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スポーツは芸術を評価できるのか? 映画『氷上の王、ジョン・カリー』から考えるスポーツと男らしさ

アイススケートをスポーツから芸術へと昇華させた伝説のスケーター、ジョン・カリーのドキュメンタリー『氷上の王、ジョン・カリー』。その公開を記念し、コミック作家・カナイフユキとライター・鈴木みのりによる対談が実現。オリンピックの功罪や、カリーとアレキサンダー・マックイーンとの共通点について二人が語った。

by Sogo Hiraiwa
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21 June 2019, 4:40am

セックス・ピストルズがマンチェスターのライブハウスで、わずか40人の観客を前にライブを行なった1976年6月。その観客のなかには、のちにバズコックスやジョイ・ディヴィジョン、ザ・スミスを結成することになる若者たちがいたことは有名な語り草になっている。しかし、パンクが産声をあげたその年に、もうひとつの文化的な革命が、同じイギリス出身のアーティストによって達成されていたのをご存知だろうか。

1976年インスブルック冬季五輪の、フィギュアスケート男子シングルで金メダルを獲得したジョン・カリー。そこへ至る過程のなかで彼は、アイススケートをスポーツから芸術へと昇華させたとされている。アイススケートをメジャースポーツに押し上げ、私たちが現在テレビで目にする華やかなスケーティング・スタイルの礎を築いたその功績は計りしれない。

しかし、その栄光の影でカリーは生涯を通じて、常に偏見や苦しみと闘っていた。「男らしくない」という理由でバレエを習うことを許してくれなかった父親、冷戦構造によって演技評価が左右されてしまう採点システム、メディアによるセクシュアリティの暴露……。

今回i-Dでは、6月3日に〈アップリンク渋谷〉で開催された、カリーのドキュメンタリー映画『氷上の王、ジョン・カリー』をめぐる、コミック作家・カナイフユキとライター・鈴木みのりによる対談を再録。

スポーツにおける「男らしさ」とは? ロールモデルの必要性とオリンピックの功罪、アレキサンダー・マックイーンとカリーの共通点について、二人が徒然に語る。

氷上の王、ジョン・カリー, ジョニー・ウィアー,
©New Black Films Skating Limited 2018 ©Dogwoof 2018

——まず二人がこのドキュメンタリーをどう見たのかお聞かせください。

鈴木みのり:動的な美しさのある映画だなと思いました。当時の記録映像だけでなく、現代のスケーターたちに当時の演目を、オーケストラに曲を、それぞれ再現させていたり、ドキュメンタリーの作りとして面白いなと。

カナイフユキ:僕は、ジョン・カリーはすごく孤独だったんだろうなと思いました。ジョニー・ウィアーが出てきて、「カリーが僕を作った」と語るシーンが印象的だったんですけど、そういうお手本にできる存在がカリーにはいたのかなって。あと、父親からの抑圧も描かれていましたよね。カリーはもともとバレエをやりたかったけど、女らしいからダメだと言われて……。

鈴木:「(競争の側面から男性的とされる文脈で)スポーツだからいい」という理由でスケートは許される。

カナイ:カリーの父親もそうでしたけど、「男ならスポーツをやりなさい」っていうのは、すごく身に覚えがある。子どもの頃に、お父さんから「キャッチボールできるような子どもがほしかったな」って言われたこともあるし。

——キャッチボールも嫌だったんですか?

カナイ:やりたくなかったですね。家族で楽しい遊びをしているという意識でいられなくて、やらされてるっていう感じだったんだと思います。とにかく抵抗してました。スポーツって男らしさと結びつけられていて、それに当てはまらない人にとっては自分を否定する感情を植え付けてくるものだなと常々感じています。得意な人はいいんですよ。でも苦手な人にとって、学校での体育がトラウマになっていると思うんです。僕は球技が苦手だったからすごく嫌でした。

鈴木:わたしはカナイさんのようにジェンダー規範は感じていませんでしたね。体育もやりたくないときは参加しなかったけど、長距離は好きでした。個人競技だと楽だったりしませんか?

