若手監督はいま何を映そうとしているのか?:草野なつか×安川有果×竹内里紗 座談会

現代に生きる若手作家の作品をリアルタイムで見るのはいつでも刺激的な体験だ。そこには野心と挑戦、そして瑞々しい才能が溢れている。時代の先端をいく若手監督たちはいま何を考え、何を映そうとしているのか? オムニバス映画『21世紀の女の子』に参加した安川有果と竹内里紗、『王国(あるいはその家について)』の草野なつかが縦横無尽に語った。

by Shinsuke Ohdera
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22 February 2019, 9:47am

今注目される3人の若手女性監督たちからお話を伺った。草野なつか、安川有果、竹内里紗。安川と竹内は、2月8日に公開されたオムニバス映画『21世紀の女の子』のなかで、それぞれ1エピソードずつ担当している。『21世紀の女の子』は、映画監督である山戸結希の企画により、本人含め女性監督が15人集まってそれぞれ8分ずつの短編作品を作るという企画だ。一方、草野は同じく2月8日から開催中である第11回恵比寿映像祭に最新作『王国(あるいはその家について)』を出品している。これら3人の監督たちによる3本の作品を合わせて見ることで、いま女性監督たちが抱える問題、あるいは若手クリエイターたちが悩む問題、さらには女性が現代社会のなかで直面する問題についても深く見えてくる部分があるのではないか。

大寺眞輔:まず『21世紀の女の子』から始めます。オムニバス作品としての全体的なコンセプトと、安川さん、竹内さんが担当されたそれぞれのエピソードについてお話しいただけますか。

安川有果:最初に山戸さんからいただいた話では、比較的若手の女性監督を集めて「ジェンダーやセクシャリティの揺らぎ」をテーマにした短編作品集を作りたいということでした。ジェンダーの揺らぎというのは女性に限らない問題ですが、それを一般向けに打ち出すひとつの形式として女性監督が集まることに意義があると。私もそのアイディアに面白さを感じて参加を決めました。ただ、私自身これまであまり女性であることを強く意識して作品を発表してこなかったので、今回こうやって作品を発表して女性としてどうかという質問をたくさん浴びるうちに、「女性であることを引き受けるとはどういうことか」といったテーマが新たに自分のなかで生まれました。正直に言うと、やや居心地の悪さを感じたからです。もちろん生まれてからずっと女性として生きてきたわけですが、それはあくまで私の一部であり、私のすべてではありません。また、「揺らぎ」をテーマに扱いながら、女性であることを強く押し出している点について戸惑いが生じたこともありました。見せ方のことは一旦置いておいて作品のことをお話しすると、私はフィクションにおける女性の扱われ方に対して以前から疑問に思う部分があり、きちんと描きたいという気持ちが強かったので、それをテーマに『ミューズ』を作りました。

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安川有果監督 Photography Taichi Nagai

大寺:小説家である夫が彼の妻をミューズとして作品を作る話ですね。妻はそれを受け入れつつも、どこかでそのフィクションとしての自分に居心地の悪さを感じている。そうした彼女の揺らぎや違和感に惹かれつつ彼女を見つめる存在として、石橋静河さん演じる写真家が重要な役割を果たします。

安川:女性のひとつの側面ばかりが一方的に強調されたり、求められることに対する反発がありました。世間には、女性はこういう存在だという一方的願望を押しつけたうえで彼女を愛する男性がいる。もちろんそこで幸せを感じる女性がいることも否定できません。でも、人はやはりそれほど一面的ではないわけで、その居心地の悪さを見てくれる存在として石橋さん演じるカメラマンの女性を登場させました。女性が今置かれているひとつの状況を、彼女のまなざしのなかで浮き彫りにできればと思ったのです。

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『ミューズ』

竹内里紗:私が撮った『Mirror』という作品では、その自分に押しつけられる願望をうまく利用しようとする女性を描きました。可愛い女性でも強い女性でもなく、他人からの視線にうまく乗っかろうとする弱さを持った女性です。瀧内公美さん演じるその女性もカメラマンですが、彼女は自分の写真が同性愛的に見えるということで評価を受ける。たしかに彼女にはそうした側面があるのですが、そのセクシャリティは必ずしも明確ではない。でも、社会からの見え方を利用したほうが他人に受けるという理由で、世間が考える女性や同性愛者的なイメージばかり押し出した作品を作るようになる。なぜこうしたテーマを選んだかというと、私自身、最初は個人的な実感に基づいて映画を撮りはじめたにもかかわらず、作品が少しずつ世間の目に触れるようになったとき、本当に色んなことを言われるようになったからです。出身校とか、教師の名前とか、当然「女性監督」というカテゴライズもされるし、繊細そうだとも言われる(笑)。その一つひとつが気になって、自分というものがよく分からなくなってしまった。映画を撮ることがあまり面白くなくなってしまった時期もありました。でも、これはたぶん、社会に出て多くの人が経験するひとつのショックなのだと思います。だからある程度普遍的な問題だろうと考えて作品にすることにしました。

