『VIDEOPHOBIA』宮崎大祐監督と考える、現代の恐怖症とアイデンティティのゆくえ

『大和(カリフォルニア)』『TOURISM』の宮崎大祐最新作は、「見る/見られる」ことへの恐怖を複層的に描いたサイコスリラー『VIDEOPHOBIA』。私たちは何を恐れ、何に悩んでいるのか。監督へのインタビューから現代社会の病につい考える。

by RIE TSUKINAGA
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15 October 2020, 2:00am

『大和(カリフォルニア)』(2016年)『TOURISM』(2018年)で注目を集めた宮崎大祐監督の最新作『VIDEOPHOBIA』は、モノクロームの映像で映し出される現代のサイコスリラームービー。主人公は、大阪のコリアンタウンで暮らす29歳の女性、青山[朴]愛(廣田朋菜)。女優になる夢を諦めきれずにいる愛は、ある日、一人の男(忍成修吾)と出会い一夜を共にする。だがその動画をネット上にばら撒かれたことをきっかけに、彼女の日常は恐怖と不安にまみれていく。

ここには、現代社会に巣食ういくつもの病、そしておぞましい暴力がある。映画は、表層的に生きる人々の姿を冷ややかに見つめながら、その深層心理を追求し、同時に、社会の奥深くに眠る闇を暴き出す。常に現代的なテーマを掲げ、野心的な映画制作スタイルを追求する宮崎大祐監督に『VIDEOPHOBIA』が描く現代の病についてお話をうかがった。

恐怖症(フォビア)を描く

正直、今回の映画は話より先にタイトルを思いついたんです。なんとなく恐怖症(フォビア)の映画を作りたいなと思っていたのと、これまでわりとポップな映画をつくってきたので、次は何かホラー映画みたいなジャンル映画をやりたいなという思いがあって。もともと僕は高所恐怖症で閉所恐怖症。それから子供の頃は昆虫が大好きだったのに、20歳頃に突然家に迷い込んだカマキリに触れないということに気づいて、この心理状態ってなんだろうって興味がずっとあった。仲の良い友達にも、ヴィデオフォビアと言っていいかわからないけど、スマホやパソコンについたカメラを全部塞いでる人がいるんです。自分にスマホを向けられることにも敏感で。たぶんみんな何かしらそういうものがあるんじゃないのかな、と思って、そこから恐怖症(フォビア)への興味が大きくなっていきました。それでどういう言葉がいいかと考えていたら、クローネンバーグの『ヴィデオドローム』(1982年)が大好きなのもあって、ふと「VIDEOPHOBIA(ヴィデオフォビア)」ってどうかなと思いついた。完全に造語というわけではないけどなかなか聞かない言葉だし、何よりかっこいい。直感ですぐに映画のタイトルに決めました。

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©「VIDEOPHOBIA」製作委員会

見る/見られることへの恐怖

今の時代、ヴィデオにかぎらず、どこに行っても人に見られている気がするとか、逆にすべて見せなきゃいけないと思い込む、そういう強迫観念ってありますよね。自分の幸福さや目の前の美味しいものを写真に撮ってネットにあげずにいられない、人に見せないとそれを実感できないとか。そもそも映画は眼差しが必然的に発生するアートでもある。考えていくうちに、眼差しにまつわる問題、いわば「見る/見られる」ことへの恐怖へと徐々に関心が移っていきました。

一方で、僕はそのとき語りたいことを全部映画に入れたくなる。話をどんどん広げながら、自分の興味対象にそのテーマを配分していくのが自分の映画の作り方とも言えます。だから「見る/見られる」ことへの恐怖というテーマもどんどん広がっていきました。たとえばデジタルデバイスに一度ある映像が記録されてしまうと、本人が死んだあともそのデータは生き続けるし、いつか人類が滅びてもデータ自体は電波として宇宙空間を彷徨っていく。それってある種の呪いだし、映画もまさにそうですよね。幻のフィルムが発見されたとかあの名作がデジタルリマスターされたとか聞くと、素直に素晴らしいと思う。でも一方でFacebookとかで亡くなった方の記録が大量に残っているのは恐ろしくもある。いわば映像の持つ呪いと福音の両面性ですね。