カナイ:球技よりはマシですけど、体育は運動できないのを見られるのが嫌でしたね。

鈴木:点数がつけにくいからか、学校の授業ではスポーツの芸術性を評価することはほとんどないですよね。競争の方がわかりやすい。この映画では、日本公演のときに、お客さんの満足度を数値でみせるシステムが会場に導入されて、カリーはすごく嫌がったというエピソードがありました。それを見たとき、日本っぽいなって思ったんです。オリコンランキングを紹介する音楽番組みたいだなって。数値化されて、序列をつくるというか。

カナイ:そうですね。常にジャッジされる感じ。スポーツがそういう順位をつけるものではなくて、楽しんでストレスを解消するもの、身体を動かして健康になりましょうっていうものになればいいのに。

氷上の王、ジョン・カリー, ジョニー・ウィアー
©New Black Films Skating Limited 2018 ©Dogwoof 2018

——カリーはスケートリンクに広告を貼られるのも嫌がっていました。

鈴木:たぶんスケートを芸術として評価されたいという意識が強かったんだろうなと思います。スポーツの側面じゃなくて。だけど、芸術もお金がないと続けていけない。カリーにもスポンサーやパトロンがいて、映画のなかでもそれは重要なものとして語られていました。

カナイ:ジレンマがありますね。評価しやすいスポーツと評価しにくい芸術の難しさもあると思いました。

鈴木:そうですね。ノルウェイの公演でカリーがやった「ムーンスケート」っていう演目について、友人や団員が、カリーがあの演目に辿り着いた個人史的な背景を踏まえて「すばらしかった」とコメントをしています。だけど、それを知らない人が見たら、単に「動きが少ない」って思われるんじゃないかなって。

カナイ:あー。「全然大した技やってないじゃん」みたいな。

鈴木:もともと強固な評価軸がある業界のなかで、新しい見方を提示するのはすごく難しい。人はどうしても自分の知っている範囲のものに手が伸びやすいから。で、表現するほうは理解者を求めたくなるじゃないですか。そういうときに、会場が満席とか、本だったら何万部売れたっていう数字で安心する、嬉しいっていうこともあるだろうなって思う。カナイさんは、自分の作品の売れ行きは気になりますか?

カナイ:正直そこまで評価は気にしないですね。ZINEも自分の手の届く範囲でお金を回せるように、お小遣いが貯ったら作るというような形でやっているので。トントンでOK、プラスが出ればラッキーくらいの感じでいます。

鈴木:より多くの人に見てもらいたいっていう欲望はないですか? 例えば、本当に理解してくれる人が100人に1人いるとしたら、1万人が見れば理解者は100人になる、みたいなことをわたしは考えちゃうんです。

カナイ:表現が難しいんですけど、あまり沢山の人に見せてもしょうがないかなって思っているところがあるというか、すごい人・偉い人だと思われたくないっていう欲望がある。大勢の人に見られるようになるとどうしても、もっと注目されなきゃ、と目的がすり替わってしまうような気がして怖いんです。だから正直、あんまり知られたくない。

鈴木:あー。わたしはそれが両立できないのかなって考えちゃうんですよね。この映画では、カリーが自分のカンパニーについて、「スターがギャラを独占すると続けられないからお金は平等に分配している」と言っていて驚きました。ちょうど日本の舞台芸術の世界で、俳優がそれ一本で生活を安定させる難しさについて考えていたので。それでもカリーは後年になると、スターである自分が出演しないとカンパニーの公演に集客できないという話もしていて、難しいなとは思ったんだけど。

カナイ:カンパニーを維持するのが大変で、カリーもその状況にストレスを感じていたように見えましたね。

鈴木:前に『マックイーン:モードの反逆児』を観たんですけど、アレキサンダー・マックイーンは「メゾンをやめられない」と言っていました。従業員のなかにはローンを組んでいる人もいるから、頑張らないとって。でもコレクションを芸術として位置付けて妥協しないから、ショーのために毎回すごいお金をつぎ込んでいたそうで。カリーも生オケを入れたり、(アイススケートのためだけではない)劇場の舞台に氷を敷いたり、お金がかかることをしていて、こだわりがあったんだろうなと思いました。

氷上の王、ジョン・カリー, ジョニー・ウィアー, ムーンスケート
©New Black Films Skating Limited 2018 ©Dogwoof 2018

