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家族からファミリーへ:2017年の「家族」像

「家族」像は急激に変化している——人々は、インターネットでも現実世界でも、政治活動やアート集団、クラブなどを通して同じ視点を持った人たちと出会い、それぞれ独自の「ファミリー」を作り出している。現代は、血縁関係をベースとした「家族」ではなく、自らが築く「ファミリー」の時代なのだ。

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08 May 2017, 11:15am

「家族」「ファミリー」という言葉を聞いて感じるものは、当然ながらひとによって違う。将来の夢として、テレビドラマなどに見る"私道付き一戸建ての家に暮らす平均的な家庭"を思い浮かべるひともいるだろうし、夕食の席で両親にやり込められ、10代の子どもさながらに憎まれ口を叩いた25歳の帰省を思い出すひともいるだろう。生みの親と絶縁状態にあるひとや、生き方や人生観が食い違うあまり家族から拒絶されているひとには、「家族」は痛みや悲しみを伴う言葉かもしれない。トランプ一族や、王家を連想するひともいるかもしれない。あるいは、血こそつながっていないものの、血よりも濃い関係を築いている仲間を思い浮かべるひともいるだろう。「家族」という言葉の意味は、ひとの数だけある。しかし、ひとつたしかなのは、「家族」とはもはや生物学的なつながりだけのものではなく、「誰と人生を分かち合うか」である、ということだ。

「血縁関係にない者たちが作り上げる家族」とは何か——クィアの人たちやその仲間たちに訊いてみるといい。彼らは、多かれ少なかれ、ジェニー・リヴィングストーン監督の映画『パリ、夜は眠らない』に描かれた仲間たちのような結びつきについて、体験談を交えて語ってくれるだろう。マンハッタンのハーレムに息づくボールルーム・シーンを追ったこのドキュメンタリー作品で、観客は、ニューヨークに"ヴォーギング・ハウス(ヴォーギングの家)"を作り出している有色人種クィアたちと出会う。彼らのほとんどは、ゲイであること、トランスジェンダーであること、クィアであることを理由に、血のつながった家族から勘当されている。カメラが訪れる"ヴォーギング・ハウス"には、それぞれ"ハウス・マザー"と呼ばれる母親的存在のリーダーがおり、人種差別と同性愛嫌悪が渦巻く環境で精神的危機にさらされている若者たちを迎え入れている。ヴォーギング界の伝説であり、あるハウスのマザーであるペッパー・ラベイジャ(Pepper LaBeija)は、その現実を映画のなかでこう言い表している。「両親から拒絶されると、子どもは外の世界に出ていき、その喪失感を埋めてくれるひとを探すものなの」

わたしたちは仲間・家族を作り上げることができる、家族とはわたしたちが作るもの——『パリ、夜は眠らない』は、そんな事実を美しく、そしてきらびやかに証明した作品だ。この映画が作られてから27年が経った今でも、ハウスのように弱きものを保護する人や空間は変わらず必要とされている。ペッパーの後を継いでザ・ロイヤル・ハウス・オブ・ラベイジャのマザーとなったキア・ラベイジャ(Kia LaBeija)は、ハウスが有色人種クィアのひとびとのための"サバイバル・ファミリー"として、そこに存在し続けているのだと語る。どこにも行き場がない人たちが「家」と呼べる場所だ。そこではミーティングが行なわれ、メンバー同士がお互いを支え、ヴォーギングではライバル関係として切磋琢磨する。「ハウスは、コミュニティ感覚と受容の実感、師弟関係、そして一生ものの友情と愛を与える場所」とキアは温かく言う。少数派には過酷ともなりうるこの世界で、ハウスはときに彼らにとって「危険から身を守ることができる唯一の場所」としても機能しているのだと彼女は言う。しかし、普段はただ純粋に、混じり気のない歓びのためにある空間なのだとも説明する。

デザイナーのチャールズ・ジェフリーは、自身が主催するイベント「LOVERBOY」で出会ったファミリーについて、こう話す。「ファミリーは、温かく安全な空間。本当の自分でいられる——少なくとも普段は勇気がなくてさらけ出せない自分の一面を、思い切りさらけ出せる空間」と。

現代社会を見渡してみてほしい。2017年、社会は変化し、核家族という概念はすでに崩壊し始めているのがわかるだろう。妊娠技術の進歩により、出産年齢は高くなっている。アプリやインターネットの存在により、パートナー選びにおいてわたしたちに与えられている選択肢は、祖父母の世代のそれよりもはるかに多くなっている。そこには、技術の進化だけでなく、個人の経済的状況の変化が大きく関わっている。不動産市場の現状では、イギリスの若者層が持ち家を所有するのは不可能に近く、結婚をして子どもをつくるのに慎重にならざるをえない——そして一方で、男女の賃金格差が徐々に改善されることで、女性が経済的に男性に頼らなくてもよくなり、女性がいつ、そしてどのように"落ち着く"かという選択の幅が広がる。これらの理由をもって、イギリスとアメリカでは結婚をする国民が減っており、一方で、未婚の親のもとで育つ子どもが増えている。また、自身をヘテロセクシュアル(異性愛者)以外のセクシュアリティと認識するひとが増えている現状も、「男が女と出会い、女は子どもを産みました」というかつてあった"家族"像の崩壊に大きく影響している。