SNSという病 

今SNSを開くと、自分の思想に近い情報だけがアルゴリズムによって垂れ流され、それ以外の情報はほとんど流れてこない。そうすると、一見それぞれの嗜好が保護・尊重される形で細分化されているように見えるんですけど、実際はクラスター間のやりとりが断絶され、所属グループ内での正しさが一般的な意見なんだという錯誤を起こし、個々の孤立がより深まっているように僕には思えます。私は圧倒的に正しい、そして正気を保っている「常識的な」私の仲間は身近なところではなく世界のどこか(つまりそれがTwitterのタイムラインだってことなんですけど)にいるんだ、という異常な二分化の世界が進んでいるのが現代という時代です。ジェンダーの対立も結局そういうことですよね。西洋思想の追求のなかで進められた身分やジェンダーの解体は、本来多様性を認めあい共生する方向を目指していた。それがなぜか「私だけが正しい」という方向へどんどん島宇宙化が進んでしまい、その結果、誰もが自分の正当性を掲げて争いあうようになってしまった。これはもう完全にSNSのせいだと思う。

そしてここ数年、そういうポスト・トゥルースや相対主義的傾向と並んで新実在論なる思想の流れが出てきた。何が起こるかわからない、ふとドアを開けると梟がいるかもしれない、そういう新実在論的なたしかではない、バラバラになってしまった世界を映画のなかでは描こうとしています。

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©「VIDEOPHOBIA」製作委員会

自己と他者の関係性

自分ってなんだろう、という意識にかられたときって、人は外から命令や規定をしてくれる、ある種の高さを求めちゃうんですよね。身近な例でいうと、友人に「あなたはこういう人間ですよ」と決めてもらったり、占いで「今日のあなたはこうです」と言ってもらえないと不安になる。主人公が参加する演劇ワークショップのシーンではこれと同じように「あなたはこうです」「こんなの本当の君じゃない」と外から判断される。判断してもらっていると言ってもいいかもしれません。ああいう描写は神などの強い権力から解放されるために進化してきたのに、結局そこにすがるしかない人間の現状への皮肉と哀しみが描かれています。

また、僕自身が昨今の映画界におけるワークショップ文化に抱いている強い危機感と憤りをこのシーンに反映したのかもしれない。これに関しては、労働環境をめぐる問題も大きく関わっていますけど。

西洋哲学の歴史で言うと、人間は外側からしか規定できないという考えが今では強い。だけど本当にそうなのか、ってことはよく思う。哲学で頻繁に使われる「他者」という概念が実体を持たない時代になっている気がして。もちろん他者は重要だけど、他者によって自分が規定されるっていうこれまでの概念をいま一度吟味したい。それこそコロナの影響で接触禁止になり他者といつになく距離ができた時代に自己をどう確立するのかを改めて考えたい。抽象的で空っぽな他者に頼らず、外側の高さにも頼らず、自己を規定することはできないのか。その足掻きがこの映画に映されている気がします。

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©「VIDEOPHOBIA」製作委員会

アイデンティティの危機

主人公の青山[朴]愛という女性は、在日コリアン3世で帰化はしていない、という設定ですが、それはもう意図的に触りとしてしか描いていません。ただこれが思考や探求のきっかけになってくれたらいいなとは思っています。そもそも国籍もジェンダーも、「これだからこう」って決めつけること自体がすごく異常に思える。究極的には名前がなくてもその人はその人だし、国籍なんて本来はパスポートがどうとか事務処理上の話に過ぎないのに、なぜか人間はお互いを型にはめまくって生きている。その方が楽だから、便利だから。そういう肩書きや枠組みがだんだん溶解していく感じを、主人公を通して描きたかった。日本の戸籍制度や在留資格をめぐる制度自体もくだらないものとしてアイロニカルに描いているところはあります。

