『心と体と』:イルディコー・エニェディ監督 interview

コミュニケーションが苦手な女と臆病な男——ふたりが見るのは鹿の夢。18年ぶりの最新作『心と体と』で2017年ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した監督が、趣向を凝らした音響デザイン、夢と現実の関係性、名優ゴーリアー(鹿)との撮影を語る。

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apr 16 2018, 5:08am

portrait by Eriko Nemoto

——『心と体と』は、食肉処理場が舞台となっています。これは、タイトルに含まれる「心」と「体」という二つのうち「体」の部分、つまり世界や人間の「もの」としての側面を強く意識させる場所だと思います。さらに、私たちが普段見たくない現実、あまりにリアルすぎるリアルが露呈している場所でもあります。

そのとおりです。私もそう考えて、あの場所を作品の舞台としました。付け加えて言えば、食肉処理場が「体」に関する場所であり、そこでは魂や複雑な心を備えた存在がひとつのオブジェクトとして扱われるにしても、私はそこから「心と体」の両面について観客に考えてもらいたいと思ったのです。言ってみれば、私はこの映画の人間的な物語を、牛の視点から覗き見るかのように生きてみたいと考えました。朝とても早く、食肉処理場で私たちが撮影を始めたとき、牛たちはワゴンの中で自分たちが殺されるのを辛抱強くただ待っていました。私たちはカメラを囲う檻を作って、トラックに乗せました。カメラは牛たちと一緒に人間を見ていたのです。これは私にとってとても重要なことでした。
また一方で、例えばマーリアがエンドレに心を開くとき、彼女はそれを相手に触れるといったフィジカルな身体的表現を通じて行います。それはまるで、肌に当たる太陽の光を感じるようなものです。だから、「心と体」の両者は対立するものではありません。別々のものだとさえ言えないでしょう。これら両者の相互干渉こそが私の関心だったと言うべきかもしれません。

——牛たちと労働者たちは同じように太陽を見つめます。

両者の平等性を示したかったのです。彼らは同じ時間を共有します。素敵な朝です。ここから、二人の主人公が登場する場面へとつながっていきますが、役柄としては小さい他の登場人物も同様に重要なのです。彼らはこの同じ時間を動物たちと共有します。ただ、動物たちにはこれが彼らにとって最後の瞬間であり、最後の夜明けなのです。

——この映画はまた、エンドレが働く職場の共同体にマーリアやシャンドルという青年、さらに警察といったストレンジャーが外からやってくる物語構造になっていますね。そして彼らはしばしば食堂で顔を合わせます。

映画の冒頭では、管理職が2階の事務所から労働者たちを見下ろすショットがあります。彼らは自分たちでは屠殺を行わず、その手を血に染めません。この両者はまったく異なる世界にそれぞれ属しているわけですが、しかし食事をするためにはともに食堂へと赴く。そこで顔を合わせるわけです。労働者たちは朝コーヒーを飲む習慣を儀式のように行いますが、2階のオフィスにはずっと上等なコーヒーマシンが備え付けられています。こうした点にも、両者の世界の違いが現れています。

——マーリアが食堂のドアの前で佇む場面が印象的です。管理職と労働者が共に食事する場所に、彼女はなかなか入っていくことができません。

彼女のそのためらいは、サウンドデザインによって強調しました。誰かがそこを通って扉が開く度に、多くの人々の話し声や雑音が聞こえるようにしたのです。それはちょっと、恐怖心を与えるようなものです。新しい学校に転校して、クラスの前で新入生として紹介されることの恐怖に似ています。この恐怖を乗り越えるのは、誰にとってもたやすいことではありませんが、マーリアにとってはとりわけ大きな壁なのです。

——彼女の感じる恐怖は、焦点深度が浅くフォーカスが強調された映像によっても印象づけられていました。

ソール・ライターという素晴らしいアメリカ人の写真家がいました。6年前に亡くなってしまいましたが、ストリートフォトを得意としていました。彼は現実にカメラを向けましたが、そのフレーミングによって、映像には実に多くのレイヤーが重ねられています。わたしたち人間の生について、それは実に雄弁に語りかけてくるのです。深い哲学がその背後に存在しています。フォーカスは、つねに中央にあわされているわけではありません。時には、背後のものが最も重要である場合もあるのです。このように、フォーカスや光を使うことで、台詞や会話よりもずっと雄弁に物語ることができます。しかも、その語りは説明的なものではなく、直感的で本能に直接訴えるようなものであり、観客たちはそれぞれ自分の人生のなかで感じた何かをそこに投影できるのです。したがって、厳密にはこの映画で語っているのは私だとも言えません。私はただ物事を準備し、観客たちが自分自身の考えをそこで展開できるよう促しているのです。この意味で、観客はこの映画の共同製作者でもあります。スクリーンで起きていることがすべてではなく、観客の心の中で起きていることもこの映画の重要な一部であるからです。

