いまこそ読みたい、ディストピア小説8冊

トランプ政権となって、オーウェル『一九八四年』が再注目を浴びている。〈ビッグ・ブラザー〉が監視する世界は、夢物語でなく、現実に近い。ディストピアを描く小説の批評性に、私たちは何を学ぶべきなのか。書評家・江南亜美子が選ぶ、いまこそ読みたいディストピア小説8冊。

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sep 21 2017, 6:59am

トランプ大統領が就任したあたりから、アメリカでは、英国人作家ジョージ・オーウェルが1949年に発表した『一九八四年』が再注目され、売り上げを伸ばしたという。ディストピア小説の古典的な名著のひとつに挙げられるこの小説では、全体主義のもとで情報統制が徹底されており、主人公は体制強化のために、歴史や事実の改ざんを仕事としている。それがまるで、トランプ大統領の就任式に集った人々の数を「過去最高」と発表し、しかしその数字が嘘だと論証的に批判されるやいなや、「オルタナティヴ・ファクト(もうひとつの真実)を言ったに過ぎない」と開き直ってみせた新政権のようだと、話題を呼んだのである。

日本でも『一九八四年』は、2007年に新訳版が刊行され(高橋和久訳/ハヤカワepi文庫)、それを契機にあらたな読者をおおく獲得した。いわずもがな、日本の現政権もまたトランプ政権に似て、「真実」を取り扱う手つきがあやうい。あるいは、不可視の絶対君主〈ビッグ・ブラザー〉がはりめぐらせる「監視」のシステムは、自主規制の名のもとに、人の心を抑圧しつづける現在の言論空間・ネット空間をほうふつさせる。
私たちはいままさに、ディストピア的世界に生きている? それは笑える事態ではないけれど、社会状況の分析のための教科書として、『一九八四年』を読み直してみることに意味はあるだろう。

しかしディストピア小説の名著は、なにもこの1冊だけでない。『一九八四年』では本を読み、日記を書くのさえ禁じられるほどの強圧的な全体主義が核戦争後の荒廃した世界を覆っているのだが、はっきりいえば、それはいかにも作り物めいている。しかも小説自体が、長く、陰鬱で、主人公の敗北によって気が滅入ってくるのも避けられない。同じペシミズムなら、読んでいてまだしもわくわくするものを――。そんなあなたに、いま読みたいディストピア小説のいくつかを紹介しよう。

<オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』(黒原敏行訳 光文社古典新訳文庫)>

オーウェル『一九八四年』としばしば対比的に語られるのが、オルダス・ハクスリーが1932年に発表した『すばらしい新世界』である。物語の舞台は西暦2540年、その年は自動車王フォードにちなんだ暦で「フォード紀元632年」とも呼ばれ、オーウェルの描いた1984年に比べても、明るくて能天気でクリーンな世界が構築されているのが特徴的だ。
人間は工場で生産される。生まれたときから5つの階級に分けられてひとは育ち、条件付けの教育によって他の階級をうらやむこともない。フリーセックスが奨励され、苦痛も疲労も忘れられる薬のソーマ(副作用はナシ!)が配給されることで、ひとびとは病や老いとも無縁に生きている。文学などもはや遠い時代の遺物で、宗教もまたひとびとの対立を呼ぶものとして禁忌される。みなが幸福を感じるこの世界は、意外とユートピアかもと思えてくる。
しかしながらコミュ障気味のバーナードが、未開社会から野人のジョンを連れてくることで、安定的な世界が崩れだすのだった。ジョンは野人ではあるが、書物によって知性をはぐくみ、愛読するのはシェイクスピア。にわかに彼に興味を持ったモテ女レーニナが、彼と関係を持とうとしては行き違ってしまうさまは、げらげら笑えて、やがて切なくなってくるほどだ。

一見ユートピアに見える世界は、J・M・クッツェー『イエスの幼子時代』にも描かれる。主人公である中年の男シモンと五歳の少年ダビードは、海を越えて、ノビージャに辿りついた。彼らに血縁関係はないが、シモンはダビードに彼の実母を見つけ出す約束をし、新天地になじもうとする。ノビージャの生活は、ひとことでいえば無駄がなくコンフォートなものだ。

〈会う人会う人、みんな実にきちんとしていて親切で、善意にあふれている。悪態をついたりカッとなったりする者もいない。酔っ払いもいない。声を荒らげる者すらいない。パンと水とビーンズペーストだけの食事で生活し、充足していると言う。人間という生き物として、そんなことありうるか?〉
シモンはひとびとが「肉汁のしたたるビフテキ」を欲さずにいることにいら立つ。性的な事柄に対しても同様で、シモンの要求に応えてくれるエレンは、しかしその行為に情熱も喜びも感じないらしい。ケンカもないが、欲望もない。こんな微温的な人生観に慣れてしまうことが果たして「幸福」なのか。ノビージャをユートピアとみるか、ディストピアとみるかは、読者の価値判断に任されているが、そこはさすがにノーベル文学賞作家のクッツェー。正気と生気を取り戻すためのさらなる移動を、シモンとダビードには課すのである。