この映画でいうと、後半ふいに登場するある女性が果たして誰なのかも究極的にはわからない。それでも観客はきっとあれを同じ人だと思って見る。それってやっぱり映画という枠組みに我々が慣れきっているから。そういうことへの挑戦を、全シーンごとにやっていったつもりです。クローネンバーグの『ザ・フライ』(1986年)という映画で、蠅の姿になった「彼」はまだ「彼」なのか、という重要な問題が出てくるのと同じで、完全に別の何かになった「彼女」を、元の「彼女」を愛していた人はまだ愛せるのかってことも。

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自助グループの存在

愛は、前半では演劇ワークショップで「お前は一体誰なんだ」と問いかけられ、後半では自助グループのセラピーに参加し「所詮あなたもみんなと同じなのだ」と言われながらそこにはまらない「自分」を発見するよう求められる。アメリカ映画によく出てくる自助グループの描写が、なぜかすごく好きで。自分でも興味を持って論文とか読んでどうやら最近の療法はこんな感じらしいっていうのを、映画のなかで出してみました。不幸な経験をくりかえし共有したり、ときには再現したりすることで自分の経験を客観的に見られるようになるみたいです。たしかにあのシーンを演じてもらったとき、みんな何か宗教的な高みに行く瞬間があったんですよね。自分たちで高さをつくりだすことで気持ちよくなるというか。でもあのセラピー自体も、おわかりのように、本当にこれで幸せになれるのか?と僕は疑っています。やはり外側から定義されないと人間って自分を確立できないんでしょうか。

セラピーでは、あえてみんなが同じ体験として同じ言葉を言い続け、共通項をつくることで自分の唯一固有の体験が薄まって相対化される。一方で、そこに自分ならではの違いを付け足すことで、反復のなかに何か新たなグルーヴが生まれていく。そのこと自体は、自分の映画でずっとやってきたことでもあるんです。同じことをずっとやってるんだけど、自分のささやかな何かを足すことで不思議な遠心力、求心力が生まれる。音楽でいうファンクを演出でやっています。

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理解不能な他者を映すこと

『大和(カリフォルニア)』『TOURISM』『VIDEOPHOBIA』となぜ女性が主人公の映画ばかり作るんだってことはよく言われます。男性の物語やキャラクターに興味がないわけではないんですが、同性である男性を通して世界を見ると、「ああやっぱりね」という保守的な共感に陥りやすいんです。娯楽と割り切ってそういう映画を見ることにはまんざらでもないですが、そこに僕の映画的関心はない。それよりも、まったく見たこともない、想像もつかないことが蠢きあっている世界を人に見せたい。思いもよらない視座を与えたい。それが結果として圧倒的他者である女性を主人公にすることになっていくのかもしれない。そこからさらにもう一歩、男でも女でもない何か、みたいなところにまで映画を持っていくのが目下の目標です。

理解不能なものを見せられて思わず佇んでしまう、ぎょっとしてしまうって体験は映画だけが持ちうる力なはず。そういう不気味なものを知ったり理解を深めたりするものこそ映画であってほしい。スペクタクルって子供の頃はスピルバーグの映画のようなものだけだと思ってたけど、それだけじゃなくて、ささやかなスペクタクルみたいなものがあるんじゃないか。自分の映画では、そういうものを追求したいですね。

『VIDEOPHOBIA』

10月24日(土)よりK’s cinema、11月7日(土)より池袋シネマ・ロサ、第七藝術劇場、他全国順次公開

監督・脚本|宮崎大祐

音楽|BAKU(KAIKOO)

プロデューサー|西尾孔志

撮影|渡邉寿岳

録音|黄永昌

製作|DEEP END PICTURES、十三・シアター・セブン

出演|廣田朋菜、忍成修吾、芦那すみれ、梅田誠弘、サヘル・ローズ

2019年|日本|88分|モノクロ

配給・宣伝:boid/VOICE OF GHOST

宣伝協力:クエストルーム株式会社

Tagged:
Film
mental health
Interview
Film Director
Daisuke Miyazaki
VIDEOPHOBIA