転がる石のように:北村道子 interview

『i-D Japan no.6』フィメール・ゲイズ号に掲載されたインタビューを全文公開。日本を代表するスタイリスト・北村道子の魔術的想像力とその特異な洋服哲学の源流に迫る。

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16 October 2018, 9:32am

この記事は『i-D Japan No.6』フィメール・ゲイズ号から転載しました。

生と死、抽象と具象、自然と都市—— 北村道子は相反するものを融和させる。その錬金術的なスタイリングは、混沌のなかに秩序と調和をもたらす手法にほかならない。彼女はどのようにして、その術を体得したのだろうか? 日本を代表するスタイリスト・北村道子の魔術的想像力とその特異な洋服哲学の源流に迫る。

《サイコロを振ったら》

——まずはスタイリストになるまでの経緯を教えてください。当時はまだ、今のように誰でもスタイリストになれるような時代ではないですよね?

北村:私、自分ではスタイリストだと思っていないんです。たまさかフォトグラファーから依頼されて、洋服のお手伝いをさせてもらうようになっただけで。もともと彫刻家志望だったから、ひとつのものを構築していくのは好きだったけど。

——なるほど、シェイプに合わせて形づくっていくという。

北村:そう。たとえば、ひとりの女性が現れたときに、この人の美しさはどこにあるのだろう、どうすればこの人を表現できるだろうと考える。そうやってひとつのものを作り上げていくのは彫刻と同じなんじゃないかなって思うの。

—— スタイリングを始めるきっかけは何だったんですか?

北村:東京に上京してきたときにどうしてもお金が必要で、仕事を探すために日経新聞を買ってきたんです。サイコロを振ったら、デザイナーの求人広告に当たって。それで面接に行くと、ちょうどモデルのオーディションもやっていて、山口小夜子もいたんですよ。彼女はそれに受かって、キャリアが一転することになるわけだけど。で、私はグラフィックデザイナーの募集だと思ってたの(笑)。やっぱり他にもグラフィックデザインだと勘違いした子がいて、待ち番号も500番台だし、「もう帰ろっか?」って話してたんだけど、何人かでポートフォリオを見せ合いながら「こんな絵描くんだ!」とか言って盛り上がっていたら、私の番になって。デザイナー本人はいなかったんだけど、「えっ、グラフィックじゃないんですか?」と言ったら秘書の方が面白がってくれたの。

—— 道子さんも大胆だし、面白がる方もすごい(笑)。

北村:それで「もしあなたがファッションショーをやるとしたら何をする?」って質問してくるのよ。で、私は「ファッションショーって何ですか?」と聞き返して、説明してもらい(笑)。「私だったらボクシングジムでやる!」と言ったら、その案が採用されたんです。そこでは3年間アルバイトしたんですけど、チームで洋服を作り上げていくのを見たりして勉強になりましたね。当時はMary Quantが活躍していたり、海外のランウェイでは胸を露出して、パンツも丸見えというのが当たり前だったし。

——じゃあ東京に来る前から、洋服には興味があった?

北村:全然ない。ファッションという存在を知らなかったから。

《金沢からカナダへ》

—— 道子さんは金沢の生まれですよね。当時はまだ、厳格な父親がいて母親は家事をするというような家庭が多かったと思うのですが、どのような幼少期を過ごしたのでしょうか?

北村: 私は三姉妹のいちばん下なんですけど、母は私を身ごもっているときに父の両親から「男を産みなさい」とプレッシャーをかけられて精神を病んで、産後もしばらく病院に通っていたんです。それで私は母の異母兄妹の伯母に育てられたんですよ。実家には小学2年生のときに戻りました。台所で母が忙しく働いていたのを覚えてる。でも、朝食の席にはいないわけ。かたや父と私たち娘は黙って食べているんです。父は私が小学5年生のときに亡くなるんだけど、それまではずっと私の家庭教師をしてくれていましたね。彼が死んだときに、病院が彼を解剖したいという話になって、母は泣きながら「どうぞ」と言ったんです。変なことだけど、子どもってそういう言葉とか覚えているでしょう? 夫を失っているのに、なぜ母は泣きながら頭を下げているんだろう、と小さいながらに違和感があって、そのときに私は、絶対頭を下げない女になろうと思ったんです。もちろん、助けてもらったり、自分に何か得たものがあるときは別ですよ。まあ、それで父が亡くなると、家が崩壊しちゃうわけです。

——それまでのバランスが崩れて。

北村:そう。でもそのときに、女性って解放するんだなって思ったの。なんていうのかなあ、母は父が亡くなってから、なんでも好きなことをやっていこうという感じで。

—— 伯母さんの家のことは覚えていますか?

