photography Houmi Sakata

『わたしたちの家』:清原惟監督インタビュー

昨年末から大きな話題を呼んでいる映画『わたしたちの家』。東京藝大大学院の修了作品としてつくられた本作は、PFFグランプリを受賞、劇場公開もたちまちに決まり、さらにベルリン国際映画祭への正式出品も決定したばかり。この若手監督の意欲作はどのように制作されたのか。期待の新鋭、清原惟監督に話をきいた。

by RIE TSUKINAGA
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17 January 2018, 7:08am

photography Houmi Sakata

PFFアワードのグランプリを獲得し、ベルリン国際映画祭フォーラム部門への正式出品も決まった清原惟監督作品『わたしたちの家』は、間違いなく今年一番の話題作だ。監督の清原惟は、1992年生まれ、武蔵野美術大学映像学科在学中に発表した『暁の石』(2014 飛田みちるとの共同監督)、『ひとつのバガテル』(2015)が共にPFFアワードに入賞。その後東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻監督領域に進み、黒沢清監督、諏訪敦彦監督に師事。両監督も認めるその稀有な才能は、2017年にレトロスペクティブが開催されるなど、すでに大きな注目を集めてきた。

このたび劇場公開される『わたしたちの家』は、清原監督の待望の劇場長編デビュー作。映画には、二組の登場人物たちが登場する。母と二人で暮らす14歳の少女セリ。記憶をなくし、偶然出会った透子の家で暮らしはじめる女性さな。何のつながりもないかに見える二つの物語は、彼女たちが暮らすひとつの「家」によって密かに結びついている。ひとつの家を舞台に、二つの物語が同時並行的に進んでいくという、斬新な物語と構成を持つ本作。この独創的でスリリングな映画は、いったいどのように誕生したのか。その制作秘話をうかがうなかで、この映画に対する監督の確固たる理念も見えてきた。

——清原監督は武蔵野美術大学の出身とのことですが、大学のときから映画作りを始めたのでしょうか。
一番初めに映画を撮ったのは、高校2年生のとき。友達と遊びで撮ったものですが、世間から疎外感を感じている高校生くらいの女の子が自分の分身のような女の子に出会い、二人で旅に出るロードムービーでした。武蔵美では、実践的な映画制作はもちろんですが、様々な映像表現や写真など、幅広くアートについて学びました。

——大学院では黒沢清監督と諏訪敦彦監督のもとで学ばれていますね。修了作品『わたしたちの家』では、おふたりのアドバイスなどももらったのでしょうか。
藝大では監督領域というコースに所属していて、その担当教官が黒沢監督と諏訪監督でした。それぞれまったく違うスタイルで映画を撮っている監督ですが、キャリアも長い方々ですし、すごく刺激を受けました。『わたしたちの家』については、アイデアの段階で、特に諏訪さんに色々と相談にのっていただきました。でも具体的なアドバイスよりも、「私はこういう方向で進めていきたい」という相談に対して、「それだったらこういう作品があるよ」とか「自分はこうするけど」というような、考え方や世界観を提示してもらうことが多かったですね。撮影に関しても同じで、現場が始まったら、先生たちはほぼノータッチ。編集の際には、出来上がりを見てアドバイスをもらったりしましたけど。ただ、一緒に脚本を書いた加藤法子さんは同じ藝大の脚本領域に所属しているので、彼女のほうで担当教官に相談することもあったと思います。彼女とは、藝大に入ってからの作品は常に一緒につくっています。

——そもそもこの映画はどのようなアイデアから出発したのでしょうか。
複数の物語がひとつの映画のなかに同居している映画をつくりたい、というアイデアが最初にありました。それは、修了制作を始める前からずっと考えていたことです。そのアイデアをどう具体化していくかというときに思い浮かんだのが、フーガという音楽の形式でした。フーガは独立した複数の旋律が集まってひとつの曲になるという形式です。それぞれのメロディラインが重なり合っていくなかでハーモニーが生まれる。同じことを映画でもできないかと考えました。いわゆるオムニバスや群像劇のような形ではなく、それぞれの物語は完全に独立しているけれど、外から見ると何かしらの関係を持ってつながっている。そういう映画をつくりたかったのです。

