All photographs by Ricky Flores

ブレイキングはいかにして芸術となったか?:〈Bボーイ〉創生期

Bボーイを撮り続けたブロンクスのストリート写真家リッキー・フローレス。彼は言う、「ブレイキングは芸術と人間のたくましさを伝える物語だ」と。

by Cassidy George; translated by Nozomi Otaki
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dec 6 2018, 8:48am

All photographs by Ricky Flores

Bボーイの原則その1:Bボーイ=ブレイクダンサーではない。ほとんどのBボーイにとって、〈ブレイクダンス〉は時代遅れな言葉だ。白人主体のメディアが生み出したこの呼び名によって、多様なストリートダンスは便宜上、ひと括りにされ、当たり障りのない見世物になった。メインストリームへの進出によって、ブレイキングは歴史的、社会的、政治的文脈を奪われ、何の変哲もない〈都会的な〉芸術表現へと変わってしまったのだ。

現在、見事なヘッドスピンに目を奪われている人びとは、ヒップホップカルチャーの創造や発展において、Bボーイとそのサブカルチャーが果たした重要な役割を知らないだろう。ブレイキングは1970年代、荒廃していたブロンクスで起こったムーブメントを支える5本の柱のひとつだった。不動産価格は暴落し、1970〜80年のあいだにサウスブロンクスの4割以上の物件が、保険金目当ての家主によって火を放たれるか、放棄された。そんな荒れ果てた街から、DJ、MC、グラフィティと共に誕生したのがブレイキングだ。

「ブレイキングは芸術について、そして人間のたくましさを伝える物語です。芸術は人びとが自ら立ち直り、悲劇的な状況から美しいものを創造する手段になりうるのです」。ブロンクス出身のストリートフォトグラファーで、Bボーイのカルチャーを初期から追い続けていたリッキー・フローレスはそう証言する。

「ヒップホップはDJから生まれたという声もあるけれど、実際はBボーイから生まれた。つまり仕掛け人は俺たちなんだ」と、第一世代のBボーイ、チョリー・ロック(a.k.a. アンソニー・ホーン)は主張する。チョリーによれば、ブレイキングの起源は遡ること1960年代、ニューヨークのラテン系移民が当時のロックやソウルのヒット曲に合わせて始めた、〈ロッキング〉または〈アップロック〉と呼ばれる、マンボに由来するダンススタイルだという。ロッキングはもともと戦いのダンスで、試合形式で披露されていた。より攻撃的な要素を重視する人びとは、ダンスによるディスを〈バーニング〉と呼んでいた。このような挑発的なスタイルは、争いを繰り広げるNYのギャングたちに広まり、ある地域に根を下ろす。ブロンクスだ。

「俺たちのスタイル〈B-BOYING〉は、当時ブロンクスにしかなかった」とチョリー。彼やティーンエイジャーの仲間たちは、ヒップホップ音楽の生みの親である〈ブレイク〉から着想を得て、バーニングにひねりを加えた新たなダンススタイルを生み出した。チョリーをはじめとするBボーイに共通していたのが、当時急成長を遂げていたディスコシーンの華やかさ、現実逃避的な傾向に対する反感だ。「Bボーイはティーンの反抗から生まれた」とチョリーはいう。「ディスコ自体も、当時はまだブロンクスのサブカルチャーで、ラテン系にしか人気がなかった。つまりBボーイは、サブカルチャーのなかで生まれたサブカルチャーなんだ」

Ricky Flores South Bronx Photos

同時にバトルを繰り広げるロッキングとは違い、Bボーイたちは曲のブレイクでダンスを交互に披露した。彼らの舞台は、観客に囲まれた〈サイファー〉と呼ばれるスペースだ。ロッキングには縦の動きが多いが、B-BOYINGには低い位置での動きが多く、フリーズ、ドロップ、スピンなどを取り入れた。