大寺:安川さんの作品には、女性にひとつのイメージを押しつけてくる男性という、ある意味での悪役が登場します。男性とか社会とか他人、つまり外部に向けられるパッションの強さが作風的にも特徴である気がします。一方で、竹内さんの場合は自分に向けられる視線や欲望を逆に利用しようとする女性がテーマであるわけで、ある意味でベクトルが自分の内部に向かっている。他人の期待に乗ったり、そんな自分を意識したり翻弄されることで、自分が本当は誰だったか訳が分からなくなっていく。その混乱が作品的にもひとつの特徴になっているのではないでしょうか。

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『Mirroir』

安川:竹内さんは自分がやりたいこと以上に、やれてしまうこと、できちゃうことが多い気がする。もちろん、できるようになるために時間を費やして努力をしているはずですし、そういった部分を本当に尊敬しています。ただ、やれることがたくさんあるなかで、「これをやる」というひとつの確信を掴むことも、監督として苦労する部分なのかなと感じます。逆に草野さんは映画を作り始める際にやりたいことが明確で、そこに向かって真っ直ぐ映画を作っている印象を受けました。

竹内:そこは今すごく悩んでいる部分です。草野さんの作品を見ても、自分はなぜこういうふうに強く選び取ったものを撮れないんだろうと考えてしまう。そこには強く憧れがあるんですが、なぜか自分は違う映画を撮ってしまう。私の作品について、計算してその結果が最初から分かっているようなものばかり作っていると指摘されたこともあります。その通りだと思うし、計算の結果が見えない作品を作りたいとは思うのですが、では自分は何をすれば良いのか、自分には何ができないのか、どうやって計算できないものを撮るかというと難しい。結果が見えないものを撮ってしまって本当に良いのかという葛藤がどうしても生まれてしまう。

大寺:その葛藤や屈託はすごく今日的だし観客の共感を呼ぶと思います。映画製作もデジタル化や映画学校のおかげで低予算でもハイクオリティなものが個人レベルで作れるようになってきた。エンタメの世界とは別に、インディペンデントで作りたいものが比較的容易に作れる。しかし、自分が作りたいものを作れと言われても、そこで本当にこれで良いのかという葛藤が拭えない。これは映画にとどまらず、多くの人が抱える現代社会のひとつの特徴でもあるでしょう。『21世紀の女の子』には、自分たちに向けられる「女の子」というイメージをそのままなぞった作品も正直多いと思いますが、そうしたなかでお二人の作品は、その「女の子」というイメージや視線、欲望といったものを別々の形で批判的に問題化されていたのが面白いと感じました。

竹内:映画というのはそれを作る過程が映ってしまうものだと思います。言葉にすると陳腐ですけど、映画を作っていると「あっ」と思う瞬間があるんですね。でも、それをそのまま映画にしてしまおう、それだけで映画を成立させてしまおうという発想はなかった。たとえあったとしても、それを実現する強さは今までの自分にはなかったなということを草野さんの『王国』を見ていて感じさせられました。映画を作る過程において、そこに何かが映ったと感じる濃密な瞬間だけで作られている映画だと思いました。

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竹内里紗監督 Photography Taichi Nagai

大寺:『王国〜』は、小さな娘を育てる夫婦と、その幼なじみである亜希という女性が中心に展開される作品です。映画の冒頭で、亜希が彼らの娘を殺してしまったことが明かされる。それはなぜだったのかという謎が映画全編を動かしていく。ただし、その物語がフィクションの世界のなかで語られるのではなく、俳優たちが繰り返し脚本を読み上げリハーサルする姿を、まるで舞台の製作過程を写したドキュメンタリーのように見せていくところに大きな特徴があります。

安川:俳優たちが脚本を読み上げる場面を撮影することに力を注いでいて、それ以外に、余計なことを何もしていないのがすごいと思いました。凡人であれば作品のなかで作品のコンセプトを説明したくなるものだと思うのですが、草野さんのセンスでそれを一切していない。そんなストイックな作りなのに、映画として見事な出来映えになっている。

