米国の文化を一変させた70年代のアーティストプログラム
エリート層の高尚な活動ではなく、人民による、人民のためのアートを。激動の時代の画期的なアーティストプログラムを振り返る。
Four boys, Myrtle Avenue, Brooklyn, 1979. Larry Racioppo
米国のキャリア政治家たちは公の場では社会主義的な政策に反対しているものの、米国政府は幾度となくそれを取り入れ、資本主義が経済にもたらした弊害を是正してきた歴史がある。世界恐慌のさなか、政府は公共事業促進局(Works Progress Administration: WPA)のような機関を発足し、850万人以上の雇用を生み出した。そのなかには、ゴードン・パークス、ウォーカー・エヴァンス、ドロシア・ラング、ベン・シャーンなどのフォトグラファーも含まれる。
米国の窮状に肉薄した彼らの作品は世論を方向づけ、ニューディール政策による大規模な改革の支持を強め、その結果、米国の数百万の家庭と企業への住宅供給、支援、保護をもたらした。社会主義的政策は経済の安定、インフラ整備、土地の保全を後押しし、戦後の成長への確固たる基盤を築いた。しかし、国際的な超大国へと急成長を遂げていたこの国において、貪欲な企業が二度目のウォール街大暴落を引き起こすのは時間の問題だった。

1970年代はじめ、米国は〈スタグフレーション〉、すなわち物価の上昇と世界恐慌以来最長の経済停滞によって引き起こされた景気低迷のまっただ中にあった。OPEC(石油輸出国機構)第一次オイルショックによってダウ平均株価は約45%下落するなか、当時のリチャード・ニクソン大統領は社会主義思想を取り入れた。1973年12月、彼は包括的雇用訓練法(Comprehensive Employment and Training Act: CETA)を連邦法に導入し、労働者を訓練して公共サービスに従事させる全国的な制度を構築した。
「共和党員として、ニクソンは連邦政府の権力を地方に分散させ、州の力を強めようとしていました」と説明するのは、NPO〈City Lore〉の共同ディレクターで、〈ART / WORK: How the Government-Funded CETA Program Put Artists to Work〉展のキュレーターを務めるモリー・ガーフィンケルだ。「彼にとって、CETAとはワシントンDCから資金を引き出し、それを地方の自治体や政治家の手に委ねる手段でした」

同時に、民主党員は公共サービスの構成員の必要性を強く訴えていた。民主党の目的は、1965年の国立芸術基金(National Endowment for the Arts)の設立など、リンドン・ジョンソン大統領の〈偉大な社会〉構想を引き継ぐことだった。しかし、CETAにはアーティストが労働人口に加わる具体的な条項は含まれなかった。「そこで活路を開いたのは、アートコミュニティの創意工夫でした」と共同キュレーターのジョディ・ワインバーグは語る。「最初のアーティストプロジェクトは、ワシントンDCの労働省行政管理予算局に務めたあと〈San Francisco Arts Commission〉に加わったジョン・クライドラー氏が考案したものです」
このプロジェクトが軌道に乗ると、他の都市もすぐその後に続いた。1974年から1980年までの間に、2万人を超えるアーティストとサポートスタッフがCETAを介して雇用され、これは公共事業促進局以来最大の連邦政府資金によるアートプロジェクトとなる。ニューヨークでは1978年、〈Cultural Council Foundation(CCF)〉がCETAアーティストプロジェクトを発足。300人のアーティストに年間450万ドルを出資し、さらに地方団体や舞台芸術の企業との直接的な連携やプロジェクトチーム、もしくは幅広い公共事業のために、年間1万ドル(現在の価値に換算すると530万円近く)の手当を支給した。

フォトグラファー、画家、詩人、ダンサー、パフォーマーが刑務所、学校、美術館、図書館、介護施設で働き、同時にCCFが外注していた〈Black Theater Alliance〉〈Association of Hispanic Arts〉〈Association of American Dance Companies〉などの著名な組織のプロジェクトに携わった。さらに200人のアーティストが、〈Hospital Audiences〉〈La Mama ETC〉〈American Jewish Congress〉〈Theater for the Forgotten〉などのCETAが後援する4つの請負業者を通して就職した。
「当時のNYは破産寸前で、あらゆるサービスが削減されていたにもかかわらず、アートとの関わりは増えていました」とジョディはいう。「このプロジェクトは、アートの分野でさまざまな声、表象、フォーマット、伝統の広がりについて考えるきっかけになりました。いろんな意味で、この分野を切り拓いたのです。アートの世界で適切なコネクションを持っていなかったアーティストに、キャリアを積む重要なチャンスを生み出しました」

CETAアーティストプロジェクトは、ダウード・ベイ、メリル・マイスラー、ラリー・ラチオッポ、ペルラ・デ・レオンなどのフォトグラファーの駆け出し時代を支えた。1970年代のNYにアートと文化を根付かせるべく、CCFや他の請負業者は、マンハッタンのローワーイーストサイドのユダヤ系コミュニティやサウスブロンクスのプエルトリコ系コミュニティなど、地元の民族居住地を守るために写真を活用した。その作品は、アート制作や展示の可能性について再考する〈Colab〉〈A.I.R. Gallery〉〈11th Street Photo Gallery 〉などのアーティスト集団とともに、当時のDIY精神を捉えた。
「CETAアーティストプロジェクトは、NYでのオルタナティブなアートムーブメントを背景に始まったものです」とジョディは説明する。「アーティストはスタジオや健康保険、病気休暇など、自分自身の当面のニーズに直接応じるかたちでインフラを整えました。芸術活動の高尚な空間から抜け出し、アーティストをより広いコミュニティに根ざす一般市民とみなす動きが広がっていったのです」

しかし1980年、ロナルド・レーガンの当選によって、状況は一変する。「残念ながら、NYのアーティストプロジェクトが定着し始めた直後に、政治的な展望が大きく変化しました」とモリーはいう。米国の労働人口に7年もの歳月と510億ドルが投じられたあと、レーガン政権は大幅減税を実施し、その結果数千人が職を失った。
それによって、CETAは歴史書から姿を消した。その遺産は、〈CityLore〉や〈Artists Alliance Inc.〉などの団体に再発見されるのを待つばかりだ。「名声を得たアーティストやその作品に焦点を当てるというより、CCFはアーティストを人として思いやり、彼らのインスピレーションやモチベーションを知ろうとしたのです」とモリーは指摘する。「CCFにはフォトグラファー3名、ライター3名、アーキビスト1名から成る情報管理部門がありました。彼らはこの非常に珍しくユニークなプロジェクトを守り、記録しなければ、という責任を感じていたんでしょう」

それから40年、CETAアーティストプロジェクトの指針は、今もアーティストとして生活し、働くとはどのようなことか、という議論の中心に残り続けている。アートとは決してエリート層だけの排他的な活動ではなく、人民による、人民のための日常生活の一部なのだ。
〈ART / WORK: How the Government-Funded CETA Program Put Artists to Work〉展は、2022年3月19日にニューヨークのArtists Alliance Inc.'s Cuchifritos GalleryとProject Spaceで、3月31日にCity Lore Galleryで開催。