©東京藝術大学大学院映像研究科
©東京藝術大学大学院映像研究科

——複数の物語を持つ映画で単純に思いつくのは、場所は別々で誰か共通の人物を介してつながっている、あるいは場所は同じだけど過去と未来というように時代が違う、というような構造です。今回の場合はそのどちらの方法とも違いますね。
映画をつくるうえで、物語的には決してつながっていない、というのがまず重要なことでした。共通の人を介して結びつく形にすると物語としてひとつにつながってしまう。過去と現在の物語にすれば、やはり一本の線につながってしまう気がしました。フーガのように同時に複数の旋律が重なり合いながら進んでいく、そして同時に始まって同時に終わるような時間軸でつくりたかった。そこから、ひとつの家を舞台にしてはどうか、という考えが浮かびました。もともと家や住居という場所に興味があり、前の作品(『ひとつのバガテル』)でも扱ったテーマでした。建築的な興味もありますが、人が住む場所として、そこに込められた記憶というものにも興味があるんです。

——舞台となった家はどうやって見つけたのでしょう?
あの家は、少し前まではたばこ屋で、その前が牛乳屋、さらにその前は炭屋といういろんなお店だった場所。私の知人が実際にそこに住んでいて、イベントスペースやギャラリーとしても使っています。実はあの後ろにも白壁のギャラリースペースがありますが、映画には写っていません。脚本を書いている途中であの家に出会ったのですが、当初脚本に書いていたのはごく一般的な家の形だったので、イメージとは全然違うなと悩みました。でもやはりここで撮影したいと思い、実際の家にあわせて脚本をかなり書き直しました。

©東京藝術大学大学院映像研究科

——ここがいわゆる普通の住居ではないことは、映画を見ていてもわかりますが、なぜ彼女たちがそういう家に住んでいるのかは言及されません。そういう様々な映画内の謎について、監督の中で答えのようなものは用意されているのでしょうか。
たしかにこの映画には謎の部分がたくさんあって、取材でも「あの箱の中身は何なんですか?」と聞かれたりもしました。それらに対して、私のなかでは「これはこういうことだ」という考えを持ってはいます。だからといって、私がすべての正解を持っているとは捉えてほしくないなと思っていて。見た人それぞれが抱く疑問や想像、そのすべてが正解であってほしいんです。ただの答え探しになるのではなく、見た人のなかでそれぞれ違う映画が出来上がっていくほうが大事だと思うので。そういう意味で、私はこの映画はミステリーではないと思っています。ではどういうジャンルの映画か、と聞かれると難しいですが。ホラー映画みたいだともよく言われますね。自分ではこれがホラー映画だとはまったく思っていなかったので、そういう感想には驚きました。

——劇中の人物たちのルックスや部屋の内装は、どこかレトロな感じがありますね。特にセリと母親を見てそう感じたのですが、もしかして彼女たちは少し昔の時間を生きているのでしょうか。
たしかに少し昔っぽい部分もありますが、時代設定は一応すべて現代として考えていました。現代にも色々な服を着ている人はいるし、ずっと住んでいる家だったら昔のものが残っていることもごく普通ですよね。時代設定が現代だからといって、いかにもリアルな、現代っぽいものばかりを選ぶ必要はないと思うんです。

——観客としては、二つの世界が絶対どこかで接触するはずだ、とドキドキしながら映画を見ていくと思うんです。そうして最後、待ち望んだ瞬間が訪れますよね。脚本を書くうえでも、その一瞬をどう描くかについては苦労されたんじゃないでしょうか。
そうですね、あの部分はやはり決めるまでに長くかかりました。これだけは絶対にやらないと決めていたのは、二つの世界の住人たちが最後にお互いの顔を見るということです。さながふっと目線を上げるシーンがありますが、あそこは絶対に切り返しではないショットにしたかった。たとえ映画内の世界では彼らが向かい合っているにせよ、映画としてそれをはっきり描きたくはなかったんです。そうでないと、完全に世界がひとつの空間としてつながってしまう。物だけがすり抜けて行き来するような小さな穴がその世界にあいている。そういうふうにしたいなと思っていました。