——カリーはオリンピックで金メダルをとって、人生の転換期を迎えます。だけど、その際のメディア報道によって、ゲイであることをアウティングされてしまう。本人の望まない暴露だったわけですが、結果的にジョニー・ウィアーなど後進のスケーターたちのロールモデルになったというのはちょっと救いかもしれないと思いました。カリー本人は「誰一人として自分がなりたいような男性はいなかった」と手紙に書いていました。

カナイ:でも、セクシュアリティを明らかにする必要はないですよね。わかる人にはわかりますから。スケーティングを見ていれば、これは!って。

鈴木:どういうこと? 振る舞いだけを見てセクシュアリティがわかるということでしょうか? ジェンダーとセクシュアリティは基本的に異なるものの、その絡み方は複雑で、同性愛者で身体においてジェンダーに揺らぎはなくても、服装、振る舞い、言葉づかいなど性別表現で(例えばオネエ言葉、ドラァグクイーン、レズビアンブッチのように)、クィア的にジェンダー規範を撹乱するような在り方はあると思うんだけど。

カナイ:同じセクシュアリティの人だとわかるということではなくて、自分はこういう振る舞いをすればいいんだっていうロールモデルを見つける、というようなことです。

鈴木:なるほど。ロールモデルは必ずしも同じセクシュアリティでなくてもいいっていうことですね。

氷上の王、ジョン・カリー, ジョニー・ウィアー,
©New Black Films Skating Limited 2018 ©Dogwoof 2018

カナイ:さっきの話は、怪我の功名みたいなことですよね。ただ一般的に、有名人やスポーツ選手がセクシュアリティを明かす必要はないと思います。

鈴木:うーん、悩ましいところですね。例えば、自分が語らなくても顕在化するマイノリティ性っていうのはあって。黒人とかね。セクシュアリティは言わずに隠し通せるかもしれないけど、トランスジェンダーの場合、身体のジェンダーによって特徴が出たりするし、そもそも「明かさない」というのがすごく難しい。

カナイ:あーー、そうですね。

鈴木:わたし、ナタリー・ポートマンが大好きなんですよ。彼女はシスジェンダーのヘテロセクシュアルだと思うんだけど、声も低いし、エミネムのものまねをしたりして、『レオン』のマチルダみたいな、彼女が求められてきた典型的な少女性を覆すような表現をしてもいる。そういう部分からポートマンはわたしにとってある種のロールモデルになりうると考えています。少数派のジェンダーやセクシュアリティだと必ずしも明らかにせず表に立つのもありだ、っていうのもわかるんですけど。うーん、どうやって言えばいいのかな……。

カナイ:それだけでは言い尽くせない部分もある。

鈴木:カナイさんには、誰かロールモデルになった人はいましたか?

カナイ:いろんな人のいいところを良いとこどりをしている感じですね。この人っていう人はいないかもしれない。いまパッと思いつくのは戸川純さん。上京したての頃にここ、アップリンク渋谷で見ました。出演作の上映のアフタートークで。持病もありながら、いろんな曲を残していて尊敬します。

——スポーツと男らしさの関係でいうと、近代オリンピックの父と言われるクーベルタン男爵はけっこうな差別主義者で、初回のオリンピック大会から女性を排除して、その後も女性選手の参加に反対し続けたみたいですね。

カナイ:そもそもスポーツが男女別でやることになっているところから、ちょっとなって思います。オリンピックだとトランス女性が出れないようになっていますし。

鈴木:陸上選手のセメンヤのこと? だとしたら、彼女はトランス女性ではないです。ただ、男女をどこで規定するのか? 「規定から外れる」とホルモン値などの調査対象になる人はどこで線びくか? などの諸課題は、セメンヤを非典型とするまなざしをめぐる議論として重要ですよね。

カナイ:そう。皆さんあとで、セメンヤ選手のことを調べてください。そういう問題が沢山あるし、今では金と権力の祭典でしかないので、オリンピックとかもうやめちまえって思いますね。

鈴木:一方で、カリーは当時、オリンピックなど競技大会で名前を売ってプロ転向して芸術としてスケートの道を切り開いて、その後にジョニー・ウィアーらが続いてるわけですよね。「スター」の功罪も浮き彫りにした映画としても、本作は興味深いと思います。

『氷上の王、ジョン・カリー』は、新宿ピカデリー、東劇、アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国の劇場にて公開中