Lizzo Cuz I love You

ファンカルチャーは批評のあり方をどう変えたか?

アーティストと直接つながることができるSNSの存在感が増し、ファンたちの力が強まってきている現在、批評のあり方はどのように変化しているのか? 米音楽メディア「Pitchfork」のジャーナリストを鋭く批判したリゾは、SNSとファンカルチャーが音楽批評に与える影響を明らかにした。

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10 June 2019, 9:45am

Lizzo Cuz I love You

今年4月末、ポップカルチャーにおいて〈批判的な批評家への批判〉という特異な出来事が観測された。発端は、R&Bシンガー、リゾ(Lizzo)の新作アルバム『Cuz I Love You』に、米音楽メディア「Pitchfork」のライター、ラウィヤ・カミール(Rawiya Kameir)が10点中6.5点評価を付けたこと。その後リゾはTwitterで不服を述べ(※現在は削除)、自分で音楽をつくらない批評家が雇用されているのはおかしい、と糾弾した。その翌日には、アリアナ・グランデとジャスティン・ビーバーが、今年のコーチェラで披露したコラボパフォーマンスを小バカにしたライターのモーガン・スチュアートを非難した。

その2件に先んじて、2018年の夏には、ニッキー・ミナージュは「成熟した」音楽、「バカっぽくない」曲をつくることができるのか、とTwitterでつぶやいたライターのワナ・トンプソンが、ニッキー・ミナージュとそのファンたちから大バッシングを受ける事件が起きていた。

トンプソンは直接ミナージュにメンションを飛ばしたわけではないが、ミナージュのファンたちが当該ツイートをミナージュ本人の目に留まらせたのだ。上記3件はすべて、アーティストのファンたちが、アーティストへの敬意が感じられないコメントを発した個人・メディアを攻撃する、という図式だった。特にミナージュのファンは過激で、トンプソンの4歳の娘の写真を公開し、殺害予告まで出す始末だった。

ミナージュの一件から1年近く経った今、改めて批評の在りかたについて激しい議論が巻き起こっているわけだが、〈批評批判〉とでもいうべきこの流れは、作品の倫理的な側面の批評にまつわる身勝手な主張とはまったく異なる。何が新しいかというと、率直な批評がそもそも難しくなっていることだ。アーティストに100%の敬意を示さないライターは、本人とそのファンから非難を受ける。アーティストの偉大さにひれ伏さないかぎり、才能のある記者ではない。そんな状態なのだ。

カルチャー・ジャーナリズムの役割は今も昔も変わらない。しかし、ジャーナリストたちに求められる仕事は変わってきた。その変化の一翼を担うのがファンカルチャーだ。もちろん、熱狂的なファンは昔からいる。しかし有名人のニュースを扱うメディアにおけるSNSの存在感が増し、ファンたちの力は逃れようもないほどに強まっている。ある面から見れば、それは良いことだ。ファンたちは愛するヒーローと近くに、直接的につながれ、さらにファン同士でやりとりし、交流できる。

しかし、ニッキー・ミナージュの一件のさいに『New York Times』のライター、ジョー・コスカレッリが指摘していたとおり、悪い面もある。

「賞賛のやりとりは双方の心を温めるが、それが強まると、アーティストの肩をもつ熱狂的なファンたちが、トンプソンのようにアーティストの怒りを買ってしまった相手を責め立てるようになる」

ファンカルチャーは、アーティストの圧倒的なすばらしさを常に称える、自己達成のサイクルといえるだろう。そのサイクルを脅かす勢力が現れたら、そのなかにいるファンは攻撃的な反応をする。たとえ冗談めかしたコメントであろうと、問題のある箇所を指摘した有意義なコメントであろうと、そこに批評が存在する余地はない。

特に厄介なのは、自分がジャーナリストに厳しく反論することで生まれる余波をしっかり把握しているアーティストだ。彼らは事件が起きれば無知を装ったり、反省の様子をみせたりしているが、何百万人といる自分のファンたちの力に気づいていないはずがないし、炎上を引き起こした大きな責任をきっちりと負うべきだ。