——この映画を見ていると、まるでマーリアに寄り添っているような気持ちにさせられます。

観客が、ちょっと変な女性を遠くから眺めていると感じるのではなく、彼女と同じ気持ちを感じてほしいと思いました。新しい場所に入っていくときや、音楽と出会ったときに彼女が感じる気持ちです。例えば、ローラ・マーリングの曲は、映画の半分過ぎあたりで登場するのですが、このタイミングを決めるのは、映画の黄金比率を探すような試みでした。私は作曲家(アーダーム・バラージュ)に、マーリングの曲が登場するまでは観客が本当に音楽に飢えているような状態を作り出してほしいと頼みました。その曲が流れる瞬間、観客はマーリアが音楽に触れられるのをただ見つめているだけではなく、彼女と同じように音楽に突き動かされてほしかったのです。まったく音楽を排除するのではなく、ミニマルな音楽をつけることで、一層この効果を高めたいと作曲家に告げました。彼にとっては大変な仕事だったと思います。本当にささやかに音楽が流れるだけなのですが、そこには膨大な作業と試行錯誤があったのです。

——エンドレについてはいかがでしょうか?

私はマーリアと同様、エンドレにも自分との近さを感じています。二人はとても似た存在です。二人とも、安全を得るため自分を守る必要があったからです。そのため、彼らは人生で実に多くの事柄を諦めてきました。でも、二人が安全を求める理由はそれぞれ異なっています。マーリアにとっては、彼女には経験がないのでそれが唯一の選択肢だったのです。彼女にとって未知の事柄はあまりにも沢山ありますが、なかでもこの場合、愛というのは彼女にとってほとんど北極か別の惑星に行くようなものだったのです。一方、エンドレは愛についてよく知っています。それがどれほど危険なもので、どれほど深く傷つく可能性があるか。あるいは、愛を拒絶することによってどれほど深く傷つくか。彼には多くの経験があり、もうそれ以上リスクを冒したくないのです。彼はマーリアよりも年上で、体も大きく、愚かな振る舞いをしたくないと考えています。

——エニェディ監督の作品では、他にも『シモン・マグス』(1999)など年上の男性と若い女性の関係を描いた映画が見られますね。

そうですね。そこには関係があるかもしれませんが、意識したことはなかったです……。ただ、この映画の場合はドラマツルギーとして明確な理由があります。エンドレにとって、この恋は彼の人生を変えるおそらく最後のチャンスなのです。人生をリスクに晒す勇気を持つことができるのは、彼にとって最後でしょう。だからそれはとても重要なのです。彼が自分を閉ざしていた理由もそこから理解できます。エンドレにとって最大のリスク、そして最も傷つきやすい瞬間がそこにあることを私は望みました。こうした理由から、私は二人の年齢差を信じられる範囲、奇妙にはならない範囲で最大限に離そうと考えたのです。一方、マーリアは年齢のない女性です。彼女が何歳なのかは明確ではありません。

——エンドレとマーリアは同じ鹿の夢を見ます。これは夢であると同時に、もうひとつの現実のようなものでもあると仰ってましたね。

それは何を現実と呼ぶかという問題です。現実とは、何を現実だと私たちが考えるかという約束事の問題であり、それは定期的に書き換えられるものだと私は考えています。例えば映画言語においては、物事をリアリスティックに描く方法が15年ごとに変わりますし、人間の歴史においても200-300年ごとに異なる何かを現実と呼ぶようになります。そして私の考えでは、夢もまた現実の一部なのです。私たちは眠りに落ちるとき、目を閉じます。これはひとつの行動であり、とてもリアルなものです。日常的で、当たり前のことであり、私たちは食事と同じくらい眠りを身体的に必要としています。もしまったく眠れなかったとすれば、私たちは狂気に陥るか病気になってしまうでしょう。

——ふたりの夢の領域が、まるで現実のもうひとつの顔であるかのようにあっさりと共存している。これは、『Magic Hunter』(イルディコー・エニェディ、1994)で現代の刑事の物語が中世の悪魔の物語と平行して描かれていたことを想起させます。

あの作品でも、現実の多層性を私は描きました。現在という時間には、過去の多くのレイヤーが折り重なって流入していることを見せたかったのです。
ひとつ、シンプルな例をお話ししたいと思います。日本ではどうか知りませんが、例えばヨーロッパでは、男女が並んで歩くとき、男性は左側を歩くべきだとされています。現在でもそうです。これは実に奇妙な風習です。その理由をご存じですか? これは、多くの男性が右利きであり、したがって中世においては左側の腰に剣を差していたからなのです。女性が彼の左側に立っていたら、剣が彼女を傷つけるかもしれません。今ではまったく意味をなさない風習ですが、このように私たちの文化には実に数多くの過去がレイヤーとして折り重なって存在している。『Magic Hunter』は、それらの層のあいだを飛び移るように旅してみるという試みだったのです。同じように、ヨーロッパに存在する重要な教会の多くは、キリスト教が登場する以前には異教徒の聖地であった場所に築かれています。私たちは、さまざまな過去が複雑に折り重なった場所を現実として、現在として生きています。

——『心と体と』に話を戻します。単純な感想ですが、鹿が登場する場面では、どうやって撮ったのだろうと不思議になるショットが沢山ありました。CGは使われましたか?

