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「俳句はカウンターカルチャーだった」佐藤文香×福田若之 interview

BySogo Hiraiwaphotos bynao kitamura

「猫ですしじゃあなんでちまき食ってんのって話だわな」は俳句です。

今年二冊の俳句集が発売され話題をさらった。佐藤文香が編集したアンソロジー『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』がひとつ。もうひとつが福田若之の第一句集『自生地』。二人とも俳人としては驚異的に若い。そして、それよりなにより才能が充ち満ちている。ってなわけで、i-Dですしじゃあなんでインタビューしないのって話だわな。

俳句は読むのではなく「見る」という佐藤と、「俳句の忘れやすさ」を肯定する福田に話をきいた。

——いきなりですけど、ふたりにとって俳句の魅力ってなんですか?
佐藤:言葉は基本的に何かを伝えるための手段としてあるわけだけど、そうではなくて目的として実現してるところかな。文法をわざと脱臼させることによって成り立たせる作品もあって、例えば「野兎のとても煮られて血のソース(上田信治)」とか。思いを伝えるためじゃない日本語のあり方に一番興味がありますね。

——風景がきれいだからそれを俳句にするっていうような回路では作っていないんですね。
佐藤:難しいのは俳句って短いし日本語だから普通に読み取れると思ってしまう。絵でもピカソとシャガールとモネの作品は全然違って、すぐに意味がわかる絵とわからない絵があるじゃないですか。俳句もそういうものだから、一目で意味がわかると思うなよと(笑)。

——日本語だから読めると思うけど……。
佐藤:思うけど、その俳句がいいかどうかっていうのはまたちょっと違うところにあるから。いろんな人がダンスや絵画や写真で表現しようとしていることを私たちは言葉でしている。やれているんだっていうところを見てほしいですね。日本語に興味のある人は、俳句は必見なんじゃないかなと思います。

——福田さんはどうですか?
福田:俳句は短くて覚えやすい、それが良さだとよく言われるけど、僕は逆に忘れやすいというところに肯定的なものを見出しています。書いていても読んでいてもたくさんの句を忘れていくんですよね。書かれた句の消えやすさというか掠れやすさを繰り返し感じながら俳句と向き合っていけたらいいなって思ってます。

——消えやすさ?
福田:うん。物質的にもそうだし、比喩的な意味合いでも頭の中から抜けていくような軽さというか消えやすさを持っている形式だと思うので。これが長編小説だったら、内容を忘れることはあっても、どの小説を読んだかはなかなか忘れない。だけど、俳句は読んでもそのほとんどは一句丸々忘れていく。でもだからこそ、また新しいものと向き合っていける。そういう動きというか移ろいを僕は俳句の魅力だなって思います。

——ああ、なるほど。それでも俳句は暗記しやすいですよね。17音程度だから。だけど暗記したからといって、その俳句をわかっているかというとそれはまた別の話ですよね。ひとつの句を何回そらんじてもそれを読めた気がしないというか。
福田:言葉って掴み損ねるものなんですよね。だから自分の句だってちゃんと掴めるかどうか怪しくて。時間が経って読み返したりすると、そのとき自分が何を書こうとしてたのかうまく掴めなくなってたりするし。

——佐藤さんはどうですか?
佐藤:すごく忘れます。何万句も暗唱できるデータバンクみたいな人もいますけどね(笑)。でも私は、俳句を読むというより見ていますね。見たらそれが好きな句かとか、いい句かってわかるんだよ。

——えっ、字面だけじゃなくて内容までわかるんですか?
佐藤:わかる。だから写真と似てると思う。写真は一目見て、「あ、これいい」とか思うでしょ。それって別に読み解こうとしなくてもできることじゃない? 私は俳句もそういうふうに見てる。だからすぐ忘れるし、全く覚えられない。だけど俳句にはそういう読書体験が可能だと思う。
福田:漫画を速く読める人ってそういう読み方してますよね。
佐藤:そうそう。俳句はそれくらいで過ぎていくことができる詩型だと思う。それはさっきの掠れやすさと共通するところかも。

——そもそも俳句ってどういう経緯で生まれたものなんですか、ジャンルとして?
佐藤:もともと、長歌とか仏足石歌とか、いろんな長さの和歌があったんですよ。万葉集は奈良時代だから古いよね。そのなかでも短歌(五七五七七)が主流になって、和歌といえば短歌のことを言うようになった。で、その短歌をさらに上の句(五七五)と下の句(七七)に分けて、みんなでつけていく遊び「連歌」が、鎌倉時代くらいから流行り出した、と。でもそこまではどちらかというと「雅」なかんじで、それに対して「俗」な言葉もオールオッケーなものとして「俳諧の連歌(=連句)」が提唱されて、庶民もやるようになって。江戸時代、芭蕉がやってたのも連句です。ただ、連句のなかではじめの一句「発句」は超大事だから、それだけを作品として鑑賞したりもするようになったんです。それを、明治時代に正岡子規とかが「俳句」って呼び始めて、みんなひとりずつ一句だけをつくるようになった。

——伝統的に見られがちだけど……。
佐藤:そう、けっこう「俳句は日本の伝統的な言葉の文化」みたいに言われることがあるけど、それは和歌の話なの。俳句は和歌に対するカウンターカルチャーなわけです。だから、面白いのは俗語や外来語なんかをなんでも取り入れようっていうところ。