また、微罪であれ立派な犯罪であれ、アーティストが罪を犯したとしても、ネット上のファンたちは心から彼らを応援し続けるであろうことをアーティストは理解している。たとえば今年4月末には、チャーチズがSNSで、クリス・ブラウンとのコラボレーションを決めたマシュメロに、ブラウンの過去の暴行事件に婉曲的に言及し苦言を呈した。すると、クリス・ブラウンのファンたちが、チャーチズのシンガー、ローレン・メイベリーに数々の性暴力の脅迫や殺害予告を送りつけた(気が滅入りそうになる話だ)。

アーティストは現在、注目度だけでなく、経済面でも、批評家との関係性においても優位に立っている。存在が危ぶまれる大半のメディアにとって、ファンからの批判や不買運動のリスクは切実だ。そうなると、メディアはおのずと書く内容、出版する内容を忖度せざるを得なくなる。Twitterで音楽ジャーナリストの雇用状況に言及したリゾは、図らずも今のメディアの痛いところを突いていた。

変わりゆく批評において起きている、もうひとつの重要な変化。それは今や、アートそのものを批評するのではなく、アーティスト自身の背景にフォーカスすることが強く求められているということだ。

作品のリリース数が増加の一途をたどる現在、アルバム、映画、書籍、展覧会の発表のさいは、メディアやライトなファン層の注目を確実に集める必要がある。そのために、PRや代理店、マネジメントを駆使し、作品の背景にある物語を打ち出す。そうなると、それが感動的な物語をよろこんで受け入れる準備ができているファンベースを反映したものになるのは当然だろう。しかし歴史的には、物語の考察ではなく、作品を作品としてしっかり考察することこそが、ジャーナリストの責任だった。

「Pitchfork」に掲載されたリゾのアルバムレビューは、ボディポジティブ、メンタルヘルスの回復など、アルバムを取り巻く物語に敏感に反応している。ただ物語に言及しているわけではなく、むしろ支持している。ただ、収録曲が少々均質で、ベースラインやビート、ハーモニーには、リゾが実生活で実現してきた勝利の数々に似た迫力や喜びが欠けている、という指摘もあった。

それがリゾのファンに、リゾの物語への攻撃ととられた。彼らは物語のなかにいないライターによる、リゾの名誉を毀損しようとする意図を感じ取ったのだ。「Pitchfork」によせられた批判では、このレビューがアルバムを「理解」していないとする意見がみられた。作品自体の質と、作品にまつわる物語やパーソナリティが、切り離されづらくなっているのだ。

ここには、作品としての真価がなおざりにされてしまう危険性もある。心に響く物語ばかりが注目されることで、極上のメロディや、巧みな映像技術、優美な筆致などが二の次になってしまう。

また、2018年秋に公開された『New York Times』のミュージックポッドキャスト〈Popcast〉では、アーティストたちが自らの紹介記事に行使する力が徐々に増していることが指摘された。インタビューの質問を前もってチェックしたり、公開前の最終稿に本人側の承認が必要だったり、先方が提示する条件を飲まないかぎり紹介記事を掲載できないこともあるという。

このような駆け引きは、SNS普及前からある程度存在していた。しかしSNSとファンカルチャーの勃興が、アーティスト側の力を強めているのは確かだ。アーティスト側が納得しない原稿や写真を使用すれば出演取り止めになってしまうだけでなく、彼らは今や、SNSを駆使して、旧来の雑誌を経由せずにファンに自分のメッセージを直接届けたり、Instagramで撮影の様子を公開できたりする。

雑誌の表紙を飾ることは、アーティストにとってもはや偉業ではない。雑誌が、表紙を飾るスターをブッキングすることこそが偉業なのだ。力関係が完全に逆転した。

アーティストが提示する物語とファンカルチャーの重要性が増している現在、カルチャーを伝えるジャーナリストが、陳腐化や、リゾが提案したような解雇を避けるためには、熱狂的なファンとして、ファンカルチャーに迎合するしか道がない。

PRシステムのなかで媚びへつらう下僕となり、どんなことにも耐え忍び、統制に服するのだ。そうしなければ、アーティストは口をきいてくれないし、彼らのファンの後押しも得られない。結果として、読者を失い、広告収入を失い、購読料も失う。そしてメディアはジャーナリストの解雇や、事業撤退に追い込まれてしまう。

This article originally appeared on i-D UK.