『ザ・ビッグハウス』:想田和弘監督インタビュー

その町に暮らす10万人を丸ごと収容できる超巨大スタジアム、通称“ザ・ビッグハウス”。ここにはアメリカが誇る文化と抱える問題が、すっぽり集約されていた──。想田和弘は、ミシガン州の小さな町でなにを見たのか? 17名の共同監督らと共に観察するなかで浮かび上がってきた“アメリカ”とは?

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jun 7 2018, 5:29am

事前の調査や台本を拒否し、ナレーションや説明テロップ、BGMを排したドキュメンタリーの方法論「観察映画」を標榜する想田和弘が、はじめてアメリカにカメラを向けた。それが、名門ミシガン大学が擁する全米最大のアメリカン・フットボール・スタジアムを捉えた『ザ・ビッグハウス』である。

彼を中心にした17名の共同監督(学生13名を含む)による撮影は、2016年の米国大統領選挙が迫るその秋頃、つまりドナルド・トランプ大統領が誕生する直前に行われた。「最初は意識していませんでしたが、撮っているうちに選挙の影響が垣間見えてきました。奇しくもアメリカの転換期を撮ることになったわけで、それが反映されないわけがない」と監督自身が語るように、ヒラリー・クリントン支持者の姿がわずかに見える一方で、トランプ・ファンの熱狂が目に入ってくる。

©️2018 Regents of the University of Michigan

陸軍の陣取り合戦を模したゲームとしての成り立ちを持つアメリカン・フットボールは、最も戦争のイメージに近いスポーツと言える。さながら軍隊のように鎧や兜をまとい、集団で陣形を組み、戦略的に敵本陣を目指して衝突するのだ。

多種多様な人々が集う世界第2位の規模の施設──10万人以上を収容する──である通称“ザ・ビッグハウス”は米国の象徴的空間と化しており、そこから浮かび上がってくるものは、アメリカという国のアイデンティティであろう。

──まず〈観察映画の十戒〉から逸脱している部分があることについて伺えればと思います。今回の試みは、「カメラは原則自分ひとりで回す」という規則から外れていますよね。

「観察映画の十戒というのは、ぼく自身が帰れる場所であり、映画を作るときのガイドラインのようなもの。当然、制作の状況が変わる場合にはそのままでは使えないことがあります。今回の場合は、そもそもが(共同監督および製作を務める)マーク・ノーネスからミシガン大学に一年間客員教授として招かれ、そこで学生たちと一緒に映画を作らないかという誘いがありました。その状況からすると、「自分ひとりでカメラを回す」ということ、それから十戒のもうひとつ「制作費は基本的に自社で出す」も大学のプロジェクトなので守れないだろうということは最初からわかっていました。ただ、このプロジェクトに参加する前に確認したのは、ぼくらに編集権があるかどうかということです。これは映画の独立性を保つための十番なのですが、編集権は我々で確保できるということを最初に確認できたので、事実上問題ないと判断しました。カメラを自分で回すことは、観察映画の一番のコアではない。台本を作らず、なるべく予断を排して、よく観てよく聴きながらカメラを回し、そこからなにが見えるのかを編集の過程で発見する。その作り方ができるかどうかが最も大切なことでした」

──また冒頭、ミシガン・スタジアムの説明がテロップで提示されます。「説明テロップを原則として使わない」という部分からも逸脱していますよね。

「それははじめて言われました(笑)。あれもぼくひとりだったら、たぶんやらなかったと思うけど、あのくらいはまあいいかという感じ(笑)。マークの発案だったのですが、あまりにも前提となるものがミシガンの人とそれ以外の人とではギャップが生まれる。ミシガンの人には何の説明もいらないけど、それ以外の人にはあのぐらいの説明はないと映画を見るための前提条件が共有できないんじゃないかと。そう思って賛同しました」

©️2018 Regents of the University of Michigan

──『演劇1』(2012)での平田オリザさんふうに言えば、「イメージの共有」をほかの監督とどのように行われたのでしょうか。

「プロセスを言うと、みんなでまず試合を見に行って、それぞれが撮りたいものを言うわけです。「俺はチアリーダーが撮りたい」とか「厨房を撮りたい」とかみんなそれぞれ希望を出してくるので、それがあまり重ならないように授業のなかで一応住み分けをして、あとはそれぞれがバラバラに撮ってくるやり方にしました。ぼくもカメラを回しているので、撮影のときはみんなのことを監督していません。各々が撮ってきたものを授業でみんなで見て、そこで色々ディスカッション、あるいは批評していきました。それがイメージの共有の場所になっていたかもしれません」