——先ほどから、「一本の線にならないように」「ひとつの世界にならないように」というお話がよく出てきますね。
そこが崩れてしまうと、普通の物語映画になってしまうと思うんです。結局これはひとつの世界だったんだな、ということに落ち着いてしまう。私がやりたかったのは、複数の世界というものが存在していて、どちらも同等でありどちらも真実である、ということなんです。一方が現実でもう一方が夢である、という関係ではなくて。

©東京藝術大学大学院映像研究科

——この映画は音も重要な要素ですね。劇中では、片方の音がもう一方に聞こえてくる、というシーンが何度かあります。でも決して同じ場所で同じ音が聞こえるわけではなくて、たとえばさなが一階にいるときに二階でセリたちが話す声がかすかに聞こえたりする。その微妙なずれがおもしろいと思いました。最初にセリが「今、シャッターの音が聞こえなかった?」と言う場面も、本当にその音が鳴ったのかわからない、謎の残る始まり方です。
あの家で鳴る音は、家に染み込んだ記憶のようなものも表しています。家自体にその出来事や記憶が一旦吸収されて、それが何かのはずみで出てくるというか。柱や壁に一回跳ね返ることで音が乱反射するように、家というスピーカーを介して他の世界に音が通じていく感覚ですね。だからタイムラグがあったり、ちょっと違う聞こえ方がしたりする。冒頭場面でのシャッターの音は実際には入れていません。セリにだけ聞こえたのか、あるいは聞こえた気がしただけなのか、という余地を残しています。他にも、電車の音を後からつけ足したり、前の場面で鳴っていた海の音を次の場面に被せたり、そういう工夫を色々しています。

——そういった音の入れ方は、編集の際に決めていったんですか。
音を入れる場所は脚本の段階で書いてありましたが、どういう音を入れるかの具体的な決定は、編集が終わって、音を入れる作業の段階で行いました。脚本と編集のことでいうと、実は脚本自体は、ひとつの話が終わってから次の話が始まるという形で書いていました。撮影も、ひとつの物語を撮り終わったあと、セットや美術を一旦すべて変えてから次の物語を、という方法で行いました。だからあの二組の出演者たちは現場では一切会っていないんです。撮った映像にある“間”や“リズム”をもとに、編集の際に、どこでどう切り替えるのかを考えていきました。編集によって映画の形はかなり変わったはずです。

——監督は1992年生まれでいわゆる若手監督でもありますし、さらに女性で若い女の子たちを主題に撮られていることが多いですよね。取材でもご自身の性別について指摘される機会も多いのではないでしょうか。「女性監督ならではの作品」などと言われることについてはどう思われますか。
女性であるということが自分にとって重要なのはたしかですし、自分がつくる映画にも大きく影響していると思います。特に今回の作品は女性が主人公ですから。でも一方で、私が女性であるからこういう映画を撮れる、という取り上げられ方については、もう少し違うかたちが望ましいとも思う。これまでは映画監督というと男性が断然多かったし、今は珍しいから「女性監督」と言われてしまうけど、最近は女性の監督たちもすごく増えましたよね。だから時がたてば、そういう括り方はされなくなるはず。女性だからこそできることはあるけれど、それを取り立てて言われない時代になったらいいなと思います。

——今後の予定はもう決まっていますか。
次回作の具体的な予定はまだ立っていませんが、やはり女性が主人公になりそうです。もう少し女性の世界を掘り下げていきたいなという思いがあるので。でもいつかは男性の世界もしっかり描いてみたいですね。

わたしたちの家
1月13日(土)より渋谷ユーロスペースにてレイトショー
監督:清原惟 脚本:清原惟、加藤法子 撮影:千田瞭太 美術:加藤瑶子
衣装:青木悠里 サウンドデザイン:伊藤泰信、三好悠介 編集:Kambaraliev Janybek 音楽:杉本佳一
出演:河西和香、安野由記子、大沢まりを、藤原芽生、菊沢将憲、古屋利雄、吉田明花音

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