MOMENT JOON 自伝的小説「三代 兵役、逃亡、夢」完全版 5/6

MOMENT JOON(モーメント・ジューン)が「文藝」2019年秋季号の特集「韓国・フェミニズム・日本」に書き下ろした自伝的小説「三代 兵役、逃亡、夢」完全版を一挙掲載。その5。

by Moment Joon; photos by Syuya Aoki
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18 September 2019, 11:00am

《MOMENT JOON「三代 兵役、逃亡、夢」完全版 4/6》

記録によると、Aは母子家庭で、実質的に彼が母親を扶養してたらしいけど、母にも少ない金額であれ収入があったため、免除申請が却下されて入隊対象になった。最初に勤務を始めたのはこの部隊ではなく、ここから結構離れた所の違う連隊でだった。何か見覚えがある部隊名だと思ったら、部下にゴミを食べさせた将校がいるといったような噂がある部隊だった。Aは基本訓練を終えて、訓練所からの同期と一緒に部隊に配属された。しかし、Aの同期は先輩たちからのイジメが耐えられずに、ボイラー室で首を吊って自殺した。この事件で部隊は実質解体され、処罰を受けた兵士も受けてない兵士も、ほぼ全員が所属変更処分になった。
それから、Aはこの大隊で生活を始めた。同期の死体を最初に見つけたのがAで、システムにはAが陸軍病院の精神科で二十回以上治療を受けた記録と処方箋のファイルが残っていた。注意事項として下段に、「兵士本人の要請によって通院治療の事実は部隊員には秘密にする」と記録者の下士官の筆で書いてあった。
それからの半年は通院治療以外に何の記録もないけど、Aが一等兵だった時期に、ひとつだけ変わった記録が残っている。Aが治療を受けていた陸軍病院の軍医からの相談メールのコピーだ。軍医によると、Aのトラウマは深刻な状況で、処方する薬の量を増やしてほしいとAから頼まれたと書いてあった。そして、はっきりとした判断は出来ないが、Aの話を聞いていると、彼が部隊内でイジメの対象になっているのではないかと強く疑う要素があると言及している。
その後は、記録者がAと直接面談を行った記録が残っている。内務班内にイジメはないかという記録者の質問に、Aは強く否定。通院治療の進み具合を聞くと、もう大丈夫になったのでこれ以上行かなくても良いと思いますと答えたという。記録者は、この前に治療に行ったあとに何かなかったかと聞いて、Aは「処方された薬を先輩の誰かが見つけてしまったが、もうちょうど治療は必要じゃなくなっていたので大丈夫でした」と答えた、と。二〇一二年一月。僕がAに会う五ヶ月前の記録だ。

詳しく書いてなくても、そのドライな記録だけで大体の想像はつく。薬を服用してることがバレて、Aは先輩たちからきっと「キチガイ」とでも呼ばれたのだろう。もう既にイジメられてたのに、「キチガイ」のレッテルが貼られて、更に辛くなったのだろう。イジメられる側からイジメる側に、Aは、僕が来る前の五ヶ月間でそこまで変わったのか。疑問を解決するためにファイルを開いたのに、むしろ新しい疑問が生まれてしまっただけだった。僕が知ってるAになるまで、彼には一体何があったのか。そう言えば、Aは何故あんなにサッカーが好きだったんだろう。彼のファイルにも趣味は読書と書いてあるし、記録者はAのことを「内向的」と描写していた。内向的? Aが?

除隊する朝。一緒に家に帰る何人かの同期は嬉しいと同時に悲しくて、後輩たちにずっと「連絡しあおうぜ、外でも会おうよ」と言い続けていた。僕は、昨夜に読んだAのファイルが頭から消えなくて、なんとも言えない気持ちで駅へ向かうバスに乗った。手を振ってくれる後輩たちを後ろにしてバスが前に進むと、僕は知りたくなった。もし、所属変更せずにずっと前の中隊に残ってたら、どうなってたんだろう。僕はどんな人になったんだろう。Aとは、どんな関係になったんだろう。いつかは彼とも親しくなって、何があったのか聞かせてもらえただろうか。Aは、今はどこで何をしてるんだろう。今も冷たい無表情で、僕のことを軽蔑しているのだろうか。それとも入隊する前の、内向的だった自分に戻れただろうか。