──『演劇1』『演劇2』(2012)がplay(演じること)にカメラを向けていたとしたら、今回はplay(試合)そのものよりもむしろ熱狂する観客や取材陣、楽隊、チアガール、警備員など周囲に関心を向けています。これは総意として持っていたものでしたか。

「最初に見学に行ったときにあるひとりが「この映画は“everything but the game(試合以外のすべて)”についての映画になるんじゃないか」とポロっと言って、みんなそれに同意しました。それはなぜかと言うと、試合そのものは全米に中継されているから。それを我々が撮ってもあまり意味がない。人間が10万人集まるから、それを目当てに布教しに来る人もいれば、ゴミがいっぱい出るから缶やビンを集めて生計を立てる人もいる。みんながカメラを向けないものにカメラを向けた方が映画はユニークなものになるだろうし、面白い視点が提供できるんじゃないかという考え方でした」

──トランプ・アメリカの人種、階級、軍国主義、ナショナリズムの問題などが見えてきますが、これらは編集していく中で見つけていったテーマでしたか。

「撮影したものをみんなで授業で見るときに人種や階級の問題は学生たちの口から出ていました。例えば貧富の差というのはすごく目立つわけですが、その貧富の差が、結構人種の差だったりする。そういうことにはみんな敏感なんですよ。それからジェンダーの問題、男と女の役割、マッチョイズムなどについてもみんなが自分たちが撮ってきた映像を見ながら感想を言うわけですよね。「よく見ると観客としてゲームを楽しんでいるのは白人ばかりだ。だけど、厨房で皿洗いしてるのはみんな有色人種だよね」とか学生たちが気づくんです。そうするとそれはひとつの視点になってくるので、ある種、次の撮影には少し影響してきたと思う。そんな感じでいくつかのテーマはすでに撮影中から提示されてる部分がありました」

©️2018 Regents of the University of Michigan

──学生たちは多様な人たちなのでしょうか。

「13人の学生のうちふたりがマイノリティで、それ以外はみんな白人でした。アナーバー自体が8割ぐらいが白人の町なんですよ。かなりエリートの町で、半分ぐらいはミシガン大学の関係者です」

──これまでにも『演劇』のサッシ枠を拭き掃除するおじさんなど人知れず手入れし綺麗にする人々を収めてきましたが、今回も「アメフト大嫌い」と呟く清掃中の若い女性や選手のヘルメットを補修する人たちが印象に残ります。

「はい。普段は誰にスポットライトが当たるかと言えば、監督やコーチ、選手。ぼくらはそこではなく、そのスペクタクルなりエンターテインメントを支えてる人たち、普段は光の当たらない人たちにカメラを向けた。それは我々の最初から一貫した視点ではあったと思います」

──最も大きな影響を受けた人物としてフレデリック・ワイズマンの名を挙げていますが、彼とは異なり、想田監督はその場で浮かんだ疑問を直接訊くスタイルを採っています。声を入れることに最初ためらいはなかったですか。

「『精神』(2008)の頃から考え方を変えました。作り手が目の前の世界に対して影響を与えないわけがない。ようは、“観察”と言っても、作り手の存在も含めた世界の観察にならざるを得ないわけで、むしろ作り手と被写体の関係には面白いダイナミクスがあったりする。それを素直に撮っていく、それでいいじゃないかと方向転換したのが『精神』のときでした。『港町』(2018)はそれをフルに出してる映画だし、今回も学生たちが自然にやってましたね。聞くだけじゃなくて“すごいですね”などとコメントまでする。あのへんは伝統的なドキュメンタリーからすると抵抗があるようなことですが、若い学生にはそれもなかったようです。それはむしろいいことだと思いました。いわゆるジャーナリズムとしてのドキュメンタリーからは自由というか。なぜ声を入れてはいけないかと言うと、客観主義の影響なんです。ドキュメンタリーというのはジャーナリズムであり、したがって客観主義なのだという考え方が根深くあるので、そういう発想になるのだと思う。でもぼくはドキュメンタリーは客観主義ではなく主観でいい、ジャーナリズムではないのだと常々考えているので、当然、自分の声は入っていいし、コメントすらしてもいいという結論になる」