北村:ものすごく覚えてる。私にとって、そこは仮の宿なのよ。お腹が空いていてもお代わりできない、よそ者のような感覚。周りには従姉妹かなんだかわからないきれいな女の人たちがいて、伯母はいつも美容院に行ってきれいな紬を着ている。それでこう思うわけですよ。彼らと交わりたくない。もうひとつ強烈に覚えていることがあって、私は裏屋根みたいなところに、毎日朝食を運んでいたんです。

—— 誰がいるんですか?

北村:伯母のお母さん。日本海側って独特なんですよ。「あの人は誰?」って質問ができない場があるということが、ひとり遊びの哲学を生んでいく。西田幾多郎に近いですよ。だからそのときに、なんていうのか、ひとつの異質な生命体みたいなものを学びましたね。

—— 道子さんは大学の前にカナダに行かれていますよね? どうして金沢を離れようと思ったんですか?

北村:暗い話ばっかだし、明るいところに行きたかったんですよ。16歳のときに、美術大学の名誉教授のところに日本画を習いに来ていたネイティブ・アメリカンを見たのがきっかけでした。女も男もロン毛で、体を絡めあって艶めかしく踊るんだけど、それがいい踊りなのよ。で、背中にはイーグルの刺青。当時は刺青を知らなくて、生まれつきそういう模様のある人たちだと思ってたんだけど(笑)。それが格好いいし、彼らの暮らすところに行ってみたいと思い、お願いして連れていってもらったんです。でも船便で実際に行ってみると、想像していたようなパラダイスじゃないわけ。カナダの国境近くなんだけど、トーテムポールが並んでいたり、男だけの村と女だけの村があったり。そこには3年間いましたね。

—— 3年間どうやって過ごしたんですか?

北村:ただひたすら歩くんです。そのうちに好きになってくるんだよね、そこのおばさんのことも。こういうときに髪を洗うんだとか、鉛筆も何もないんだけど、ひたすら観察していく。そうすると、ここからはまた違う民族だっていうのが段々わかってくる。赤ん坊と同じ感覚ですよ。ひたすら自分の足で歩いて、自分のなかの何かに気づくと、急にブワァーと喋り出す。私はそこで母系社会を学びましたね。食事のときなんか、女たちはものすごく強い。狩りができるんですよ。ニワトリでもなんでもさばくし。だから私もやりました。「やらなければ、あなたに食事はない」って言われて。

—— 10代にとっては強烈な体験ですね。

北村:自分になかったものを埋めていたんだと思う。家庭教師をしていた父が亡くなって、そこに開いた穴を歩きながら埋めていたんだね。

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《坊主刈りの抵抗》

—— 本号のテーマは「フィメール・ゲイズ」なのですが、道子さんは女性性(フェミニニティ)をどのように捉えていますか?

北村:自分のアイデンティティを確立しながらも受け入れられること。私は、それが女性のおおらかさだと思う。私は全部受け入れる。それはプライベートとパブリックが同居してるってことなの。そこに線を引くことじゃなくて、順ぐり順ぐり回転させていく。1+1=2じゃなくて、ある個体と別の個体が同居してるってこと。だからチェックに近いですよね。白と黒があって、それが合わさると白黒のチェックが生まれる。そうやって確固とした自分を持ちながら、相手を受け入れるのが女性なんじゃないかなと思う。そうじゃないと争いになっちゃうわけ。男性社会の原理だと富や覇権の争いになって、その行き着く先は戦争じゃないですか。だから今までは男性中心の社会だったけれども、これから女性が少しずつ出てくると思う。

—— 道子さんがスタイリストを始めたころは、業界も今よりずっと男性社会が色濃かったと思います。

北村:80年代、私は仕事の現場でほぼ唯一の女性だったからね。人に言えないこともいっぱいありましたよ。たとえば、化粧品の撮影でロケに行くと、有名無名を問わず、女のスタッフはみんな写真家と寝るんだって言われるんですよ。「えっ、どういうことですか?」ってなるでしょう(笑)。

——それでどうしたんですか?

