編集長/クリエイティブディレクターが明かす『Acne Paper』制作秘話
Acne Studiosが年2回発行していた伝説のマガジン『Acne Paper』。そのレガシーを讃える総集本の発売を記念して、本誌の編集長/クリエイティブディレクターのトーマス・パーソンが、特に印象的な特集を振り返る。
ファッションブランドが雑誌の分野へ進出するのは、今となっては決して珍しくないが、Acne Studiosのクリエイター陣が2005年に発行した『Acne Paper』創刊号は、史上初の試みに近いものだった。しかし、カルト的人気を博したこのマガジンは、ブランドを前面に押し出したカタログというより、ファッション、アート、文学、ジャーナリズムを通して、このスウェーデン生まれのラグジュアリーブランドの信念に肉薄していた。
「Acne Studiosは、当時はまだクリエイター集団だったブランドのスピリットを反映したマガジンをつくることを目指しました」と創刊から2014年に幕を閉じるまで『Acne Paper』の編集長/クリエイティブディレクターを務めたトーマス・パーソンは説明する。「このマガジンは、当時進めていたクリエイティブプロジェクトに自然に加わったもの。いわば新しく出版部門を立ち上げたような感じです」

「私たちの目的は、ファッションにおける多様性を見せることでした」とAcne Studiosの創始者兼クリエイティブディレクターのジョニー・ヨハンソンは語る。「私たちのブランド、そしてさまざまなクリエイティブの分野に対する私たちの関心を反映し、(中略)インスピレーションを与えてくれる人びととコラボレーションができるように」
これはかなり控えめな表現だ。『Acne Paper』は9年にわたり、業界を代表するクリエイターたちを取り上げ、コラボレーションを行なってきた。ページをめくれば、アーヴィング・ペンやパオロ・ロベルシといった写真界のレジェンドが手がけた写真や、ジェイミー・ホークスワース、ソルヴ・サンスボ、マリー・シェイによる初期のエディトリアル、さらにセントラル・セント・マーチンズのコースディレクターを務めたルイーズ・ウィルソン、もっとも愛されるニューヨーカーのひとりであるアイリス・アプフェル、今は亡きクチュリエのアズディン・アライアへのインタビューを堪能できる。
このそうそうたる名前の一覧からもわかるように、『Acne Paper』は、現在のファッション誌にはほとんど見られない、巧みな折衷主義の上に成り立つ雑誌だった。「僕たちが『Acne Paper』をつくっていたとき、世界は今とはまったく違いました。SNSが普及する前で、世界はもっと小さく感じられました」とトーマスは当時を振り返る。「デジタルメディアはまだ生まれたばかりで、だからこそエディトリアルにもある種の純粋さがあった。そこまで注目も浴びず、ただ自分たちが好きなものを発行していました。とても自由だったんです」
この『Acne Paper』の雑誌制作への自由なアプローチが、1冊の本に結集した。ブランドのあふれんばかりのアーカイブを讃える、568ページにおよぶ巨大なハードカバーだ。サラ・モーア、ヴィンス・アレッティ、ロビン・ミュアーが書き下ろしたエッセイに加え、本誌が取り上げてきた15のテーマを解説する、フォトグラファーのクリストファー・スミスによるポートフォリオも収録されている。
パリでは、オープン直前のフォーブル・サントノーレ通りのAcne Studios旗艦店で、本作の発売を記念した展示が7月10日まで開催された。残念ながら行けなかった、というひとも大丈夫。トーマス・パーソンが『Acne Paper』のアイコニックな記事について裏話を明かしてくれた。

2006年 第2号 キム・ジョーンズとアラスター・マッキーのハロウィン・ドラァグ・パーティー
──本の中で「1年でもっとも奇妙な社交行事」と説明されている特集の裏話を教えてください。
このロンドンの仮装パーティーに行くと教えてくれたのは、僕の友人のベンジャミン・アレキサンダー・ヒューズビーでした。当時はストックホルムに住んでいたので、彼に写真を撮ってきてほし
いと頼んだんです。ちょうど現実逃避をテーマにした特集を進めていたんですが、僕自身ずっとドレスアップするのが大好きで、思い切りふざけて楽しみながら別のキャラクターになりきることも一種の逃避だと思って。〈奇妙な〉という表現は正しくなかったかもしれませんが、他とはひと味違う、目の眩むようなパーティーでしたね。僕も行きたかった!

