Photography Keisuke Nagoshi

マヒトゥ・ザ・ピーポーが考える、“弱さ”の力「怯えることの何が悪いのか」【来たるべきDに向けて】

新たに始動したエッセイ連載、初回はGEZANのマヒトゥ・ザ・ピーポーが登場。かつて臨死状態に陥った彼を救ったのは、自身の「弱さ」だった──今必要とされている能力は、“正しく怯えること”かもしれない。

by MahiToThePeople
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07 August 2020, 3:00am

Photography Keisuke Nagoshi

坂本龍一とGotchが中心となり、震災(Disaster)から10年(Decade)という節目にさまざまなDをテーマにした無料フェス「D2021」が、2021年3月13日と14日に日比谷公園で開催される。この連載「来たるべきDに向けて」では、執筆者それぞれが「D」をきっかけとして自身の記憶や所感を紐解き、その可能性を掘り下げていく。

今回の書き手はGEZANのフロントマンで、先日『破壊の日』でスクリーンデビューを果たしたマヒトゥ・ザ・ピーポー。かつて蜂に刺されて臨死状態に陥った彼を救ったのは、自身の「弱さ」だったという。コロナの時代の強さとは? 人に会うことが「死」に繋がる可能性を考えずにはいられない今、必要とされているのは強がりやカリスマではなく、正しく怯えることや弱いリーダーなのかもしれない。


「DEATH」マヒトゥ・ザ・ピーポー

わたしは大雀蜂に二度刺されたことがある。

育ちすぎた大根のように、いびつに膨らんだ太ももを川の水で冷やし、意識が朦朧とした夏の日の午後を覚えている。直射する日の光に眉を細めながら声なのか音なのか、唇の間から漏らしていた夕暮れの色のことも。

二度目に刺されたのは納屋にできた巣に石をぶつけた時だった。一斉に暴れ出した大雀蜂は数年前の橋の下の時と同じように太ももに飛びかかり、激痛を走らせ、石を投げさせた軽率な冒険心をわたしは即座に呪った。痛みより前に目眩がくるといった感じで、全身が痺れたが、結局死ぬことはなかったから今わたしはタイピンングしている。

アナフィキシーショックにより死亡するのは一度目のショックが大きすぎて、二度目に刺された時、過度に抗体が反応して、その自らの免疫によって心肺停止に陥ると言われている。つまり二度刺されたわたしは体が強かったためではなく、弱かったから助かったのだと言える。ちなみにわたしはこの巣を解体した各部屋の構成の記録と、痛みの体験記を合わせた夏休みの自由研究でそれらしいテキトーな賞を受賞した。

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photography Daisuke Matsumoto

強さとは一体なんだろうか?

その昔、優れた呼吸器官を持っていたためどんどんと巨大化していった大型の恐竜は、一旦はその強靭な力のため生物界のヒエラルキーのトップに君臨したが、6550万年前の隕石の落下により寒冷化した世界に順応できず、あっけなく絶滅した。その大きな筋肉を稼働させるためのシステムがその気候の変化に追いつかなかったのだ。今では博物館のガラスの向こう側で保護される存在だ。

その一方で生き残ったのは、その巨大な肉食獣の背後で怯えながら、おろおろと様子を伺っていた哺乳類や鳥類だった。

生き物は危機的状況を前にするとそれまで積み上げてきた力や富がいかに無力なのか思い知ってきた。考えてみれば、そうした思考のカーヴを歴史と呼び記録してきたのだろうし、当然このコロナ危機も例外ではなく刻まれることだろう。わたしたちは命の危険を感じたことで、存在の無力さを知り、同時にそう思える生の実感も手にした。

うっかり忘れてしまうことだけど、人は死ぬ。ふつーに死ぬ。ゲームではリセットボタンを押せばセーブしていたところからやり直せるけど、現実は巻き戻らないと頭ではわかっている。それでも余裕で忘れる。死に怯えていると生産性を落とすから社会の方が現実にモルヒネを打つ。怯え、立ち止まることは経済にとって不要なことで、何の疑問も持たずにそう設定されたAIのように効率よく働く人材を社会は求めている。

