Helno. 

80年代初期のパリ・パンク

『アメリ』的な世界観だけれどパンク——スピード写真に残された、思い出のパンク・シーン。足元はDr. Martensじゃなくて、サンダル。ソーセージのイヤリング、モップのタイ……。

by Micha Barban Dangerfield
|
04 April 2017, 2:35pm

Helno. 

2017年になっても、パンクは私たちの心をゆすぶる力を持っている。「その過去をもっと知りたい」という思いも私たちの心に燃え続ける。現在の政治的・文化的情勢は、70年代後半のそれと酷似している——パンクを生んだ、あの時代と。ひとびとが動揺し、大きく分断され、不平等が叫ばれる中、新たな意識と強い反抗の精神が生まれた。パンクに関する話となるとイギリスばかりに目がいきがちだが、海峡を隔てたフランスでも独自のパンク・シーンが生まれていた。しかし、それは文化的資料として残されていない——と思われてきたが、よく探してみると、そして探すべき場所さえ分かっていれば、宝石のごとく輝く当時の記録に出会うことができる。スピード写真として残されているそれら記録は、ひとりのフランス人パンク男性のもの。ほとんどはスピード写真ボックスで撮られた写真で、それらを保管していた友人たちが「若かりしパンク時代の自分たち」としてFacebook上で公開しているのだ。そこには、音楽やアナログの映像を共に撮影し、パンク・スタイルを模索して、世界に対し中指を突き立てた、彼ら"ファミリー"の生命感と自由が見事に捉えられている。i-Dフランスは、その写真に写っている、パンク/ニューウェーブバンドLucrate Milkの元メンバー、ロール(Laul)を見つけ出した。そして彼は、大切な個人のコレクションを披露し、若きパンクであった頃の話を聞かせてくれた。

Masto

自らのうちに初めてパンク精神を感じたときのことは覚えていますか?
うん。1976年だか1977年だかに、テレビの音楽番組を観ていたときのことだったと思う。Sex PistolsやDamnedが生演奏をしていて、「なんてストレートな表現なんだ!表現ってこういうものか!」と思った。パンクは、心の叫びなんだと思ったね。Sex PistolsやDamnedのメンバーは、素の感情を体いっぱい表現していた。そこにはハーモニーなんかなく、ただ激情だけがあった。歌詞がわからなくても、彼らの怒りは理解できた。

パンクというムーブメントは、あなたにとってどのような意味を持っていましたか?
僕はとても厳格な教育を受けて育った。パンクのムーブメントは、僕にとって素晴らしい逃避の世界になった。抑制されていた自分が、パンクの出現をきっかけに、自由になれたと感じたよ。洋服はそれまでも好きだったけど、パンクに触発されてからは自分のアイデンティティをもっと探ってみようと思った。後にパンクのムーブメントは"レザー・ジャケットにキルト、モヒカン"という服装ばかりが一人歩きしてしまったけれど、当初は皆がクリエイティブに、それぞれの解釈でパンクを体現していたんだよ。

どんな服装をしていたのですか?
父や祖父の服を盗んで、自分でカスタマイズしていたよ。時計を分解して、部品をジャケットに取り付けたりした。ソーセージをスライスしたものをイヤリングとして耳につけたり、ハムの皮をバッジにしたり、モップをタイとして身につけたり。Dr. Martensのブーツじゃなく、サンダルを履いてたね。ロッカーやテディボーイ、スキンヘッド、警官なんかに目をつけられると、袋叩きに遭ったもんだよ。だから、地下鉄に乗るときは気をつけなきゃならなかった。でもね、そうやって人とは違う自分でいるのが楽しかった。侮辱されたりするのは気にならなかった——それもパンクでいることの一部だと思ってたからね。

Photo in the bottom middle: Francis Campiglia

バンドを結成していたんですよね?
そう、ルクラート・ミルクという、風変わりで、アートっぽくて、退廃的なバンドだった。アーティストが集まって作ったんだよ。マストとガボニは写真家で、ニナは画家、僕はグラフィック・デザイナーの端くれだった。ただ一緒に何かがやりたくてね。誰を喜ばそうという意図もなかった。映像作品を作りはしても、テレビで流してもらおうなんて考えなかった。当時のパンクといえば、髪をダークな色に染めて、平和主義的なアイデアを掲げていたものだけど、僕たちは髪を脱色して「戦いよ永遠なれ!平和主義なんて糞食らえ!」って歌ってた。僕たちは悪ガキで、怒りを表現したかった。そのうち周囲の評価が高まってきて——そんな状況に吐きそうだった。だからそのあとすぐに解散した。僕たちは有名になりたかったわけじゃなかったからね。ニナは気まぐれで、「土曜はギグなし。家で『ダラス』が観たいから」なんて言ったりしてね。最高だよね。ニナは今、画家として活躍してるよ。