B-BOYINGを生み出したのは、ラテン系のパーカッションにアフリカ系のメロディを組み合わせた、1970年代前半のアップテンポで独創的な音楽だ。「第一世代のBボーイなら、当時踊っていたレコードを12、3枚は挙げられる」とチョリー。THE INCREDIBLE BONGO BANDの「Apache」、ジェームス・ブラウンの「Give it Up or Turn it Loose」、マーヴィン・ゲイの「T Plays it Cool」。これらはすべて曲の〈ストップ・タイム〉を有効活用し、リズム楽器が静まって最低限のビートだけが鳴り響く〈ブレイク〉を際立たせている。「そもそもBボーイのレコードは、あまり目立たない曲ばかりだった」とチョリー。「デニス・コフィーの『Scorpio』は例外だけど、基本的にはB面の曲ばかりで、ヒットしてたわけじゃない。ヒップホップが流行り始めるころには、『Apache』のレコードはとても貴重で手に入りづらくなっていたから、Bボーイたちがパーティに持ちこんでいた。この曲が再発売されたのは、B-BOYINGを通して有名になったからだ」

Ricky Flores South Bronx Photos

このような音楽があったからこそ、ブロンクスのDJはB-BOYINGの発展に貢献した。「自分のダンスに自信があり、それを証明したければ、みんなDJクール・ハークかグランドマスター・フラッシュのパーティに行く」とチョリー。「BボーイのレコードをかけるDJは少なかったから、Bボーイなら絶対に彼らのパーティに出なきゃいけない」。しかしBボーイは、瞬く間にフロアでの存在感を増していく。「僕らはDJやラッパー目当てにパーティに通ってたわけじゃない」とフローレスは当時を振り返る。「僕らが会いたかったのはダンサーです。サークルのなかで、友達や近所のひとがすごい技を披露するのを眺めていました」

DJたちがBボーイの使命を後押ししたことで、よりブレイクの長い楽曲が作られるようになり、ヒップホップのサウンドの基礎を築いていった。DJクール・ハークがふたつのターンテーブルで同じレコードをかけて交互にブレイクを流し、Bボーイのパフォーマンスの時間を延長した、という有名な逸話もある。Bボーイという名前をつけたのもハークだ。ビートボーイ、ブロンクスボーイ、バトルボーイ、ブレイクボーイのいずれかに由来するというが、最初のBが何を表すのか、ダンサーや歴史家のあいだでいまだに議論が続いている。

ストリートで有名になった第一世代のBボーイは、ブロンクス出身者として初めてセレブの仲間入りを果たす。しかしチョリー・ロックによれば、彼らが剥き出しにしていた攻撃的なエネルギーは、しばしば反感を買ったという。Bボーイはカウンターカルチャーの象徴であり、決して現状に甘んじることはなかった。彼らは斬新なスタイルを追い求める先駆者であり、真の革新者だったが、そのためにすぐにはコミュニティの理解を得られなかった。「ヒップホップという言葉の語源は、Bボーイの蔑称だった」とチョリー。「みんな俺たちのダンスのスタイルを貶してた。床掃除屋、ヨーヨー、ウサギ、〈ヒッピディ・ホッパー〉…。こんな風に、Bボーイの飛び跳ねる動きはバカにされてた。これは愛称なんかじゃない」

当時のBボーイにまつわる悪評の背景には、ギャングカルチャーとの繋がりがあった。Bボーイのサブカルチャーが発展し、初期のクルー(この呼び名自体もギャングカルチャーに由来する)が結成される頃には、チームの軸は暴力からダンスへと変わっていった。Bボーイは、Leeのジーンズやクルーネーム入りのカラフルなスウェットシャツなど、ファッションを通して自らが所属する〈トライブ〉を表現したため、外見はギャングに近かった。しかし彼らは、クリエイティブな表現によって縄張り争いに終止符を打とうとしていた。ダンスは、暴力によらない〈決闘〉の手段として、攻撃的なエネルギーのはけ口となったのだ。

B-BOYINGの誕生が、もっとも愛された非白人アクションスター、ブルース・リーが米国で人気を博した時期と重なっているのは、決して偶然ではない。Bボーイは格闘技の動きを取り入れるだけでなく、その伝統的なスピリチュアリティや熱意も体現していた。前述のチョリー・ロックは、ヒップホップ界の伝説、アフリカ・バンバータが結成したBボーイクルー〈the Mighty Zulu Kings〉のメンバーだった。ダンサーたちは忠誠心、尊敬、助け合い、連帯責任など、ギャングカルチャーの良い面をクルーに取り入れ、争いを芸術へと昇華させた。

