『ザ・サークル』:ジェームズ・ポンソルト監督インタビュー

主演にエマ・ワトソンを起用した理由から、スマホが誕生して以降のプライバシー感、私たちが今直面しているディストピア社会まで、全米ベストセラーを映画化した本作を監督が語り尽くす。

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08 november 2017, 10:12am

近年、インターネットやソーシャルメディアに焦点を当てたディストピア映画/ドラマが増えつつある。SNSの匿名性に着目した『NERVE/ナーヴ 世界で一番危険なゲーム』(2016)、あるいはコンピューターのデスクトップ画面上で展開される『ブラック・ハッカー』(2014)や『アンフレンデッド』(2014)、また今日の集合的不安をダークに描いたドラマ『ブラック・ミラー』(2011~)など、ネット社会に対する不条理な恐怖やパラノイアの感覚を一際強調することで、私たちが置かれている現代社会への警鐘を鳴らしているのだ。11月10日(金)より公開される『ザ・サークル』もまたソーシャルメディアへの没頭が生み出しうる近未来を描いた風刺的なサスペンスである。

デイヴ・エガーズの全米ベストセラー小説を新鋭ジェームズ・ポンソルトが映画化した『ザ・サークル』の舞台となるのは、GoogleやFacebookを彷彿とさせる巨大SNS企業「サークル」。スティーブ・ジョブズのような経営者ベイリー(トム・ハンクス)は、秘密を所持することが犯罪を引き起こすと考え、人々がお互いの体験を共有し合い、隠しごとのないオープンな社会を目指していた。誰かに見られていることで人はよりよく振る舞おうとするのだと主張する彼の提案によって、新入社員メイ(エマ・ワトソン)は超小型高性能ワイヤレスカメラを身に着けて生活のすべてをオープンにすることを承諾する。毎日24時間ライブ・ストリーミング配信で彼女は個人的な日常を曝け出し、ネット上では常にリアルタイムでフォロワーたちからコメントが届くのだ。

まず興味深いのは、2001年から10年に渡って続いた大ヒット・シリーズ『ハリー・ポッター』で11歳から21歳までハーマイオニー役を演じたエマ・ワトソンとともに、SNSに批判的な彼女の幼馴染マーサー役を、6歳から18歳まで12年間かけて撮影された『6歳のボクが〜』(2014)のエラー・コルトレーンが演じていることだ。いわばどちらもカメラの前で育った俳優が起用されているのである。ふたりは対照的な役柄で配役されているが、そこにどのような意図があったのだろうか。あるいは、コルトレーンの場合は『6歳のボクが〜』の俳優だからこそキャスティングしたのだろうか。リチャード・リンクレイターを敬愛するポンソルトに訊ねた。

「リンクレイターは大好きなので、エラーの場合は両方あったかもかもしれません(笑)。『6才のボクが〜』の中では『ハリー・ポッター』を観に行くシーンもあったから、何かポストモダン的な縁も感じますね(笑)。エマの場合はまさにカメラの前で育ち、ある意味、小さい頃からセレブであったことで個人的な犠牲を払っている部分もあると思います。なぜなら、彼女はいわゆる公的な場所でプライバシーというものを持てなくなってしまったからです。すべて公的に記録されてしまうわけで、その部分は彼女は諦めていると思います。だからプライバシーということに関して、自分の経験を基にした自分なりの考え方をエマはしっかり持っている人です。またSNSに関しても、とても思慮深く、そして政治的な使い方をとてもいい形で彼女は使ってもいます。一方で、『6歳のボクが〜』は史上最高のホーム・ムービーであり、本当に同じような作品がほかにない唯一無二のユニークな作品で大好きなのですが、エラー自身は録画されることも写真を撮られることも嫌いで、自分の人生についてシェアする気は一切ないタイプの人間です。だからふたりとも自分なりのプライバシーに関する考えを持った役者であると言えます」

ポンソルトは本作において、『コンドル』(1975)や『カンバセーション…盗聴…』(1974)など70年代の誇大妄想的な陰謀映画からの影響を認めているが、この物語をどういった風に捉えたのだろうか。

「原作を読んだときにメイというキャラクターにとても共感することができました。彼女は理想主義的な世界の中で自分の居場所を探していて、自分にとって夢の就職先であるサークル社で仕事が決まるものの、就職した後にあまりよくない選択を繰り返してしまう。それにフラストレーションを感じ、最終的に彼女が権力を手にしたときにはそのことに恐怖を覚えました。彼女に共感できるのは、彼女の人柄、それから彼女自身の抱く不安、人を満足させたい、幸せにしたいという気持ちはよくわかるものだからです。私たちの住んでいるカルチャーというのは、CIAやNSAだけでなく、お互いがお互いを監視/スパイしているものであり、色々な形でお互いを記録したり、録画したりすることもできる。もはやそういった社会になってきてしまっています。つまり、私たちは自らの手によって監視社会を作り上げてしまったのだと思います」

プライバシーと自由、もしくはセキュリティと監視を描いた『ザ・サークル』において、原作者で共同脚本も務めたデイヴ・エガーズは本作のテーマのひとつが権力の乱用に関するものであることを認める。すべての瞬間を透明化し、体験のすべてをカメラを通してシェアするメイは一躍サークル社の人気者となり、それに伴って、彼女の発言権の大きさは増していくわけだが、彼女は21世紀の『トゥルーマン・ショー』(1998)と化すことを自ら許可しているのである。