──参与観察によって被写体との対話があることで、より親しみやユーモラスな効果も生んでいるように思います。

「そうですよね。だからワイズマンとはそのへんが相当考え方が違うと思う」

──ただ、一方で本作が今までの想田作品のなかで最もワイズマンっぽいとも思いました。

「目指してなかったけど、完成してからぼくもそう思いました(笑)。たぶんそれは、特定の主人公がいないっていうのがあると思う。主人公はスタジアムであって、特定の個人じゃないから、最初から最後まで一貫して出てくる人がいない。それでワイズマンっぽくなった気がします。あと映ってる人たちがアメリカ人というのも大きいと思う(笑)」

──逆に『選挙』(2007)などではこれまで国外に住む者から見たエキゾチックな視線が交じっていたように思いますが、アメリカの象徴のようなスタジアムを日本で生まれた者の視点で撮影したことで生まれた視線はあったと思われますか。

「それはあると思います。ぼくの場合、ほとんど文化人類学的にアメリカを見てたところがあると思う。日本人にとって“アメリカ=グローバル・スタンダード”みたいに思ってるところがありますよね。この国はアメリカの属国なので(笑)、宗主国のことがスタンダードで、それが世界のスタンダードでもあるってイメージがある。だけど、実はそうじゃない。アメリカにはアメリカの奇習が色々あるわけで、ビッグハウスもそのひとつなわけですよ(笑)。だって10万人しかいない町なのに10万人のスタジアムが毎回満員になるって変な話ですよ。これは普通は絶対ありえないこと。外から人がいっぱい来ないと成り立たないし、しかもそれを全米にテレビ中継するとか非常にアメリカ的な現象なわけですよね。それをある意味、見知らぬ部族の変わった風習みたいな感じで撮ってるところがあります」

©️2018 Regents of the University of Michigan

──想田監督の作品では、小さな地域を見ることで、日本、あるいは世界で起こったほとんどのことがそこで起こっていることがわかってきます。例えば失業問題、移民問題、あるいは右傾化など、すべての問題が小さな地域を見ることによって見つけられます。

「それは目指していることですね。あれもこれもと、色々なところを見ようとしても中途半端に終わってしまう。観察を深くするためには対象を狭く限った方がいいということがひとつあります。でも狭いエリアはより大きな世界の一部なので、結果的に必ずより大きな世界の構造を反映しているんですよね。狭く非常に特殊な世界に思えるものを見ていても、そこには大きいものと相似形のものが入ってるようなところがある。ビッグハウスの中にも少なくともアメリカ社会の縮図みたいなもの──商業主義、軍国主義、あるいは経済、人種、格差などが詰まっている。そういう社会のエッセンスを、狭い領域の中からどれだけ抽出できるのかはいつも考えていることではあります」

──観察という行為には観察する側の物事の見方の変容を伴うと言っていますが、今回の作品を通して得た発見は何かありますか。

「この映画を作ることで、ぼくは何かアメリカの根っこを見たような気がしています。ぼくは93年からアメリカに住んでるのでよく知ってるつもりだったけど、改めてアメリカっていう社会を捉え直すような感じがありました。アメリカ人の価値観というのは“勝つこと”にすごく執着してることと、この国が戦争によって作られた国であることを実感しました。アメリカのスポーツ・イベントって軍と一体化してるところがある。でもそれに対して誰も違和感を持っていない。なんで軍に対するアレルギーがこんなにないのかと言えば、軍がこの国を作ったからなんですよ。独立戦争によってアメリカという国ができ、しかも同時にデモクラシーを獲得した。初代大統領ワシントンは独立戦争を率いた軍人ですからね。日本の場合は軍隊にものすごい酷い目に遭ったというトラウマがあるから、ある種のアレルギーみたいなものもある。例えば、早慶戦に自衛隊のパラシュートが飛んできたら、社会問題になるかもしれない(笑)。でもアメリカだとそれも普通。それがアメリカの根っこの部分にあって、だからこそ、アフガニスタンとかイラクに対して民主主義の守り手みたいな顔をして戦争を仕掛けて行ってるわけですよね。それはアメリカ自身もイギリスによる支配と封建社会を武力によって打倒したという成功体験があるから、そういう発想になるのだと思う。そういうアメリカの価値観みたいなものがビッグハウスの試合やその合間、あるいは設定そのものに凝縮されているような気がします」

