『母という名の女』:ミシェル・フランコ監督 interview

『或る終焉』の結末で世界を騒然とさせたミシェル・フランコ。メキシコ次世代の俊英監督が最新作で挑んだのは、“母親”をひとりの女性として描くことだった——。「コミュニケーションの難しさ、それから悲劇的な人間関係の壊れ方に興味があったのです」

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jun 14 2018, 8:55am

2013年以来、ここ5年でアカデミー賞監督賞にメキシコ出身の映画監督3人──アルフォンソ・キュアロン、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、ギレルモ・デル・トロが選出されていることは周知の事実である。90年代以降、キュアロンをはじめとして新しいメキシコ映画の運動「ヌエーヴォ・シネ・メヒカーノ」が勃興し、質の高い作品が生まれてきているが、なかでも『闇のあとの光』(2012)のカルロス・レイガダス、『エリ』(2013)のアマト・エスカランテら1970年代生まれの作家たちが世界的にメキシコ映画の充実を認識させている。ミシェル・フランコはそのひとりである。

あらゆる暴力的な嫌がらせに晒され沈黙の犠牲者となる10代の少女を描いた『父の秘密』(2012)、終末期患者から安楽死幇助を懇願された看護師の孤独と罪悪感の慢性的な苦悩を描いた『或る終焉』(2015)など、フランコは日常に潜む暴力や死、喪失、あるいは狂気に目を向けてきた。カンヌから寵愛を受ける彼は、一貫して人と人、とりわけ青少年と大人のコミュニケーションの欠如や断絶に関心を寄せているのである。

第70回カンヌ国際映画祭である視点部門審査員賞を受賞した『母という名の女』は、若くして妊娠した17歳のバレリア(アナ・バレリア・ベセリル)の物語としてはじまる。しかし、まだ娘が幼子を世話することができないと考えた離れて暮らす母親アブリル(エマ・スアレス)の予期せぬ登場によって、次第に映画の主題は、未成年の子育てから母による干渉と所持の問題に移行していく。アブリルは映画史上最も邪悪な計画を企てる母親のひとりだったのだ。

ミシェル・フランコの映画で、キャラクターの動機や因果関係を正確に特定することは困難だ。複雑で多元的なリアリティに忠実であろうとする彼は、決して現実をクリーンなものに秩序立てることはしない。本作でもアブリル、バレリア、そして姉クララという異なる性格の女性の視点のもと、不可解な行動も違和感のままに観客の前に差し出している。冷徹で感傷を排した演出のなかで、観客は居心地の悪い時間を過ごすことになるだろう。

──『父の秘密』『或る終焉』が身近な人の死をきっかけに疎遠になってしまった家族、あるいは父と娘の壊れてしまった関係の背後に母親の不在ないしは希薄な構造があったとすれば、今回は不在の母親が現れ、新たな命をめぐる物語になっていますね。

「脚本を書き始めたときから沈黙というものに興味がありました。キャラクターとキャラクターが上手く通じ合うことができないコミュニケーションの難しさ、それから悲劇的な人間関係の壊れ方に興味があったのです。あなたが仰るように、前作のティム・ロスのキャラクターには娘や元妻、あるいは自分の過去とすら上手くつながり合うことができない側面が表れていると思う。それに対して、確かにこの映画はまた少し異なるエネルギーをもたらしたいと考えました。今までのようにキャラクターがそれぞれの道を行ってしまう側面もあるけれど、同時により気持ちを表現していくようなシーンも多いと思います。今までの作品が家族の外からやって来た者によってトラブルが引き起こされ、家族の面々がそれと向き合わなければいけなくなる、あるいはそのことによって家族同士が改めて見つめ直さなければいけなくなるような構造だったのに対して、今回は不在の母親が戻って来て、しかも彼女自身がトラブルを持って来る。物語のカオスは家族の内からもたらされる、そういった構造が異なっていると思う」