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photography Daisuke Matsumoto

SNS上では平気で「死ね」とから「殺す」とか言った言葉が飛び交っているけれど、そんなに焦らなくても、誰かと会って話をするだけで死ぬ可能性があることを今回のコロナ禍でわたしたちはそれぞれの部屋の中で知ったはずだ。その怯える気持ちは今日の灯台になるべきだと考えている。その命の手触りの上に新しい世界が築かれることを願っているが、より強い反動でもって元の世界に戻そうとする力は働くだろう。十年前の震災の時だってそうだった。

大企業だけが生き残り中小企業は消えても仕方ない。この方針は企業のみならず音楽の現場でも言えるし、マイノリティを切り捨てる意志表示は都知事選の結果にも反映されていたと思う。この経済的損失を補うためにより生産性を優先させるような社会構造が組み上がっている。だが、最初の疑問を繰り返すが、強さとは一体なんなのだろうか?

屈強に一つに束ねられた集団は一つのアンサーで応対することができる。しかしその巨大に見える連帯にそれぞれの意志がいくつもあった場合、そのそれぞれの意志の分のアンサーが必要になる。それはとっーても大変なことだ。仮にわたしがお上ならこれが一番だるい。

みんな寒さに弱かったら100頭いても全滅だけど、寒さに弱いのもいれば強いのもいる世界なら50頭は生き残る。世界が一つにならないよう、孤立したまま連帯する。そんな未来にとって優れたリーダーのモデルとはなんだろうか?

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photography Daisuke Matsumoto

もう従来のリーダーシップと言われるような力やカリスマ性で皆を一つに束ねる性格は不必要に思える。それよりもそれぞれが孤独でいることを許容してくれるようなそんな弱きリーダーこそ必要なのではないか。

力が弱いことはそんなにダメなことだろうか? 命に怯えること、わたしはそれを極めて未来的な感覚だと思っている。その命は大切な人の健康を気づかうとかそういう生命と直結した意味での命であることはもちろんだが、それだけではなく、ただその人がその生を真っ当するために必要な時間や物も含まれる。それはわたしで言えばライブハウスやクラブなどの音楽の現場だし、人によっては「夜の街」と呼ばれる繁華街だったりする。そんなところいかなくても命は無くならないだろう?と言いたい人の気持ちも理解できるが、その時間が心のよりどころになっている人にとって、その問題は生きるというテーマの元では切実で何も論点のずれた話ではない。

「きれいごとばかり言うな。憲法九条なんていう無力な憲法で実際のところ国民は守れるのか?」と改正派はよく言うけど、わたしは弱さを掲げることが敗北だなんて思わない。両手をあげた状態の者を殴れる鬼畜は相当なレベルにならないといない。中学生の頃、 カラーギャングに何度も囲まれてあばらを何度も折られたわたしの経験がそう囁く。

どんな方法でもいいから生き残って、笑って一秒でも多く未来と呼ばれる時間を生きる。そのために怯えることの何が悪いのか。わたしは正しく怯え、週末の何も生み出さないでたらめな時間に頭からDIVEしたいのだ。

この十年は何も変わらなかった十年だっただろうか? 少なくとも、政治が生活と直結している皮膚感覚を手にしていった十年だったと思う。その声は渦になり暴力的な政治への監視の役割としてちゃんと機能している。

次の十年はどんな風になるだろう。見えない銃弾が飛び交い、誰もが腹や腕にその弾を受け、透明な血を流している。残念ながら戦いはまだ続くだろう。

わたしは誰に勝たなくても誰にも負けてないその日まで生きることを続けようと思う。そして、願いが届くならわたしの愛する人たちよ、強くなどならなくていい。尊厳を持ち、ただありのままの姿で共に生きてほしい。

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「D2021」
日時:2021年3月13日(土)、14日(日)
会場:日比谷公園(日比谷公園アースガーデン“灯”内)
主催:D2021実行委員会
共催:アースガーデン/ピースオンアース
※D2021は「311未来へのつどい ピースオンアース」の関連企画です

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