──軍と一体化してるというのはどういった点ですか。

「例えば、国旗を掲揚するときに軍人がそれをやったり、あるいはハーフタイムに軍人を表彰したり──この映画だと女性のパイロットが顕彰されてますが──、あるいは映画の冒頭にあるように米軍の特殊部隊が試合を盛り上げるためにわざわざ飛行機から飛び降りてくる。あれがないときにはフライ・オーバーといって戦闘機を上に飛ばしたりする。実際、会場にも軍人はたくさんいます。だからビッグハウスは、ある意味で軍の威信やイデオロギーを維持していく装置にもなっているわけです。また毎回国歌斉唱をやることでナショナリズムを維持する装置でもある。だからそういう風にしていつでも戦える状態を作っている」

──「トランプを支持する中国系米国人の会」という横断幕を掲げた飛行機が飛んでいますが、あれはなんなのでしょう。

「ぼくらもよくわかんない(笑)。あれ見てみんな笑うんだよね。学生がたまたま撮ったんだけど、映像を見てはじめてそういう存在に気づきました。でもそういう不可思議なことが起きる。10万人に宣伝する機会として、ああしたバナーをお金をかけて飛ばすってことは、ふざけてるわけじゃないわけで、そう考えると闇は深いよね」

──今回は今までよりも撮影中に作品全体のイメージがしにくかったのではないかと思います。編集している段階で方向性を見つけていきましたか。

「それはありますね。最後に学長が演説する場面がありますが、あれは撮った瞬間に“もしかするとラストになるかもしれない”と思いました。あれはぼくが撮ったのですが、その場にいたマークには寄付を集める何の変哲もないスピーチに見えたみたい。でもぼくのなかでは今まで見てきたものをひとつの方向性に位置付けるような力を持った場面なのではないかと撮った瞬間に思ったんです」

©️2018 Regents of the University of Michigan

──撮った瞬間にですか?

「あそこで学長が話されてるのはお金の話ですよね。それまでお金の問題をずっと見てきました。例えば、10万人分のチケットを毎回売るだけでなく、グッズを売ったり、テレビの放映権を売ったりと、色々な経済活動が行われています。ビッグハウスというのはある意味、ミシガン大の経済を支えているわけで、これがないとミシガンは重要な経済基盤の柱がひとつ失われてしまう。だって、アメフトの試合で卒業生の関心をミシガン大に引き留め、彼らが寄付をして、そのお金で大学を運営してるわけだから。州立大学なんだけど、いまは一般財源の16%しか税金が入ってない。それ以外のものは全部自分たちで調達しないと、大学として生き残っていけない。そういうときにビッグハウスが、ひとつの巨大なビジネスとなって、寄付を引き付け、大学の経済を支えている。そのことが見てればだんだんわかってくるから、最後のスピーチを撮ったときには核心に触れた感じがありました」

──観察というプロセスは映画製作を超えた哲学的な運動でもあると言っていますが、製作していく中でこのような考えに至ったのでしょうか。

「もともとはTVドキュメンタリーを作ってるときに、あまりにも目の前の現実よりも台本を優先させてしまうような姿勢に違和感があったこと、それから何でも懇切丁寧に作り手が説明することによって観客が自分の目と耳を使って観察するような余地が残されていないことに対する問題意識がありました。そこから「観察映画」と名乗って自分の映画を作りはじめました。ただその当時以上に、いまは普段の生活でよく観ること、よく聴くことが蔑ろにされていることを痛感します。台本主義的で、スピードが速くなりすぎて情報の洪水が起きてるから、みんなひとつひとつの情報をちゃんと観ないし聴いていない。象徴的なのが人々がスマートフォンをずっと見ていること。スマホって本当にやっかいなもので、あの人にメール送らなくちゃと手に取っても、通知が目に入って気をとられていると、いつのまにか何をしようとしてたか忘れちゃうことがよくある。スマホにはそういう気を散らす装置がいっぱい詰まってる。たぶんそのせいもあって、普段の現実の世界に対しても堪え症がなくなり、アテンション・スパンがものすごい短くなってる気がします。これは現代の一種の病気だと思う。かといってスマホをもう使わないってわけにもいかず、付き合っていくしかない。でもせめて自分たちがそういう病気にかかってることを自覚しながら付き合っていかないと抜けられない病気になっていくと思う。そのときに“観察”というキーワードは、ますます大事になるんじゃないかなという気がしています」

ザ・ビッグハウス
2018年6月9日(土)より渋谷 シアター・イメージフォーラムにてロードショー、ほか全国順次公開