また、これまでにポンソルトは『スマッシュド ~ケイトのアルコールライフ~』(2012)『スペクタキュラー・ナウ』(2013)『人生はローリングストーン』(2015)とアルコール依存症など何かへの中毒者を扱ってきたが、今回のメイはインターネットあるいはガジェットへの依存/中毒が見られる。なぜこのようなキャラクターに惹かれるのだろうか。

「私が惹かれるキャラクターはとても深い欠陥や欠点を持っていて、ほかの誰かに自分を癒してほしいと思っているような人物です。しかしそういう風に自分を癒そうとするのだけれども、それも応えられずに失敗してしまう。そのような彼らの中にこそ人間的な葛藤があると思えるのです」

そして原作小説ではメイは会社に身を尽くすうちに、あたかもカルトからの洗脳が解けなかったかのように魂までも捧げてしまうシニカルな結末を迎えるが、映画ではメイはとある主体的な行動に打って出る。なぜ映画にするにあたってエンディングを変更したのだろうか。

「原作者デイヴとともに、映画の中ではテーマ的にぴったり来るエンディングを考えて、原作とはまた異なる結末を選択しました。私たちにとっては、このエンディングの方がより怖いものだったのです。サークルはひとつの企業だけれども、メイというポピリュズム的なリーダーが大きな力を得たことによって、結局こういったものがいかにひとりの、あるいはひとつの企業を超えた存在になっているかということを描いています。ある意味あの終わり方というのは、メイだけではなく、人類にとっての大きな損失であり、間違った道に歩み始めている姿を描いているのです」

思えば、『人生はローリングストーン』の中でジェイソン・シーゲル演じるデヴィッド・ウォレスは、極端な行動に出て状況を改善してみせることが「アメリカ人的考え」だと言うが、その意味で言えば、メイが実行する行動もまたアメリカ人的と言えるのかもしれない。

「サークルという企業自体は大手IT企業であると同時に、エセ宗教的な側面も持っています。そういった意味では、アメリカではたくさんの宗教が生まれてきたし、多国籍企業も多く活躍している場でもあります。メイが提案していることは、すべての政治的な動きみたいなものを根本から覆してしまうようなことですが、ここで面白いのは、メイはそのことを心から信じていることです。もしかしたらベイリーたちはそれをもう少しシニカルな形で信じているかもしれないけれど、彼女は"デジタル共産主義"とでも言ったらいいのか、世界がよいものだと、すなわち人間の経験のすべてを人とシェアすること、記録することがこの世界をよりよい場所にするのだと心から信じている。彼女のプライバシーに対する思い入れというのは、彼女の親の世代、そしてベイリーたちの世代とは全く異なるものです。プライバシーへの思い入れがそこまでないため、彼女自身は永久にそれを手放してもいいとすら思っているのです」

本作で描かれていることは、現に私たちがすでにオンライン上で行っていることを具現化したものだとも言えるだろう。しかし、テクノロジーがもたらす管理社会に基づいたディストピア的なヴィジョンは、ジョージ・オーウェル『一九八四年』をはじめとした風刺小説から描かれてきたものではあるが、デジタルに慣れ親しんで育ってきたメイは監視社会を必ずしも絶対悪とは考えてはいないのかもしれない。もしかしたらその手段や方法にこそ問題があるのだと見ることもできるのだろうか。

「プライバシーへの思い入れというものがどのくらいあるかということによって、変わってくるのではないかと思っています。かつてたくさん作られたパラノイア型の陰謀論的な物語の中では、ファシズム的/全体主義的な政府が強制的に私たちを監視社会の中に置き、お互いを監視して生きていかなければいけない状況がよく書かれていました。もしそういうものが伝え方によってはいいものかもしれないという風に思うことができる観客であれば、おそらく本作のエンディングを観たときにメイのことが正しいとも思うでしょうし、人類にとって大きな勝利を彼女は掴んだと思って映画を観終えるでしょう。そして監視社会ということで言えば、実際の世界でCIAやNSA、ウィキリークスを通してそのようなことが行われているということも私たちはある程度わかってはいるけれど、資本主義国家においては監視社会というのは完全に自分たち自らの手によって作られたものなのです。私たちが製品や商品を作り出し、それを購入して消費している。スマートフォンを偶像化し崇めまつるような中で、人によっては自分の関係性の中で一番意義深いものが自分とスマートフォンの関係だという風になってしまっている人もいると思います。なので、すべてを記録されてもいるし、そういった社会にすでになり始めてもいます。以前、冷戦のときに東ドイツの三分の一が秘密警察の密告者だったという記事を読んで興味深かったのですが、ということは家族もきっと含まれていただろうし、たとえば3人で話していたとしたら、その中の誰かが密告しなかったことを密告する人もいたでしょう。知っていながらお前は言わなかったのではないかみたいなことを言われたり、刑務所に送られたりする。そうすると、当然みんな行動が人の前ではよいものになりますよね。つまり、常にパフォーマンスしている状況になってしまうわけです。ただ、それは本当に自由と言えるのでしょうか。自分の自由な思考を持ったり、自由に感じたりすることとは違うのではないでしょうか。自分自身ではあるのだけれども、何かフェイクな自分像を作り上げてそれを演じているだけではないのかと思います。そのような世界になったとしたら、たとえばマーサーのようにそういったものには参加したくない、自分ひとりの時間を大切にしたい、今日一日あったことを逐一誰かとシェアしたくはない人にとっては、全く生きる場所がなくなる社会になってしまいます」