——新しい言葉が俳句には集まってくるってことですね。
佐藤:一番新しいところをキャッチする言葉のジャンルとして発達したっていうのは、大事にしたいです。芸術のなかで言葉を一つジャンル立てするのであれば、俳句は一番最先端を行くと言いたいですね。

——『天の川銀河発電所』に収録されているもので僕が特に好きな俳句をいくつか選んだのでそれについて聞きたいです。まず福田さんの「猫ですしじゃあなんでちまき食ってんのって話だわな」。これ最高ですよね、わけの分からなさも込みで。
佐藤:まず、「猫ですし」っていう言い方が面白いよね。丁寧語で、しかもちょうど五音に収まっているから俳句のリズムで読むんだけど、「じゃあなんでちまき食ってんのって話だわな」の部分が(長いけど)、だいたい七五くらいの長さで収まるようにスピードが早くなってる。それがこの句の面白いところだと私は思う。だけど読みようによってこの句はいくらでも物語は作れて、物語読みする人にとっても面白いと思うな。作者的にはどうですか?
福田:夕暮れ時に近所を自転車こいでたらアスファルトの上にそろばん教室の立て看板が出てたんですね。「小学生向け・そろばん教室」みたいなことが書いてある。その看板のちょっと錆びてる感じがいいなと思って、最初はそれを書こうと思った。それで気づいたらこうなってた。
佐藤:なんでそろばん教室がそうなったんだよ(笑)。
福田:なんでだか自分でもわかんないです(笑)。でもそろばん教室の看板見たのがきっかけになったのは覚えてる。

——次は佐藤さんの句で大好きなのが「手紙即愛の時代の燕かな」。「手紙即愛の時代」でやられました。
福田:僕もこの句を見たときにズキューンって感じがありました。燕しかいないんですよね。その燕がどうしてるのかは書かれてないんだけれど、この燕は絶対飛んでいると思う。っていうのは「手紙即愛の時代の」という時間の幅の中で手紙とか愛が人から人へ渡っていくイメージがあって。読み手の勝手な読みなんだけどそう思える。確信を持ってしまう。その感じは言葉の力だよなあって。言葉の力ってなんか下手な言い方なんだけれども。
佐藤:でもこれ「手紙即愛の時代」っていうのがいつかは結構読み手によってぶれるって言われたことがあって。

——あ、そっか。僕はSNS時代のことだと思っていたけど、昔のこととしてもとれると。
佐藤:でも結局、手紙がいつの時代も愛じゃない? だから今が「手紙即愛の時代」だっていう解釈がいいかなって、あとから思いましたね。
福田:燕は渡って帰ってくるからいいですよね。伝書燕じゃないけど。

——一方的じゃないやりとりって感じがしますね。次は、福田さんの「てざわりがあじさいをばらばらに知る」。手でモノを認知していく過程がこんなにも詩的に表現できるのかと興奮しました。
佐藤:これは語順を変えて、「てざわりがばらばらにあじさいと知る」にしたらどうかって言う人もいたんだけど、私はこの語順じゃないとダメだと思ってる。まず「てざわり」っていう触った感覚の言葉がきて、次に「あじさいを」がくる。そこまで読んでもわかんないと思うんですよ。で「ばらばらに知る」まで読んでようやくその句が見えてくる。あじさいは小さい花が集まっているもので、そのバラバラを指が一つずつ知っていって、ようやくあじさいだとわかる。その感じ方が、最後まで読まないとわからないこの句の構造と合致していると思う。これが「てざわりがばらばらに」っていう順番だと、もう「ばらばらにわかるんだな」というのがすぐに入ってきてしまう。

——作者的にはどうですか?
福田:これは書いている通りに、この言葉から読めるように読んでもらえたらいいかなと思います。

——では最後は、福田さんの好きな佐藤さんの句で。
福田:うーん、一句に絞るのむずかしいな……(悩んだ後に)やっぱこの句かな、「肩こりや鴨が歩いて水を出る」。この、そこら辺な感じ(笑)。「近所み」と言ったらいいのかな。

——世界中で毎日起きてるような光景ですよね。
福田:「肩こりや」の「や」で、本当に肩こってるというのがしみじみ伝わってきますよね。あと、「鴨が歩いて水を出る」の飾らない感じがいい。文香さんの歩く鳥の句は他に「歩く鳥世界にはよろこびがある」っていうのがあるんですけど、それにも通じるところがあると思います。
佐藤:飛べない鳥が好きなんだよね。だから歩いてる鳥の句を書きたくなる。

——「世界にはよろこびがある」って「俳句」っぽくないですよね。そんなことないですかね?
福田:確かに、そこだけ取り出すと、俳句と言って普通イメージするものよりは標語っぽく見えるかもしれないですね。
佐藤:「世界にはよろこびがある」っていうと、歌い上げすぎている感じがするかな? 「歩く鳥」でギリギリ作品であることを保っているところもあると思う。

——「歩く鳥」がなかったら、この人何言ってんだということになっちゃう。
佐藤:かっこいい鳥が飛んでいるんだったら、句としての出来は良くないと思う。

——あ〜、飛んでいてもダメだと。
福田:「歩く鳥」はそこら辺にいるんだけど、言葉で言われるとすごく不意を突かれるんですよね。で、それが下のフレーズにも関わっていて、「世界にはよろこびがある」っていうときのよろこびも、不意を突いて来るもののような感じがする。だから、単に「世界にはよろこびがある」とだけ言ったのとは違う「世界にはよろこびがある」なんだろうなと思いますね。