徹底した管理主義体制と高度な科学技術の進歩が合わさったとき、ひとびとからドーパミンがだばっと放出されるような「生きる喜び」は奪われるのでは? その危惧は、たとえば、ミシェル・ウエルベックの『ある島の可能性』のテーマとなっている。クローン技術が確立され、「無限の命」が実現された世界では、ひとびとの生活様式も、思考も、理念も、そして「愛」の概念も大きく変貌するはずだという、ウエルベック流の未来の考察が楽しめる一冊だ。

<ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』(中村佳子訳 河出文庫)>

物語は、21世紀を生きる辛口コメディアンのダニエル1と、その2000年後の世を彼のクローン人間として生きるダニエル24のふたりを語り手として進行する。ダニエル1は、高度資本主義社会の勝ち組で、個人的欲望の拡充に余念がない。早い話が、セックスにご執心なギラギラ中年男である。しかし快楽追求の果てに、老いに怯え、孤独に苛まれた彼は、自叙伝を残すとともにクローン技術の開発に未来を託す。一方のダニエル24は、永遠こそ手に入れていたものの、その伝記によってはじめて、涙の、そして他者との愛の意味を知るのである。

かなりの皮肉がスパイスのように作品全体にまぶされ、人間がいかに愚かな存在かが次第にあらわになっていくのだが、最終章へのスパークはエモーショナル。人間は愚かだからこそ人間なのだという、素朴な人間賛歌もありつつ、どこかペシミスティックな目を持ち続けるあたりが、いかにもウエルベックである。

ディストピア小説には、大きくわけてみっつの方向性があり、ひとつは『一九八四年』や『すばらしい新世界』系の、行き過ぎた全体主義・管理社会下にある人間の意識の変容を描き出すタイプ。ふたつめは、現在の現実世界であっても状況によっては成立してしまう、むきだしになった人間の暴力性を描くもの(後述の、ゴールディング『蠅の王』はそれにあたる)。そしてみっつめは、とりわけ人類の出産にまつわる問題を中心的主題に据えた、いわば女性と生殖の物語の系譜である。

ヒトの受精卵にゲノム編集を施すことが、いよいよ技術的にリアルになってきた現在(しかし倫理面でハードルは大きい)、クローン技術を含むバースコントロールは、もはや近未来のSFの話ではなくなっている。長年、女性の妊娠と中絶をめぐっては、プロライフ(胎児の生命尊重の立場による人工中絶反対)かプロチョイス(産む女性の選択尊重の立場による人工中絶擁護)の二元論で語られてきたが、もしも国力低下のひとつの要因を少子化ととらえる国家が、女性の出産の選択になんらかの規制をかけるようになれば、それは本気の悪夢であり、ディストピア世界の到来である。

このあたりの問題をシリアスに描き出したのが、カナダの女性作家マーガレット・アトウッドが1986年に発表した『侍女の物語』である。侍女とは、高貴な人のそばに仕える女性の意味だが、この小説で「仕える」とは、その男の子どもを産む、という意味にほかならない。

<マーガレット・アトウッド『侍女の物語』(斎藤英治訳 ハヤカワepi文庫)>

21世紀の初頭、アメリカでキリスト教原理主義の一派が政権をとる。彼らは超非常事態に陥っている少子化の現状を打開するために、まず女性たちから仕事と財産を、やがて衣服や名前まで剥奪し、家族と引き離して、支配階級のエリート層の男たちの元へと送り込む。すべては人口を安定化させる手段としての、妊娠と出産のためであった。

ここまででじゅうぶん悪夢的なのだが、一方で「国家の財産」と考えられている主人公のような妊娠可能な女性たちが、それぞれの現場では劣悪な扱いを受け、もはや自殺すら救済になる状態に置かれるというのが、恐ろしくて泣けてくる。使い捨ての、代替可能な、産む機械!
一見このSF的な、非リアルな設定を、アトウッドはディテールによって厚みをもって描いていく。仕える男と自身との関係の力学が、ささいなふるまいや会話によって変わっていくこと。化粧の代わりに塗るバター。公開処刑されるひとびとの演出……。そのディテールの豊かさによって、本作は読者に、かつて実際にさまざまな国で行なわれてきた人権蹂躙の手口を思い起こさせ、また、今日の男性の支配傾向にあるさまざまな組織の不平等を思い起こさせることに成功した。主人公オブフレッドの自由を賭けた逃走=闘争を、(男性女性にかかわらず)応援しない読者はおそらくいないだろう。

アトウッドの系譜を継ぐかたちで展開されると考えられるのが、川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』と、村田沙耶香『消滅世界』である。