二つの目的のためにCGを使いました。ひとつは、遠くに偶然映り込んでしまった人物を消すためです。そうしたショットがいくつかありました。もうひとつは、雪が降っているショットで、異なるレンズを使った場合に違った画面になってしまうことを回避する目的です。レンズが違うと降っている雪の感触が違ってしまうため、観客が映画を人工的に感じてしまうことが起こるのです。したがって、CGを使ってこれらを調整しました。

——走る鹿と同じスピードでカメラが横移動するショットが素晴らしかったです。

おかしな話なのですが、実はあのショットはとても簡単に撮影できました。鹿の肩越しに撮った場面の方がずっと大変だったのです。というのは、鹿の場面を撮影した国立公園で、私たちはとても感受性豊かで頭の良いガイドに案内してもらったからです。私たちは彼にどういうショットを撮影したいか説明し、すると彼は最適な候補地をあげてくれました。そこには、二つの道が並行して走っていました。ひとつの道は広くて真っ直ぐで、カメラを抱えた撮影隊が通るのに十分なスペースがありました。もうひとつの道はとても狭く、その周囲には背の低い若木が密生していました。ここで私たちは、ゴーリアー(作品に登場する牡鹿の名前です)を馬で追って走らせましたが、若木のなかに突っ込むのは彼にとってあまりに無謀なことであったため、逃げる方向はたったひとつしかなかったのです。私たちはここで、異なるレンズを搭載した二台のカメラをとても近づけて設置し、移動撮影を行いました。異なる二つのショットを編集でつなぐためです。こうした準備の末、驚くべきことに撮影はたった一回のテイクで終わりました。

——マーリアとエンドレは、映画が進むに従って次第にお互いの距離を縮めていきます。それと平行して、ユーモアのある場面も増えていくように感じました。

ユーモアは、私たちにとってきわめて重要なものでした。ただし、同時にそれが辛辣なものにならないよう気をつける必要もありました。映画の終わりでさえ、ユーモアを入れることにはとても大きなリスクがあり、繊細なバランスを必要としたのです。しかし、ユーモアがなければ、この映画は何かもったいぶった作品になったかもしれませんし、私はそんな映画がまったく好きじゃないのです。
私が外国に行くとき、ハンガリーから離れれば離れるほど、この映画のユーモアがどのように受け止められるか興味を惹かれます。上映が終わったあと、観客のみなさんに対して、いつも最初に私が聞きたくなる質問がこれです。というのは、私にとってユーモアこそがこの映画の鍵だからです。

——清掃婦の女性の温かみのあるおかしさ、あるいは、本当はマーリアの命が危険にさらされる大変な出来事が起きているのに、なぜか奇妙にユーモアのあるクライマックスがとても印象的でした。

そうなのです。あの場面では携帯電話が鳴りますが、私はサウンドデザイナーに頼んであの着信音を作ってもらいました。とても愚かで馬鹿馬鹿しく、陽気な着信音です。まったくマーリアらしくありません。なぜなら、それは彼女のパーソナリティとは異なる持ち物であるからです。色もピンクです。この映画を編集しているとき、あの着信音がシリアスな場面を台無しにしてしまうのではないかと編集者が怖れていました。でも、私はそれこそが狙いであり、あの着信はあそこにあるべきだと感じたのです。というのは、人生というのが、まさにこうしたものであるからです。ドラマがあり、ユーモアがあり、感情がある。あらゆるものが、そこにはあります。

——ラストで、マーリアがパン屑をそっと集めている仕草も印象的ですね。

私は、二人の人間が魔法で結ばれて、いつまでも仲良く幸せに暮らしましたといった映画は作りたくありませんでした。彼らは相変わらず問題を抱えた人たちであり、自分たちの問題と闘い続けるでしょう。それは決して簡単なことではありません。彼らはこれまで、完璧な人間ではないという理由から孤独を選んだり、他人との関係を投げ出したりしてきました。私はそうした彼らに対して、完璧じゃなくても大丈夫だと言いたかったのです。もっとリラックスして受け止めるべきなのです。現実は夢のように完璧ではありません。しかし、二人のあいだで何かが起きた。それは本当に素晴らしいことなのです。

心と体と
4月14日(土)新宿シネマカリテ、池袋シネマ・ロサほか全国順次公開。

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