映画の平行線 第7回:『顔たち、ところどころ』

月永理絵と五所純子が、毎月公開される新作映画を交互に語り合っていく本連載。今回は、巨匠アニエス・ヴァルダとJRによる注目の共作『顔たち、ところどころ』とゴダールについて。

by RIE TSUKINAGA
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18 September 2018, 5:31am

女の出てこない映画はない。けれど女はまだ語り尽くしていない。 “映画の女” を見ながら感じたアレコレを、お喋りのように、戯れ言のように、手紙のように、交わしてみたい。「映画の平行線」は最新映画とともに、映画ライターと文筆家が意見交換していく往復コラムです。


フィリップ・ガレル監督の『つかのまの愛人』を見てまっさきに感じたのは、これを70歳の巨匠が撮ったのか、ということ。演出も、台詞のやりとりも、すべてが洗練されている。でもそれ以上に、とてつもない瑞々しさを感じた。若い女たちの交わすあけすけな会話。若者たちの媚態やふて腐れた態度。劇中で若い女たちの自由奔放さに戸惑うジルより、ガレル本人はさらに年上だ。それなのに、なぜこれほど若々しく、若者たちの姿を写せるのだろう。

先日刊行されたアンヌ・ヴィアゼムスキーの小説『それからの彼女』(原正人訳、DU BOOKS)のなかで、ガレルが初めてゴダールと出会う場面がある。1968年5月。ガレルは20歳、ゴダールは37歳。『記憶すべきマリー』の試写で、ふたりは出会う。『記憶すべきマリー』は10代から映画作りを始めたガレルの初長編作で、ズーズーを主演に、近未来でのマリーとイエスというカップルの物語を描いた作品。ゴダールは、上映後しばらく口を聞くことさえできずにいたが、やがて椅子を立ち20歳の作家にこう語りかける。「今やガレルがいる。これ以上僕が映画を撮る必要はない」。その賛辞に、それまで泰然として人々の反応を伺っているかに見えたガレルは、感動のあまり声にならない声でつぶやく。「僕らにはあなたが必要です。あなたの映画が必要なのです」

残念ながら、小説を映画化した『グッバイ、ゴダール』にこの感動的な場面は登場しない。物語には直接関係のないささいな出来事だからしかたがないとはいえ、ふたりの映画作家の出会いをぜひ見てみたかった。この映画でジャン=リュック・ゴダールを演じているのが、フィリップ・ガレルの息子ルイ・ガレルだからだ。20歳のガレルと37歳のゴダールを、ルイが一人二役で演じたらおもしろかったのに、とつい妄想してしまう。本書と同じように、ヴィアゼムスキーは、『少女』(國分俊宏訳、白水社)や『彼女のひたむきな12カ月』(原正人訳、DU BOOKS)でこうした映画史の裏側にある、ささやかな場面を描写してくれる。彼女の小説は、常にまわりの大人たちに対する冷めた視線に貫かれている。それはときに大作家たちの見たくない一面を暴き、神のように崇められている彼らを地平に引きずり落とす。だが決していやらしく感じられないのは、根本に、彼らに対する畏敬の念があるからだ。人間として、ではなく、芸術家としての畏敬の念。

『グッバイ、ゴダール』が映画として否定的な評価を受けたのは、当然といえば当然だ。ミシェル・アザナヴィシウス監督は、神のような存在として君臨するゴダールをひとりの悩み多き中年に矮小化し、1968年の五月革命も、カンヌ映画祭の中止も、ゴダールとヴィアゼムスキーの別離も、すべてコメディにすることで映画を成立させた。ゴダールを神格化するのではなく、あくまでも一組のカップルの悲喜劇として描くという監督のアイデアに、ヴィアゼムスキー本人も面白がり、俳優陣たちもそれを了承した。ゴダールの映画を愛する者たちから不評を買うことなど想定通りというわけだ。映画のテーマに腹を立てる理由は特にない。ゴダールという映画の神様を地上に引きずり下ろしゴシップ的な笑いに変えていけないとは思わない。だが一方でこうも思う。誰かを神格化してしまうことはそんなにも悪いことなのだろうか? たしかにあまりに極端な神格化は時に人びとを萎縮させる。正直なところ、私自身、ゴダールについて語ることに恐れを感じずにいられない。ガレルだってそうした神々のひとりだろう。彼らの偉大さに怖じ気づき口を閉ざすことが悪いとは思わない。一方で、「ゴダールが誰かは知らないけれど、この映画はおもしろかった」と怯まず宣言することもまた誠実だ。悪質なのは、自分よりものを知らない者たちに自分の知識をひけらかす大人たちだ。彼らにとって“無知”な者とは、若者たち、なかでも若い女たちだろう。偉大なアーティストを神格化し言葉をつぐむことと、その名前を知らない者たちが無邪気に彼らの作品を愛でることは決して対立しない。無知で何が悪い、と開き直るのと同じ口で、偉大な作家を前に萎縮して何が悪い、と叫んでいい。

© Agnès Varda - JR - Ciné-Tamaris - Social Animals 2016.

