映画の平行線 第2回:『ファントム・スレッド』『心と体と』

映画にまつわる新連載。映画ライターの月永理絵と文筆家の五所純子が、毎月公開される新作映画を交互に語り合っていきます。今回はポール・トーマス・アンダーソン監督が、天才クチュリエとミューズの危うい関係を描いた話題作『ファントム・スレッド』。

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maj 24 2018, 5:36am

女の出てこない映画はない。けれど女はまだ語り尽くしていない。 “映画の女” を見ながら感じたアレコレを、お喋りのように、戯れ言のように、手紙のように、交わしてみたい。「映画の平行線」は最新映画とともに、映画ライターと文筆家が意見交換していく往復コラムです。


エジソンが憂鬱そうだ。メンロパークで電球を頭にのせた男たちが行進するより前に、ブタペストでは双子の姉妹リリとドラがロバに運ばれて夢を見ていた。やがてリリとドラは引き離されて別々の夢を見る。同床異夢とは映画の比喩。人びとは同じスクリーンを見ながら異なる幻影を見る。映画館は人間を一処にいあわせながら別人格であることを保証する。わたしたちは目を合わせないが、影や咳払いや肘掛けに残された体温によってたがいの気配を感じとる。わたしはあなたといる、けれども、わたしはあなたではない。わたしはあなたではない、だから、わたしはあなたといる。逆説で結ぼうか、順接で結ぼうか。まるで理想の世界を語っているみたいだ。月永理絵さんと始めた当連載はそんな世界の小さな実験かもしれない。20世紀に見た夢、あるいは20世紀を見る夢。マッチは電灯へ、ロバは急行列車へ、伝書鳩は電話へ。猫が屋敷からごまんと飛び出すフィルムが上映されれば、脳波を測られる犬が雪原を駆けめぐり、ジャングルの猿が喋りながら研究員に抱きつく。そして女性を下等動物だと見なす教授の階段教室から女たちがつぎつぎと退室していった。イルディコー・エニェディが『私の20世紀』を撮ったのは1989年のことだ。

それから29年後のいま、同床異夢が異床同夢に反転された『心と体と』(2017)を見る。人間を夢に導いたロバはもういない。人間自身が鹿となって夢を生きる。いや、鹿が人間となって現実を生きるともいえるか。マーリアとエンドレは夜ごと夢のなかで雌雄一対の鹿として出会う。それに気づいたことで二人は現実でも惹かれあうが、恋愛の発展段階をうまく踏むことができない。前回に月永さんが触れているとおり、マーリアは1ミリや2ミリの差を見過ごせない。それは職務上だけでなく、生活全般におよんで不規則的な事態に対応する柔軟性がきわめて低いのだ。つまりマーリアの認識には誤差というものがなく、彼女は法則のなかに生きている。しかし現実は法則を破ってくる。まして恋愛なんて繊細な状況に足を入れたらなおさらだ。

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マーリアが法則なら、エンドレは情理である。心理士のバストを凝視したり、はずみで一夜をともにした女に邪険だったりと、性的な観点からみるとエンドレは愚かな奴だ。いっぽうで彼は、濡れ衣をかぶせてしまった部下に謝罪したり、不正を働いた友人かつ同僚と別れたりといった行動も見せている。エンドレはまさに誤差を発生させ、誤差を考慮し、誤差を解決する人物として描かれる。すべての人がそうであるようにだ。ただしマーリアが法則的にものごとに対処するのにたいして、エンドレは欲求や心情という変則的なものに影響されやすい。この対比にこそ意味がある。

マーリアはヘレン・ケラーである。エンドレの出現によって既存の法則からなるマーリアの秩序は崩壊した。変則はマーリアに五感をひらかせる。マーリアは初めての言語を身につけ世界を分節化しなおし、新たな秩序を建設していく。もともと感情表現がなく定式的な行動をむねとするマーリアであるから、神話的に語られるウォーターの叫びこそないけれど、だからこそ微細な変化がマーリアのいじましさを伝える。

食肉処理の風景についてわたしも述べたい。動物映画と呼んでもさしつかえない『私の20世紀』だが、『心と体と』で明らかにエニェディは擬人化の作法を変えた。『心と体と』にはおもに二種類の動物が出てくる。鹿と牛、人間が投影される動物と、食肉として解体される動物である。この二種をエニェディは同じ水準で撮ろうとしている。それは人間とみまごうほど微温的な中間的な感触を残すもので、屠畜をあつかったシーンでこの感触は初めての体験かもしれない。『人間はなにを食べてきたか』(ジブリ学術ライブラリー、1985)ほど写実的でなく、『万事快調』(ジャン=リュック・ゴダール、1972)ほど唯物的でなく、かといって『バルタザールどこへ行く』(ロベール・ブレッソン、1970)の荒っぽく洗練された人と獣の関係ともちがう。ともすれば被造物の崇高へと近づいてしまうのだが、食肉処理場を舞台にしたことで文明への照射度を保っている。それは雑食を必要悪とするスタイルを追認せず、菜食を知的洗練とするモードに合流せず、審美的なレベルから食肉生産への考察をうながすようだ。