──仰るように、機能不全の家族、つまり人が身近な人ほどコミュニケーションを取れていないという問題に関心を寄せているように見えます。

「その逆もあるとは思いますが、やはり現代社会を生きる私たちが抱える葛藤の根っこの部分は、家族に根差しているような気がします。とても興味深く思うのは、なぜこれほどまでに教養があったり、聡明だったり、可能性は無限大で様々なツールを持っている私たちが、コミュニケーションを取れないのだろうかということです。同じ部屋にいたとしても上手く話し合うことができない。本当によくお互いを知っていて幸せにしたいと思っていても、結果的に傷つけたりしてしまうのはどうしてなのだろう。それはいつも周りで起きていることでもあります。だからこそ、家族というテーマに惹かれるのでしょうね」

©Lucía Films S. de R.L de C.V. 2017

──『或る終焉』では疎遠になった父親と娘の関係性をまるでストーカーかと誤解させるような演出をされていました。今回もクララは最初はあたかも家政婦のようであり、アブリルはバレリアを親身になって援助する母親のように見えるよう観客を巧みに操作しているように思います。なぜあえてこういう演出をすることを好むのですか。

「それにはふたつ理由があります。ひとつは、私自身が映画を観に行くときにすべてこうなるだろうとわかるような映画は大嫌いだからです。残念ながらいま作られている映画にはそういう構造から成り立っているものが多いですよね。特にハリウッド系の脚本のマニュアルに沿って作られているタイプの作品では、映画が始まって5分で主人公のキャラクターがある程度わかって、誰がいい奴で誰が悪い奴かが明らかになり、物語のなかで主人公のゴールが何なのかがすべてわかる。そのような作品ではなく、私は新しい世界を自分なりに「これはなんだろう?」と理解しようとしながら観ることが好きなので、そういう映画を作りたいのです。ふたつめは、人生というものは、そういうものだと思うからです。朝ベッドから出て、その日なにが起きるかなんてわからない。友達や恋人に会ったり、あるいは仕事の会議に行ったりして、ときには自分がまったく想像していなかったようなことを口にしていたり、行動していたりする。それに対する自分のリアクションに驚いたりもする。そういうのが普通の人生であり、面白いところだと思う。とはいえ、サプライズのためのサプライズになってしまっては映画として成立しないので、物語にかなったものでなければいけませんが」

©Lucía Films S. de R.L de C.V. 2017

──あなたは映画でミヒャエル・ハネケを彷彿とさせるミニマルで生々しい暴力を描いていますが、同時に倫理を問うているような気もします。

「道徳観はテーマ的にそれほど意識はしていません。むしろ私はカオスの信者なのです。だから『父の秘密』もすごくカオスなエンディングだと思うし、『或る終焉』でも主人公がある種ずっと自分の運命から逃れようとしている様が描かれています。今回のアブリルの場合も、彼女はこの物語が終わってからもほかのところできっとずっとトラブルを起こし続けるのだろうと思う」

──では、ハネケはお好きですか?

「イエス! 大好きです。彼は最も素晴らしい現代の映画監督のひとりだと思う。ほかには、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン、アピチャッポン・ウィーラセタクン、ヨルゴス・ランティモス、もちろんラース・フォン・トリアーも好きですね」

──タクシーに乗り込んだバレリアを正面から捉えたラストシーンは『卒業』(1967、マイク・ニコルズ)を彷彿とさせました。

「確かにそうですね(笑)。意識してやったわけではないですが、強いレファレンスは私も感じます。私は70年代頃のアメリカ映画が大好きなんです。マイク・ニコルズもまさかあのラストシーンを撮ったときにここまでアイコン化されるエンディングになろうとは思ってなかったでしょうね。本作ではまた異なるやり方でそういう展開を取り入れてはいるかもしれませんが、今回の場合は、赤ん坊も含めてふたりのキャラクターがどこかへ向かおうとしています。ただ、主人公は自分がここにはいたくないことはわかるのだけれど、じゃあどこに行けばよいのかはまだ見出せてはいない。その状態というのも『卒業』と一緒だと思う。でもそれって人生自体がそうじゃない?」