「生き残ったやつらは皆そうだし、皆そうなっていく」

父の話を聞いて、二十年以上見てきた父というパズルの最後のピースを見つけた気分だった。これが、父の真実。
「そっか。そうだったんだね」
真実は、心配していたほど酷くはなかったけど、同時に違う意味で想像以上に恐ろしいものだった。時代を超えて、もし父と僕が同じ空間にいたとしたら、父は僕を死なせたはずだ。
「お前が聞いた話は、叔父のことだったんだよ。俺も無関係ではないけど、誰の責任なのかはっきりしたいなら、俺ではない」
実は、そこがどうしてもずっと気になっていた。叔父と一緒に勤務したという話は今まで聞いたこともなかったし、さっき話していた時もなぜか話の主語はずっと曖昧に聞こえてたからだ。父は、本当のことを言っているのだろうか。
「⋯⋯ありがとう、お父さん。言いづらかったはずなのに、言ってくれて、ありがとう」
死者には申し訳ないが、父にとっては後輩の死の本当の責任者が誰なのかは、そこまで重要じゃないのだろう。父に重要なのは、そこで彼が見て学んだことだ。弱いものは死ぬ。必死で組織の一部になれ。逃げてはダメだ。

「⋯⋯さっきは、俺が言いすぎた。声を荒らげてすまない」
「珍しい。父さんが先に謝るなんて」
謝るのは、きっとこの後のもう一発を言うためだろう。

「俺みたいに生きろ、とか、そんな古臭いことを言いたいわけじゃない。お前に、いや、韓国にお前が合わないのは、充分分かってる。それはずっと前から思っていた。お前の身長が百六十で止まった時から思ってたもんさ。それは悪くない、いや、どうしようもないことだ。だから、お前が日本に逃げた理由も分かる。お前は俺がいつもお前のことを批判ばかりすると思っているかも知れないけど、それは違う。お前は俺の息子だ。可哀相に思わない訳がないだろう」
でも。
「でも、これからはどこに逃げるつもりだ? お前に仕事ばっかりする機械になれと言っている訳じゃない。彼女と旅行にも行ってほしいし、何か良い趣味を持って、楽しく幸せに生きてほしい。そしていつかは結婚もして、子供もつくって⋯⋯でも、俺もお前も、知ってるだろう? お前のその夢は、趣味では終わらない。しかし、その夢で何かが出来る訳でもないこと、俺ら二人とも知ってるんじゃないか?」
「⋯⋯⋯⋯」
「お前の夢で、ビザが取れるか? お金の話は後にするとしても、そもそも日本に残ることすら出来ないのに、その夢の何を見て、自分の未来を賭けようとしてるんだ?」
「だから、俺は自分の未来なんか賭けてないと⋯⋯」
いや、止めよう。もう嘘をつく気力すら残っていない。
「お前も韓国の歳で二十九歳だ。日本では二十八だろう。若くない。お前が忘れていても、必ず社会や世界が思い出させてくるのさ。大して難しいことを話してる訳じゃない。ただ自分の歳に、自分の居場所に合わせて果たすべき役割を果たして生きろと言ってるんだ。それが大人だ。現実を認めて、逃げないのが大人だ」
何だろう。原稿に必要なネタは、全部聞けたのに。いつもみたいに、また嘘をついて父が望む方向で話を終わらせればいいだけなのに、何だ、この気持ちは。負けたくないからだろうか、今まで一度も父に聞かなかったことが聞きたくなってしまった。
「⋯⋯父さん、今日の話で俺が逃げてるとか、もう百回ぐらいは言ってるけど、じゃ、お祖父さんは?」
「⋯⋯お祖父さんが何?」
「父さんから見て、お祖父さんは逃げてないの? だって『歳』とか『やるべきこと』とか抽象的なものからじゃなくて、お祖父さんは本当に逃げたでしょ? 両足で文字通りに『逃げた』んじゃないの?」

後ろにいるやつが逃げたらお前を殺すというコミサールの命令は、ある程度効果があった。平壌への強行軍が続いたが、脱走者はいなかった。その代わりに、兵士たちの頭には違うことが思い浮かんでいた。コミサールを殺すべきだ。どうしても平壌以外の選択肢は考えないコミサールに対して、ベテラン下士官たちの反発が激しくなればなるほど、部隊員全員に危機感が募ってきた。このままじゃ皆死ぬ。