<川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』(講談社)>

前者は、人口が極端に減少した未来の地球で、人類が先進的な科学技術を駆使して再生をはかる。ヒトはカンガルーやネズミ由来の細胞で工場製造される一方、自然出産で生まれた数十人の子は母親たちが共同的に育てもする。いずれにせよ寿命は極端に短い。もはやこの世界に国境や家族という概念はなく、光合成での生命維持を可能にした集団、十数人しかいない男とかわるがわる交わる無数の女たちの集団など、いくつものグループに分かれて暮らし、とにかく種の多様性を担保するため、生殖と子育てにひたすら重きを置いている。
近親間での有性生殖にはリスクがあるとされ、いわゆる近親相姦は共同体によって管理される。しかし問題は、ヒトは本能的に「恋」をしてしまうということなのだ! 禁じられようともこの相手がいいという、止むにやまれぬ強い思い。生々しさの発露が、この小説のキモになっている。
本能においてもうひとつのポイントとなるのが、排除の法則だ。人間は本質的に暴力性を持つという説があるように、この世界でも人類存続の最大の敵は、じつはヒトである。自分と異なるものは排除したいとの本能に忠実に行動すれば、殺戮や迫害は避けられない。多様性(ダイバーシティ)社会の実現という、今日的でアクチュアルな問題が、こうした幻想的で、太古の神話をもほうふつさせる物語のなかから摘出されるのも、現代小説のおもしろさといえる。

<村田沙耶香『消滅世界』(河出書房新社)>

一方、村田沙耶香『消滅世界』は、人工授精で子をなすのが一般的になり、性交や家族、男女の差すら消えゆく世界が描かれる。〈セックスなんて昔の交尾の名残〉〈よくできるわね、あんな汚いこと〉というのがここでの社会通念だ。主人公の少女・雨音は、人工授精の技術が向上し、出産はコンピュータに管理される近未来の日本で、物語のキャラクターとの「清潔」な恋に没頭していく。正しさとはなにかが、あらためて問われる作品である。

生殖と人口をめぐる国家の介入という問題では、若手作家の注目株、古谷田奈月が『リリース』というラディカルな物語を書いている。男女同権、同性婚も完璧に整備された平等精神のいきわたった世界で、異性愛者のテロリストが精子バンクの占拠を画策するという、スリリングな出だしではじまる。詳細は省くが、国家によってコントロールされたジェンダーバイアスの解消が、またあらたな暴力装置となりうることを予言的に描いてみせた意欲作だ。

<古谷田奈月『リリース』(光文社)>

アトウッドの『侍女の物語』はまったきディストピアだったが、つづけて紹介した日本人作家の作品世界が、本当にディストピアなのか、あるいはユートピア的な側面があるのかはすぐには判別つかない。読者の価値判断を揺さぶってくるという意味でも、いま読むのにふさわしい作品たちだ。

最後に、これも古典的名作として名高い、1954年のウィリアム・ゴールディング『蠅の王』を紹介したい。
どうやら戦争から疎開する少年たちの乗った飛行機が、南太平洋の無人島に不時着する。生き残ったのは少年ばかり数十人。年齢も加味してリーダーを選びはするが、規範的だったヨーロッパでの生活の反動のように、大人のいない島での暮らしをわいわいと気ままに満喫していく。しかし助けはなかなかこない。食料の管理も、島の地形の把握も、火の番も必要になってくる。こうして集団的な苛立ちが蔓延していき、少年たちは自身らの内なる暴力性に突き動かされていくというのが、この物語だ。
島に得体のしれない「悪」、あるいは「獣」のようなものの存在を感じ始めたときの、少年らのふるまいには、とりわけリアリティがある。目撃者となってみんなの注目を浴びつつ話をすることの恍惚があり、一方で、恐怖に打ち勝とうとする集団的な認知バイアスが働きもする。なんとか保たれていた平和的な秩序が崩れ出すのは、やはり夜の闇のなかのことである。
ユートピア的な少年たちの楽園が一転、暴力にまみれたディストピアになるという落差が、この小説をスリリングなものにしているのだが、この世でもっとも恐ろしいものは人間の本能であるという(性悪説に近い)考え方は、読者を挑発するものだ。

<ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』(黒原敏行訳 ハヤカワepi文庫)>

でも、本当にそうかもしれないと、ふと思わされる。無人島で獣の幻影を見てしまうのも、そこで悪魔的なほど利己的な行動をとってしまうのも、すべては人間の生まれ持った本能がなせることである。さらには、全体主義でひとびとを統治したいと考えるのも、管理社会で究極的な効率化を図りたいと思うのも、あるいは喜んで管理されたいと願うのも、人間の欲望と本能からの要請であろうし、女性をはじめとする弱者を差別したいと思うのも、自身が強者に成り上がるための必死の方策なのかもしれない。

ディストピア小説を読む意味は、おそらくここにある。人間が極限的な状況に置かれたさいに、どれほど利己的になれるか、あるいは逆に思考停止に陥って無抵抗になってしまうかを、あらかじめフィクションでシミュレーションしておくこと。
さまざまな想像力を駆使してディストピアを描いた作家たちは、じつのところ、遠い未来の私たちでなく、ほんの明日かあさってにでもそうなるかもしれない私たちの姿を幻視してみせた。いま、すぐそこまできている悪夢という、ディストピア小説の数々。ペシミストであるのも、そう悪いことではなさそうだ。