©Lucía Films S. de R.L de C.V. 2017

──その意味ではあまりに邪悪な計画を企てるアブリルは、まるで『卒業』のロビンソン夫人がある種勝利した姿のようでもあります。彼女は娘のボーイフレンドを誘惑し、ついには手に入れてしまいます。

「確かにそれはそうなのだけど、より興味を持っていたのは、アブリルという女のあらゆる面で充実した人生を送りたいのだというファンタジーでした。「また妊娠したいわ」と言うシーンもあるけど、彼女は人生をまた一からやり直したいと強く思っている。アブリルが元夫に会いに行くも家にも入れてもらえないシーンがありますが、あれは彼女がどんな過去を持っているのか理解する手立てとなる場面だと思っています。彼女は今まで失敗を犯してきているのかもしれない。だからこそ、彼女は新しくやり直したいというファンタジーを抱えている。しかしそのような欲望で物語は展開していきますが、失敗するわけです。彼女が望んでいるものは、すべてです。若い男と“赤ん坊たち”──彼女は自分自身も産みたいと思っている──を欲しています。『卒業』のロビンソン夫人の場合は、今の人生に何か足りないものがあるという風に感じていて、それを主人公の若い男を誘惑することで埋めようとする。もちろんエロティックなゲームとしてね。確かにこの作品でもアブリルは誘惑するので、エロティックなゲームも重要な要素にはなっているけれども、彼女の場合はさらに加えて、エイジングもまたテーマになっています。歳を取ることをどう受け止めていくのかということも描いているのです。人間誰しも歳を重ねるので、これは女性限定の問題ではありません。そういった辺りは異なる部分だと思います」

©Lucía Films S. de R.L de C.V. 2017

──その一方で奇妙なのは、バレリアのボーイフレンドのマテオは責任を引き受ける立場になると、父親のような保護者の役割を果たす身振りは示さないことです。むしろすべてが女性を中心に展開するなかで、無気力で意志の弱い彼のバレリアや赤ん坊への無頓着さは利己主義や無責任を超えた異様なもののようにすら見えます。

「マテオというキャラクターへのアプローチに関しては、いま仰っていただいた部分こそが私は気に入っています。なぜなら、人生において受け身であること、ただ傍観者で何もせずにいることの方が、能動的に何か悪事を働いている人よりも実は悪いことなのではないかと思うからです。つまり、受け身であることによって人を傷つけてしまうことも人生にはあるわけです。マテオはそういった部分が表現されているキャラクターです。彼がなぜそうなったかは、彼の家庭、父親や母親との関係に伺い知ることができるでしょう。厳しい家庭で育った彼は繊細ではありますが、自己中心的な人間だと私も思うし、ある意味アブリルより彼は最低かもしれない。彼は進んで物事を止めることもできたはずです。バレリアと再会してから途中で彼女にいつだって真実を言うことだってできたのにそれをすることもなければ、『帰って来てくれ。またふたりで暮らそう』とも言うことはない。そういった意味では興味深いキャラクターだと思っています」

──ところで、ご自身を“カオスの信者”だと仰いましたが、あなたの作品はダークでカオティックな作風にも関わらず、なぜご自身の製作会社に「ルシア・フィルムズ」という名前をつけているのですか(「ルシア(lucia)」はスペイン語で「光」の意味)。

「私はダークな人間じゃないからね(笑)。たとえ世界がカオスな場所だという風に感じていたとしても、私はすごく心の奥深いところでは楽観主義なんだろうね。そこから出てるのだと思う。だからこそ、努力を怠らないし、映画作りに情熱も注いでるのです」

母という名の女』6月16日(土)、ユーロスペースほか全国順次公開