さてこれも月永さんに重なるが、『RAW〜少女のめざめ〜』(ジュリア・デクルノー、2016)は露悪的だった。わたしは酸っぱい胃液がこみあげてまいった。人間と動物を同じ水準でとらえるといっても、『心と体と』が両者を上昇させるか水平的であるのにたいして、『RAW〜少女のめざめ』は人間を獣のレベルに堕とす下降の力学がある。いってしまえば共食いをおこなうアモラルな存在に少女を変身させるわけだが、なぜこのような蛮行をデクルノー監督は働いたのか。それは少女に暴力をもって性を凌駕させるためだ。寄宿学校において先輩の言うことは絶対というなか、新入生に様々なイニシエーションがあたえられる。主人公のジュスティーヌは、二足歩行なのに四つ這いで歩かされ、ヴェジタリアンなのにウサギの臓物を食わされ、ファッションに興味がないのにセクシーな格好をしろと命令される。セクシーさの要求は、集団から外れたくなければ性に目覚めよという社会的な圧力に酷似している。またあまりに成績優秀がために教官から嫌がらせされるというのも理不尽でくやしい。ジュスティーヌは慣れないハイヒールを引きずって歩くが、ますます惨たらしくなる変身は性的圧力にたいする拒絶反応にも見える。すなわち、女性をセクシャルな存在に変えようとする力にはこれほどの露悪性がなければ抗することができないと『RAW〜少女のめざめ』は示すのだ。しかしながらこの圧力によって、性とは別の目覚めが引き出されるという捻りが本作の妙ではある。ヴァンパイアの血統が目覚めるのだ。

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ポール・トーマス・アンダーソンの新作『ファントム・スレッド』(2017)を見ると、これがヴァンパイアの物語だった。ヴァンパイアに捕獲され、ヴァンプになることに活路を見いだした女の話である。男は女の最初になるのが、女は男の最後になるのが幸福だ、といわれる。結婚をきっかけに恋愛という闘技場から降りられる幸福がつぶやかれる。女たちが男に選ばれる幸福を説かれてきて久しい。さて、この手の幸福論は文化的詐欺である。ロマンチックラブ・イデオロギーなどもちださずとも、もう気づかれているだろう。ハッピーエンドの後にお姫様が末永くしあわせに暮らす確証などないこと。お姫様は王子様の胸先三寸で城を放逐されるということ。“めでたしめでたし”は不吉な展開を封じる呪文にすぎないこと。ハッピーエンドとはしあわせの絶頂で姫の息の根を止めるデッドエンドのことだ。そのデッドエンドの後を『ファントム・スレッド』は描く。

1950年代のロンドン、高級婦人服の仕立て屋であるレイノルズは、田舎のレストランでウエイトレスのアルマを見そめる。レイノルズは新たなミューズとしてアルマを工房兼自宅であるハウス・オブ・ウッドコックに招き入れる。しかしそこは先代のミューズが高級ドレスとひきかえに追い出されたばかりだし、経営面で実権を握っているレイノルズの姉シリルが待ち構えているし、姉弟の強い結びつきに付け入る隙はないし、アルマにとって苦境の場である。

ミューズに選ばれた女は不安に襲われる。私も過去の女のようにいずれ放り出されるのではないか。選ばれた女は打ち消そうとする。私だけは過去の女たちと違うはずだ。女は自分を騙す。私は特別だから心配ない。女は女を軽蔑する。過去の女たちは魅力に欠けていたにちがいない、あるいはヘマをやらかしたのか。女は決する。私は本物のミューズになってやる。

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ついわたしは中川信夫の『女吸血鬼』(1959)を見かえした。過去の女の死屍累々が陳列されたシーンを思い出したからだ。あのシュミーズ姿で蝋人形化された女たちに自分も連なりたいとは願う人はいないだろう。『女吸血鬼』は時の政権によって虐殺された天草四郎の末裔の女がヴァンパイアに狙われる話で、しまいには天草・島原一揆の復讐劇にたどりつく。池内淳子が演じる伊都子は、ヴァンパイアに裸婦像まで描かれた母と同じ轍を踏まず、ヴァンパイア一族との対決路線を歩んだ。

アルマもまたヴァンパイア姉弟に捕獲された生き餌のようなものだが、どうするか。戦って一族を根絶やしにするか、逃げ出して元の居場所に戻るか、噛まれて一族の流儀に感染するか、そういった選択が考えられる。ただしアルマは伊都子と異なり、ミューズの座を手放したくない。なぜならミューズであることは既にしてアルマの自己実現であり生存戦略であるからだ。そう思い込んでいる。そう思い込まされている。そこでアルマは、ただ血液を吸わせるでなく、いっそ血統を滅ぼすでなく、ヴァンパイア一族との共存共栄路線をさがす。それもレイノルズの食の嗜みを利用するかたちで。アルマはヴァンパイアを捕食するヴァンプになる。

レイノルズとアルマの食卓場面は、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007)の山師と予言者の対決、『インヒアレント・ヴァイス』(2014)の探偵と刑事の喧嘩など、ポール・トーマス・アンダーソンが好んで描いてきた、男どうしの睦み合いでしかない決闘をはじめて男と女で変奏したものだ。ねえ見て、僕はきみの要求にこんなに応えてるよ! ええ、わたしの要求を飲みこむあなたは素晴らしいわ! そんなふうに高まり合うカップルの姿は深刻でも滑稽でもある。『ファントム・スレッド』ではミューズの悲劇がOの字のように循環することなく、Qのように思わぬところに喜劇として転がり出た。

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実のところ、傲岸なアーティストとして君臨するレイノルズは、経営者の姉、お針子衆、顧客たちなど、女ばかりに囲まれている。レイノルズを演じたダニエル・デイ=ルイスは本作出演を機に引退を決めたというのだから、撮影現場で一体なにが起きていたのかと想像を膨らませてしまう。これではまさに『女吸血鬼』ではないか。

ところで、かつてのミューズたちが息を吹きかえしたのか、『女吸血鬼』作中では判然としない。『ファントム・スレッド』でも行方は追えない。そのためにも、ジャック・リヴェットの『美しき諍い女』(1991)を見ながら眠ります。おやすみなさい。よい夢を。

ファントム・スレッド
5/26(土)より、シネスイッチ銀座、YEBISU GARDEN CINEMA、新宿武蔵野館 ほか全国ロードショー!

Credit


Text Junko Gosho