あなたとお友達はずいぶんとたくさんの時間を写真ボックスで過ごしたようですが……。
当時、写真ボックスは人気だったんだよ。誰でも楽しめるものでどこにでもあった。人間はいつか死ぬ。死に向かって、人間の顔は刻一刻と変わっていくんだ。だから今という瞬間の自分を残しておきたいと思ったんだ。グラフィティと同じ発想だね。写真ボックスにはたくさんの楽しみ方がある。ポーズをきめたり、変な顔を作ってみたり、大勢でむりやり写真に収まるようぎゅうぎゅう詰めになってみたりね。「誰が一番面白いものをボックスに持って来れるか」っていう競争をしたこともあったな。操り人形を持ってきたり、犬を連れてきたりする奴がいたよ。マストが、近くにあった乳母車から赤ちゃんを連れてきて、その母親にコテンパンにやられたのをきっかけにその競争はやらなくなったけど。写真は、プリントする前にDIYで加工を加えることができたんだ。ふたつに折ることで二重露光の効果を生んだりね。写真ボックスの下に捨てられていた写真も拾って集めたよ。

写真の被写体は、あなたとどのような関係にあるのでしょうか?
僕が作り上げたファミリーだね。いとこみたいな関係。僕にとって、これらの写真は家族のアルバムみたいなもの。昔は、サッカーカードみたいにみんなで写真を交換しあったりしたよ。その後も、僕たちは写真に自分たちを残し続けた。思い出がたくさん詰まった、真の記念品だね。

LauL

当時のあなたと友達についてもう少し教えてください。
無我夢中になれる瞬間を追求していたね。もう子どもではないけれど、大人でもないという年頃。縄張り争いにはまったく興味がなかった。知らない地域や、打ち捨てられた建物、墓地、病院、地下墓地——写真映えするような光景を探して歩き回るのが好きだった。ペール・ラシェーズ墓地に潜り込んで、墓石からはしごをかけて隣の墓石まで移るっていうのを繰り返して、地面に触れず誰が一番速く墓地の端まで辿り着けるかという競争をしたりもしたよ。すごく楽しかったけど、見つかったら大変なことに……アドレナリンは、一番安く手にはいるドラッグだよ。『アメリ』みたいな世界観だけど、同時にすごくパンクだったね。

2017年も、パンクでいることは可能でしょうか?
今朝、ちょうどそんなことを考えていたんだよ。パンクは、音楽からデザイン、情報の伝達手段、ファッションまで、ありとあらゆるものに影響を与えた。今の世界、誰もがその影響を多かれ少なかれ受けている。論理的には誰もがパンクだけど、現代は、パンクであるうえに、環境保護主義だったりベジタリアンだったりしなきゃならない。パンクは自覚であって、ムーブメントとして「こうあるべき」「あああるべき」と押し付けられるものじゃない。それぞれが独自のヴィジョンを持ち、独自の解決方法を見出すべきなんだ。誰かが行動に移してくれたり、反応を起こしてくれたりするのを待ってちゃいけない。今こそパンクにならなきゃ。

Nina Childress 

LauL

Photobooths with make up: the filming of L'Affaire des Divisions Maurituri, F.J Ossang 

LauL

Les Lucrate Milk 

Nina, Masto, Gaboni, Laul, Helno, and others from the Raya

Les Lucrate Milk

Les Frères Ripoulain with Nina and Masto 

Koja

Helno 

Masto

関連記事:パンクはどう歳をとるのか?ジャパナーキー:イギリス人が写した東京パンク

Credits


Text Micha Barban-Dangerfield
Scans Jérôme Lefdup
Photos / Archives taken from the DVD Le Posthume Trois pièces de Lucrate Milk, the DVD Lucrate Milk - Archives de la Zone Mondiale and LauL's personal collection. 
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.

Tagged:
Culture
punk
80's
i-d france
french punks