アニエス・ヴァルダが、アーティストのJRと共作した『顔たち、ところどころ』にも、ゴダールは不意に顔を覗かせる。彼がどのように登場するのかは映画を見てもらうしかないのだが、その名前をヴァルダが口にするとき、空気がピリリと引き締まる。「そういえば昔の友達が…」と、他愛のない思い出話のようにゴダールについて語るヴァルダを前にしては、ふだんは怖いものなどなさそうなJRも、どこか萎縮して見えるからおもしろい。ヴァルダとJRは、フランス各地を旅しながら人びとの顔写真を撮り、それを巨大な肖像として、壁面や岩やトラックなどあらゆる場所に貼り付けていく。それは、JRのプロジェクトの延長線上にあると同時に、ヴァルダの写真家としての活動の一環でもある。JRがどのように作品を展示するのか、その作業風景はとても興味深い。写真を現像したら、大量の糊を用意し、作業に必要な足場を組み立てる。精確なサイズと作業に必要な時間を計算し、綿密な計画を立てる。各々が自分の役割を果たし、ひとつの作品が誕生する。写真の貼付がチームの仕事であることがよくわかる。

© Agnès Varda - JR - Ciné-Tamaris - Social Animals 2016.

ヴァルダとJRが各地で出会う様々な人物たち。廃れた炭鉱住宅に住む最後の住人。大きな農場をひとりで耕す農民。ヴァルダが再会した郵便配達人。工場で働く労働者たち。社会のなかの一員である彼らが、巨大な顔として突如出現する。そのとき、写真は社会に対する批評活動となる。考えてみれば、映画を見るという行為は、本来スクリーンに映る俳優たちの巨大な顔を見続けることでもある。澁澤龍彦は、何かの本で、クローズ・アップの巨大な顔を矢継ぎ早にスクリーンに写せば観客の神経はあっというまにまいってしまうだろう、と書いていた。たしかに、自分よりも数百倍はある巨大な顔を見続けるとは野蛮で凶暴な行為に違いない。映画館の大スクリーンで映画を見ることは、ノスタルジーを伴う行為というよりも、過激で急進的な行為なのだ。

© Agnès Varda - JR - Ciné-Tamaris - Social Animals 2016.

『Sight & Sound』2018年7月号で、「あなたの映画はしばしば“チャーミング”だと称されますね」とインタヴュアーに言われたヴァルダは、「私は自分の作品がチャーミングだとは思わない」ときっぱり否定している。自分の作品はむしろ「warm」だと彼女は言う。「暖かさ(warm)は他人の共感を呼ぶけれど、魅力(charm)は他人の評価を引き寄せるものだから」と。もちろん、JRと自分とのあいだにある同志としての関係性のように、人と人との関係に何か魅力があるというなら別にいいのだけれど、と留保しつつ。映画を見ると、彼女をチャーミングだ、可愛い人だと言いたくなる気持ちはよくわかる。それほど、『顔たち、ところどころ』でのアニエス・ヴァルダは、愛らしく、ユーモラスで、子どものように自由奔放だ。「まるで可愛い女の子のようですね」と言いそうになるほどに。JRとのやりとりは同世代の友人同士か、あるいは恋人同士のように軽妙で、彼の前である理由から涙ぐむ場面など、誰もが手を差し出したくなってしまう。ドラマチックな瞬間は、映画のそこかしこに存在する。ヴァルダは、すでにこの世にはいない旧友たちについてたびたび語ってみせる。写真家ギイ・ブルダンの写真を選びながら彼との思い出を語る彼女の姿は感動的だし、彼女自身の老いや死についても衒いなく言及する。その姿を、相棒であるJRは、ユーモアをこめて画面に映しだす。

© Agnès Varda - JR - Ciné-Tamaris - Social Animals 2016.

チャーミング、可愛い、という言葉が持つ危険に敏感でいたい。言うまでもなく、アニエス・ヴァルダは、ヌーヴェルヴァーグを牽引した偉大な映画作家で、60年代から、常に女性の権利のために闘い続けてきたフェミニストだ。その偉大さをあえて矮小化する必要はない。映画のなかでもっとも心を打つ場面。ル・アーヴルの港湾労働者たちを訪ね、ヴァルダが「それで、女性たちはどこにいるの?」と尋ねる瞬間。男たちだけが支配するその場所に現れた彼らの妻たちに、ヴァルダは「あなたたちは何の仕事をしているのか」「なぜ港には男たちしかいないのか」と率直に問いかける。そうして、巨大な女たちの顔が男たちのコミュニティのなかに君臨する。黒い衣服を身にまとい足を広げて立つ女たちの彫像は、港に、革命の兆しをもたらす。

アニエス・ヴァルダは偉大な巨人だ。その巨大さと、彼女が常に小さな映画作りを続けてきたこととは、何も矛盾しない。私はただ畏怖の念を忘れずにいたい。

© Agnès Varda - JR - Ciné-Tamaris - Social Animals 2016.

顔たち、ところどころ
2018年9月15日(土)より、シネスイッチ銀座、新宿シネマカリテ、アップリンク渋谷ほか全国順次公開。