いわゆる伝統的な家族の概念が形を変え、ひとびとが家庭をもつのが遅くなり、あるいは一生家庭をもたずに生きるひとも増える現代、わたしたちは(インターネット上でも現実世界でも)それぞれの"ファミリー"を築くようになった。政治活動をともにするファミリー、アート集団というファミリー、イベントで生まれるファミリーなど、わたしたちは多かれ少なかれ誰もが抱える"喪失感"を埋めようと、自分と考えを同じくするひとたちとつながる。そしてそれがファミリーとなり、「家族は決して血のつながりじゃなく、自分が築くものなのだ」というメッセージが世界に示される。ジョージア州アトランタの音楽集団Awful RecordsのラッパーFatherにとって、音楽でつながるファミリーを築くということは、自らが家長としての役割を担うことにほかならなかった。しかし、蓋を開けてみれば、ファミリーの仲間が自分を支えてくれているのだと気づいたという。友人の輪のなかで最初に商業的成功を収めた立場として、彼は仲間たちに道を示そうと、レコード・レーベルを立ち上げた。「過去2年ほどで、俺は仲間に住む場所を提供し、借金返済の道筋をつくって、たくさんの助言をしてきた」と、レーベルの長となったファーザーは、誇り高く話す。そして、ファミリーとは、与え合いによって機能するのだと付け加える。「俺が与え、彼らもまた俺に多くを与えてくれる。たとえば、俺が感情的になってしまいそうなときは、彼らがなだめてくれる。我を失ってるとき、彼らが心から心配してくれて、『正気を取り戻せ!』って言ってくれるんだ」

ロンドンのドラァグたちが作るファミリー、デニム(Denim)にとって、「ファミリー」とは共通のユーモアをもってつながることであり、共通の政治観をもって世界を見ることであり、喜びも苦しみもともに支えあって生きていくということなのだという。"ママ"と呼ばれているアムロウ・アルカディ(Amrou Al-Kadhi)は、同性愛を理由に両親から度重なる拒絶を受けてきた。彼は「家族」「ファミリー」という言葉に、恐怖で胃がしめつけられるそうだ。しかしデニムで、彼は、ともにパフォーマンスをする4人のドラァグ・クイーンたちとともに新たなファミリーを築き上げた。「デニムは、僕が両親から突き放されたことで抱えていた喪失感を埋めてくれる。常に支えてくれるとともに、自分が確かに何かの一員なんだという感覚を与えてくれる存在」と彼は説明する。「僕の両親はイスラム教のアラブ人。だから、愛してくれているあまり、そこに衝突と緊張が生まれる。それはデニムにもある——集団として、政治観について話し合うときには意見でぶつかるときもあって、そうやって僕たちは、どんな家族もそうであるように、お互いの考え方や視点について指摘し合うんだ」。デニムのドラァグ、トムはこれに同意する。トムは、デニムとしての7年間、彼ら5人が多くのことを共に乗り越えてきたと話す。そこには、「ほとんど盲目的ともいえる忠誠心がある」のだそうだ。トムにとって、「家族」とは忠誠心がすべての関係だとも付け加える。

キア、トム、アムロウは、自らが作り出した"ファミリー"が、特に矮小化されているひとびとに安堵と、"何かに属している"という感覚を与えてくれるもの、と口を揃える。現在の政治情勢は、悲しいことに、そのようなファミリーの必要性を増大させている。EU欧州連合を離脱するイギリス、極右勢力が勢いを増すヨーロッパ、そしてトランプ政権のアメリカ——いま、西洋は分断されている。右翼思想に傾倒する政治が台頭すれば、ひとびとの平等は損なわれ、社会は分裂していく。一致団結するべく、わたしたちは同じような視点で世界を見ている人たちと手を組み、政党の方針ではなく、あくまでも社会的抑圧を受ける者たちの利益を考える政治に共感して、社会に参加していくべきなのだ。「政治活動グループに参加することは、ファミリーの感覚を強く感じさせてくれる。多くの時間をともに過ごすことになるだけじゃなく、目的意識と政治的アイデンティティを共通して活動するから」と、ロンドンの政治活動グループLesbians and Gays Support the Migrantsのハリー・ジェファーソン・ペリー(Harry Jefferson Perry)は話す。今年初頭に世界で巻き起こったウィメンズ・マーチだが、そのほとんどが政治活動の経験がまったくない女性たちによって組織されていたのだとペリーは説明する。お互いに見ず知らずの女性たちが、「なんとかしないと」という共通の目的意識によって、あそこまで強い結びつきを見せたのだ、と。

政治の未来は見通しが悪い。そして、かつては絶対であったはずの核家族という概念もまた、その意味をしだいに失っていくだろう。しかし、だからこそ、"わたしたちが自ら築いていくファミリー"像は明るさを増している。そうしたファミリーを築くのに用いられる、ソーシャル・メディアが進化を続けているのだから、わたしたちは、そういったファミリーの可能性について考え、ファミリーが(個人的にも政治的にも)どのようにわたしたちに有益に働くかを熟考しなければならない。チャールズ・ジェフリーは、「普段は絶対に出会わないようなひとたちに出会う場所に、恐れることなく行ってほしい」と言う。彼にとって今もっとも大きな意味をもつ友人たちは、みなクラブのダンスフロアで出会った人たちなのだそうだ。彼らとの関係こそが、彼のもうひとつの家なのだという。アムロウは、「血のつながった家族と同じく、自分で築いたファミリーとも必ず衝突するときがある。でも、家族にはつきものの"押して引いて"の関係性があなたのファミリーの関係をおもしろくするし、それこそがファミリーの原動力になる」と言う。彼らが築くファミリーの関係は、「血は水よりも濃い」ということわざが、もはや現代には当てはまらないことを証明している。血のつながった家族もちろん素晴らしい。しかし、現代に生きるわたしたちを形成するのは、人生という旅の過程で出会う人たちなのではないだろうか。

Credits


Text Amelia Abraham
Image taken from Worn In – Charles Jeffrey
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.