Ricky Flores South Bronx Photos

ロックと仲間たちが18歳頃に引退したあと、ダンスシーンのエネルギーを保ち続けたのは、ブロンクスのプエルトリコ人コミュニティだった。「プエルトリコの若者たちがこのシーンを受け継いで、俺たちのスタイルから今のブレイキングへの橋渡し役になった」とチョリー。第二世代のBボーイは、複雑なフロアワークを重視するようになり、20〜30秒のセットにアクロバティックな能力を示すエアムーブ、強さを示すパワームーブを加えた。こうしてブレイキングに画一的なフォーマットが生まれ、始まり、中間、終わりの動きが明確に区別されるようになった。まず始めに、ダンサーたちはアップロックで緊張感をつくりだし、自らのスタイルを誇示する。そして床へとドロップし、低い姿勢でのシックスステップ(床についた手を軸にして6歩で1周する技)から、エアムーブやパワームーブへ。最後は〈フリーズ〉ポーズで決める。サイファーの床が段ボールやリノリウムになったことで、コークスクリューやウィンドミルなどの技が新たにつくられた。「彼らがブレイキングを革新したのは間違いない」とチョリーは自らに続いた世代について語る。「骨組みをつくり、新しい技を生み出したり名前をつけたりして、このダンスを体系化していった」

1980年代前半、第二世代を代表するクルー〈Rock Steady Crew〉の登場により、ブレイキングは新たな局面を迎える。他のヒップホップカルチャーに続き、ブレイキングもメインストリームへの進出を果たした。B-BOYINGをブロンクスから世界へと広めるのに大きく貢献したのが、Rock Steady Crewだ。映画『フラッシュダンス』(1983)の有名なダンスシーンには、同クルーのメンバーが多数出演し、このサブカルチャーが世界から注目を集めるきっかけとなった。その後、Rock Steady Crewはシングルをリリースし、1984年公開の『ビート・ストリート』にも出演。続くワールドツアーでは、遠く離れた国々にまでブレイキングを広めた。

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Bボーイの大半が文字通り〈ボーイ〉であることはいうまでもないが、このサブカルチャーの発展に貢献した若き女性たちは、しばしば見過ごされがちだ。Bガールの英雄、ベイビー・ラブ(a.k.a. デイジー・カストロ・カタヤー)は、Rock Steady Crew唯一の女性メンバーとして3年間活動した。アッパーウエストサイド出身の彼女が、兄を通してブレイクダンスに出会ったのは、98丁目とアムステルダム・アベニューの交差点にある公園(のちにクルーの功績を称えて〈Rock Steady Park〉に改名)だった。「私が本格的にダンスを始めたのは1983年。小さい頃から兄や友達が踊るのを見て、フットワークとかいろんな動きを真似してた」とラブは回想する。

当時すでに人気を博し、成功を収めていたRock Steady Crewだが、男女数の差は明らかで、女性にとって必ずしも居心地の良い環境とはいえなかった。「クルーに加わったことで勇気づけられたけど、ずっと寂しかった。なんとか馴染もうとしたけど、結局馴染めなかったから」とラブ。「男の子たちにはお互い仲間がいたけど、私には、シーンで成長していくために関係を築ける相手がいなかった」。しかしそんな彼女が、孤独を感じながらもRock Steady Crewで活躍したおかげで、このサブカルチャーには女性の居場所があると証明された。ベイビー・ラブはBガールのアイコンとなり、のちに登場する数多くのBガールに影響を与えた。

Ricky Flores South Bronx Photos

「僕らがもたらした影響、そしてそれがどのように世界に広まっていったのかを正確に知るのは難しい。とても大規模な現象でした。コミュニティの崩壊とカルチャーの発展が同時に起こっていたんです」とフローレスは説明する。今の時代、ブレイキングを楽しむ人びとの人種、ジェンダー、性的指向、経済的なバックグラウンドは多岐にわたる。しかし彼らに共通する純粋なBボーイスピリットは、抑圧をものともしないたくましさや、アート表現の勝利を象徴している。これこそ、ブレイキング誕生の物語に通じるスピリットだ。この特別なスピリットは、現在のシーンにも息づいている。真のBボーイはブレイキングのルーツを理解し、思想を受け継ぎ、その歴史と重要性に敬意を払う。動きを真似るだけの〈ブレイクダンサー〉とは違うのだ。

This article originally appeared on i-D US.