事件は、行軍に疲れた部隊員全員が野原に倒れ、休んでるうちに起きた。日中戦争から中国紅軍で戦っていた中年のベテラン下士官がコミサールに言った。
「コミサール、まだ遅くないです。今のまま平壌への道を進んでも後ろからやってくる敵にやられるだけです。今からでもここから離れて違うルートで北に向かえば、きっと満州まで⋯⋯」
バン! 下士官の話は最後まで続かず、彼はそのまま地面に倒れた。
「もう、うるさいと言っただろう! 平壌が敵に堕ちたら共和国に未来なんかあると思うか! 戦う前にもう逃げることばっかり考えるのか! 卑怯なやつ! 死んで当たり前だ!」
至近距離で胸に銃を撃たれた下士官は、痙攣で指が軽く動いていたがすぐに動きは止まってそのまま死んた。座っていた兵士たちはいきなりの銃声で驚いて全員立ち上がった。まだ武器を持っていた兵士は武器を強く握り、祖父みたいに武器を失った兵士は拳を強く握ってコミサールをにらみつけた。コミサールを殺すべきだと。でも誰にも出来なかった。もし一人でもそう思っていなかったら、もし一人でも後で本当のことを上層部に言ってしまったら、コミサールを殺した人間はただの殺人者になってしまう。そういう意味で、お互いを監視させたコミサールの考えは正しかった。行軍中にずっとお互いを警戒していた兵士たちは、もはやコミサールだけではなくお互いのことも信用できなくなっていたのだ。

祖父は、後ろからやってくる敵、あるいは自分たちを導いてる指揮官、どちらかによって殺されると思っていたそうだ。疲れすぎた兵士たちは、殺された下士官の死体をちゃんと埋めることもできずにまた行軍を始めた。夜、やっと行軍が止まった時には部隊員全員がもう限界だった。緊張感と恐怖が皆の頭を覆っていて、穴が空いているブーツで歩いた皆の足は水ぶくれに覆われていた。祖父も、疲れきって地面に倒れ、ブーツを脱いで自分の足を見たらむくみが酷くて、人間の足には見えないものになっていた。
コミサールは四時間の睡眠後に、また前に進むと言った。何人かの兵士を選んで三十分単位で不寝番をしろと命令したが、そんな酷い状況で眠らずにちゃんと起きていられる訳がない。祖父は、昼の下士官の処刑のことが頭から離れなくてどうしても眠れなかった。気づいたら皆が先に眠ってしまって、不寝番の人も眠りこけていた。その光景を見た祖父は、ふっと、今やらないと全てが終わりだと思った。皆が寝てる。運よく一人だけ起きてる。今なら誰にも気づかれないだろう。今しかないんだ。
でも、俺が逃げたら俺の前の人はどうなるんだ? いや待て、俺の前を歩いてたのは、そもそも誰だったっけ? 思い出せない。分からないけど、俺が逃げたら、誰かはコミサールによって殺されるんじゃないか。でも俺は、ここで逃げたら生き延びることができる。どうするんだ。どうするんだ。

結局、祖父は誰も見ていない間にこっそりと皆から離れて、今まで歩いてきた道の逆方向に向かって走り出した。コミサールたちは急いで平壌へ向かっているから自分なんかを追っかけてくるはずがない。そう分かっていても、それでも急いで、急いで南の方へ逃げた。朝になる前に、自分の前の人を処刑するコミサールの拳銃の音が聞こえてくるのではないかと、常に後ろから聞こえてくる音に注意を払っていたが、何もなかった。祖父から直接この話を聞いた父は、ここで祖父はいつも泣いていたと話した。何十年が過ぎても、その罪悪感はずっと消えなかったのだろう。
日が昇って、疲れて道の上に倒れていた祖父は、うるさいタンクのエンジン音と共に遠くからやってくる米軍と韓国軍を見つけた。両手を上げて必死で叫んだ。降伏! 降伏します! 助けてください!

「お祖父さん? お前、自分のこととお祖父さんのことを比べてるのか?」
「何? だって俺は部隊から脱走はしてませんよ。お祖父さんは、逃げた。それが事実じゃない?」
「お前、いい加減にしろよ! お祖父さんは、お前の場合とは違うぞ! 戦争だったのだ。死ぬか死なないかの問題だったのだ」
「俺だって、死ぬか死なないかだったよ!」
「⋯⋯⋯⋯」
「お母さんには内緒にしてくれと言ったけど、お母さんは秘密を守れたためしがない。軍隊で俺に何があったのか、ある程度は知ってるんでしょ? 単に甘えて所属変更してもらったんじゃないってことぐらい、お父さんも知ってたんじゃないの? なのに、それでも俺のこと、逃げたと言える? 恥ずかしいとか言える? それだったらお祖父さんのことも逃亡者だと言ってみてよ!」
父は曲げない。
「いや、俺はお祖父さんのことは死ぬまで逃亡者とは呼ばないぞ。なぜか分かるか? お祖父さんは、単に逃げただけじゃなかった。平壌へ向かう時、その時は確かに生きるために逃げた。でもその後、生きるためにお祖父さんが何をしたと思うんだ? お前には、そんなことが出来るのか?」

《6/6に続く》

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