染みの、母の屈折した息子への愛情、兄嫁の今の生活への不満、彼女のまるで初対面のルイに対して救いを求めるような視線らが、薄皮を剥ぐようにルイに、つまりは観客に露呈されていく。これをドランは極めて被写界深度の浅い、ルイからの主観的なクローズアップを多用しながら、無言の瞬間をも劇的に演出している。

聖書と同じ部分であるところの、兄の弟への嫉妬、屈折、焦燥の表現が見事で、ヴァンサン・カッセルの演技は賞賛に値する。そしてこの兄が、弟を追い返すラストシーンは、これはいったいどうしたことだ、ただ、兄が怒り、妹が泣き、兄嫁、母が困惑し、ルイがつぶやくだけのこのシーンが、まるでヴェルディ・オペラの最大のクライマックスであるかのような迫力で観るものを圧倒させる。このとき、兄が単なる嫉妬に捕らわれた民ではなく、弟ルイの心理を見抜いていて、家族を死守すると同時にルイへの思いやりをも持つ大天使であることまでが、そんな説明台詞は一切ないにもかかわらず如実に伝わってくるのだ。そしてこのラストシーンをさらに至高な物たらしめているのが光とフォーカスだ。まるで屋外から神が照らしているかのような強い斜光、顔、眼へのフォーカスイン、アウト。これを演出している監督はまだ27歳だと? そんなことがあり得るのか?

『たかが世界の終わり』

監督・脚本:グザヴィエ・ドラン 原作:ジャン=リュック・ラガルス『まさに世界の終わり』 出演:ギャスパー・ウリエル、レア・セドゥ、マリオン・コティヤール、ヴァンサン・カッセル、ナタリー・バイ 配給:ギャガ 原題:Juste la fin du monde  カナダ・フランス合作映画 99 分 カラー

新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMA 他大ヒット公開中

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Credits


Text Kenji Yamauchi