北村:抵抗しましたね。当時、KISSMEって赤い口紅をつけてたんだけど、口紅も一切塗らなくなって、長い髪も坊主刈りにして。絶対に誰も寄ってこないですよ。それから、その人たちとは一緒にご飯を食べない。「仕事中でも私には自分の時間があるから」って。そういうことを言えて仕事を依頼される自分になろうと、そのとき決意しました。

—— 絶対に屈しなかった。そのころと比べると、今はずいぶんましになりましたよね。当たり前のことですが。

北村:それこそ問題になっちゃうもんね。でも、これから必ず日本発の#MeTooや#Time’sUpみたいな運動も出てくると思う。今はアメリカからの流れに乗ってるだけだけど。

《同等のセックス》

—— 少し話は変わりますが、若い世代のクリエイターたちを見ていて何か思うことはありますか?

北村:私が日本の雑誌を読まないのは、感動するページがないから。20代のころに見ていた雑誌は一枚一枚の写真がユニークで感動したんだけど、今はもうみんな似てる。みんな自分をアピールするじゃないですか。でも大切なのは、自分じゃなくて、どう作品を世界にアピールするかだと思う。もっと異質なことをしないとダメなんですよ。それが川久保(玲)さんの言う、スーザン・ソンタグの「キャンプ」だと思うんです。注目されるより、異質なことをやり続けながらバランスをとるというのがどれだけ大変か。それから日本の雑誌はインタビューがくだらない。それは国民性と関係していて、日本は恥ずかしいくらい芸能社会でしょう。芸能人が政治家になっても、それを笑っていられるメンタリティがある。私はそれがすっごく好きではない。じゃあそのなかで、どうやってジャーナリズムに接すればいいのか。今は携帯でなんでも調べられるけど、そこで自分はどうなんだって自己を見つめ直さなきゃいけないんだと思う。検索は誰でもできることで、それはただの閲覧じゃないですか。そこで大事になってくるのが、アンディ・ウォーホルが『Interview』で実践していたインタビューだと思うんですよね。今は内容も変わってきているけど、エミネムにしてもケンドリック・ラマーにしても、ピークの少し前の良いタイミングでインタビューしているでしょう。内容も非常に政治的なものが当たり前のように出る。「ユナイテッド」が頭に付いている国は、イギリスでもアメリカでも束ねなきゃいけないから宗教と政治が重要になるわけじゃない? 日本は県で分かれているけど、それが問題になることもないし、市民革命も経験していない。それは大きいですよ。海外だと、政治的なこと聞くんだったら「私は民主党なんだけど」とか、宗教の話をするなら「私はブディズムです」とかってまず名乗るしね。

——日本だと、あまりそういうお話にもならないですよね。国内の政治より、アメリカの大統領選挙に関心が強かったり。

北村:日本にいるのにトランプのことばかり詳しくて、不思議ですよ。日本ってオーダー(秩序)がない国なんだなと思います。だから若い子たちには、人前でも自分の意見をはっきり言えるようになってほしいよね。

—— ほかに、先人として若い世代へのアドバイスはありますか?

北村:私は最近若い子に、ミーティングでもなんでも仕事をするときは、50/50のセックスの人間を入れるべきだって言ってるの。男子が3人なら、必ず女子も3人入れること。それは大事。同等のセックスですよ。私がコマーシャルの仕事をやらなくなったのもそういうこと。打ち合わせに参加する50人全員が男で、みんな決まったことだけ言って、あとは黙ってるんですよ。

——そこが女性だったら違いますかね?

北村:うん。女は自分がやりたい人と組むと思う。あなたのそこは良いけども、私はこれが好きだから今はあなたとやらない、って忌憚なく言うでしょう。

——で、言われたほうもそれを受け入れられる。男性は耐えられなくて、拗ねてしまったり。

北村:女はリアリストだから。私ね、昔から頭のなかに映像が浮かぶんです。スタイリングも衣裳もそれを再現しているだけなんですよ。でも、それは男性社会だったら絶対活かせなかった能力だと思う。

——どうしてですか?

北村:私がスタイリストの仕事をするようになったのは、MILKの大川(ひとみ)さんに当時『花椿』の編集長だった平山(景子)さんを紹介してもらったのがきっかけなんだけど、やっぱり資生堂も男性社会で、平山さんが唯一の女性だったんですよ。撮影のたびに会議がかかるんだけど、そこに必ずファッション評論家がいるの(笑)。最初、私マイナス150点って言われたんですよ。それでも平山さんが「マイナス120点になるまで彼女を使ってみない?」って、周りに言ってくれたんです。

——そのひと声で、今の道子さんがある。

北村:だから洋服はわかんないの。

—— 今でも?

北村:私すぐ「これいいね、どこの?」って聞くじゃないですか。今でもわかんないですよ(笑)。

Credit


Photography Yoshie Tominaga.
Interview Kazumi Asamura Hayashi.