2006年 第3号 ルイーズ・ウィルソン
──ルイーズのレガシーは、現代のファッションにおいて大きな位置を占めています。彼女をこの号で取り上げた理由は? 彼女はあなたにとってどんな存在ですか?
ルイーズはセントラル・セント・マーチンズの僕の教授で、僕も他の学生のように彼女を心から尊敬していました。だから教育をテーマにすると決まったとき、絶対に彼女に出てほしかった。僕にとって、彼女はそれぞれの才能を探り、理解し、筋肉のように鍛えることを可能にすることで、才能を具現化できる存在。多くの人びとの人生において重要な存在でした。彼女のようなひとは、この世界にふたりといません。

2007年第 4号 アイリス・アプフェル
──この号のテーマは遊び心でした。アイリスはそれをどのように体現しているんでしょうか?
アイリスはいつも洋服で遊んでいます。服は彼女にとって歓びであり、彼女は自分の外見で遊んだり、どのように自分を表現するかにユーモアをもって向き合うことを決して恐れない。もうすぐ100歳を迎える彼女は、僕がこれまでに会ったなかでもっとも遊び心あふれる人のひとりです。

2007年 第5号『Ain’t No Mountain High Enough』
──この号の記事はかなり苦労されたと思います。制作の裏話を教えてください。
ちょうどマリー・シェイがハンス・フューラーと仕事をし始めた頃で、彼女が彼に『Acne Paper』の記事を任せたいと思ったんです。テーマは〈エレガンス〉で、彼女はアフリカ系のモデルを起用することにしました。ロケーションはスイスアルプスになりました。確かハンスが住んでいる所のすぐ近くだったと思います。ご存知のとおり、ハンスは自然写真家のようにファッションを撮ります。かなり離れた場所から撮影するからこそ、こういう独特の質感が生まれます。
──ファッションエディトリアルは『Acne Paper』でどんな役割を担っているのでしょう?
本にエッセイを寄稿してくれたヴィンス・アレッティの言葉を引用したいと思います。「ファッションは拡大する。もっとも広範囲に及ぶものすら、過去がどのように今を形づくっているかを注意深く観察すれば、広い意味での文化に焦点を当てた混合物の一要素に過ぎなかった」『Acne Paper』の刊行中ずっと、マティアス・カールソンとマリー・シェイというふたりの優秀なスタイリストと仕事ができて、僕はラッキーでした。ふたりが手がけたファッションシュートは、今見ても、ふたりに初めて記事を任せた当時と同じくらい新鮮に感じられます。『Acne Paper』には歴史を見通す視点があり、マリーもマティアスもファッションストーリーを通して、このマガジンを現代にふさわしいものにしてくれました。ふたりの貢献があったからこそ、現代的なマガジンになったんです。


2009年第8号 アズディン・アライア
──あなたとアズディンの対話は、よく話題に上った彼の評判が本当だったことを証明していますね。彼の優しさ、ウィットに富んだユーモアのセンス、どんな人びとのために服を作りたいかということへの細かな注意……。個人的にはどんな印象を抱きましたか?
寛大で、温かくて、ウィットに富んでいて、全体的にチャーミングな男性でした。彼はマレ地区にある自分のアパートのキッチンで、毎日チームのために料理を作っていました。チーム全員が毎日キッチンに集まって一緒にランチを食べていたというエピソードからも、彼の人となりがよくわかります。
ある日、彼の昔からの友人であり、伝説のエディターでHermèsの最初期のクリエイティブディレクターだったクロード・ブルエが招待してくれて、彼のアパートを訪れました。そこでランチを一緒に食べながら、アズディンが興味深い話をたくさん聞かせてくれました。子どもの頃、ちらっと見えた修道女の足首に性的な魅力を感じたとか。彼は真の職人であり、心から寛大なひとでした。


2012年第13号 ヴィンス・アレッティがキュレーションした〈Male〉
──この号のテーマである身体は、アート、文学、哲学、そしてもちろんファッションの世界でも繰り返し取り上げられてきました。この号の〈身体〉にまつわるクリエイティブな対話を通して伝えたかったこととは?
アーティスト、作家、デザイナー、フォトグラファー、科学者の心の中にある身体への強い興味について知りたかったんです。この号の狙いは、あらゆる輝きを持つ人間のかたちを祝福し、同時にその謎に迫るものでした。身体そのものについて何か新しいことを発信したわけではなかった。身体について興味を持ち、学びたいと思うこと、そして何世紀にもわたるアートや視覚文化における表象について掘り下げました。

- Tagged:
- Books
- Acne Studios