草野なつか:当初の予定では、最初と最後だけフィクションとして作って、その間はリハーサル場面を入れようと考えていました。そのリハーサル場面のなかで、俳優たちの身体がどのように変化するかを見たかった。ただ、撮っていくなかで最初と最後でそんなに単純に俳優の変化を比べることなんてできないことが分かった。そこから現在の形へと映画が変化していきましたが、基本的な構想はそのままです。あらすじ的なものは最初からあって、それは子供を殺してしまった女性と、子供を育てている家の何か特殊なありようを物語のなかに入れたいということでした。愛知芸術文化センターと愛知県美術館の助成金で撮った作品なのですが、予算が付いて映画を作れることが決まった段階で、高橋知由君に脚本をお願いしました。セットも何もなく、役者たちがリハーサルで読み上げる台詞だけで物語が進んでいくので、脚本としてもト書きを多めに加えるなど、一般的な作品とは違った形にしてもらっています。役者たちのためにも、少しでも物語や状況を身体のなかに入れてもらえるような喚起力のある言葉を多くしました。

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『王国(あるいはその家について)』

大寺:俳優たちがリハーサルとして脚本の台詞を喋って、その言葉が彼ら彼女らを変化させる、一人の俳優からある物語を生きる誰かへと変わっていく、役柄がその身体に受肉する。こうした瞬間こそ映画が見せるべきものだと確信して、それだけで2時間半の映画を引っ張るのはすごい強度だと思いました。

草野:もちろん現場での確信はあったんですが、やはり編集の段階になって2時間半というのがしかるべき尺だと感じました。

竹内:私は草野さんとお話しするのは今日が初めてなのですが、以前から作品にすごく興味があって、実は『王国〜』の撮影現場にも見学に行きました。そのときにシナリオを見せていただいたのですが、最初から最後までフィクションの物語としてキチンと作られていて、断片的で飛躍や繰り返しの多い俳優たちのリハーサルという形式ではなく、そのまま作っても映画として成立するシナリオになっていると感じました。

草野:特定のシーンのみ、繰り返しリハーサルする形式は現場に入った後で決めました。俳優たちとシナリオをどう映画にするか考えたときに、これを全部やる必要があるのだろうかと(笑)。リハーサルって何だろうとも考えましたし、セットを組んだフィクションとしての撮影をやらないのに、きっちりとスケジュールの決まった“なんちゃってリハーサル”になってしまっては意味がないとも思いました。脚本の高橋君には平謝りでしたが(笑)、結局物語の流れのなかで重要な展開のあるシーンしかやらないということに決めました。最後にト書きを飛ばした通しのホン読みを加えたので、少しは高橋君の面目も保てたかなとは思いますが。

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草野なつか監督 Photography Taichi Nagai

竹内:脚本を読むと、どの場面も私ならとても捨てることができないと感じたんです。撮影を見学していても、何をやっているのかずっと謎で(笑)。何もない場所で10人くらいでずっと静かに何かをしている。何がOKで何がNGかもよく分からない。草野さんからも何か特別な指示が出されているようには見えない。これは一体何が起きているんだろうと、そこでずっと不思議に思っていました。

草野:実際、そこまで指示は出していないです。

安川:だから、私もすごく不思議で、色々と質問したくなる映画でした。役者の身体の変化といっても、それが映っているかどうかどうやって確信するのか。あるいは、どうやって事前に予測できるのか。その確信もなく映画作りを進めて、もし結果的に何も映っていなければどうするのだろうと。

草野:色んなことが撮影の直前に決まったりとか、結果的に運が良かったなと思うことばかりでした。出来上がった作品に何かが映っているとすれば、それは単に私の運が良かったからです。運だけで今までやって来た気がします。

竹内:何かが映らなかったらどうしようという恐怖があるから、あらかじめ計算してその通りに映画を撮ろうと考えると思うんです。私がそうだったから。何が映るか分からないのに、ずっと撮影を進めるなんて賭けじゃないですか。自分の幸運だけを期待して映画作りを進める勇気がすごいと思います。

安川:映画作りって、当たり前のように脚本を用意して、セットを組んで、衣装さんを呼んで、この先のスケジュール表を組んで、と決まったルーティン通りに進めていく側面が強いですよね。でも、その土台を疑うことの重要性を改めて突きつけられた気がしました。当たり前のように流れのなかで映画作りを進めるうちに、何か重要なものが失われてしまっているのかもしれない。ただ、私は伝統的な映画作りにおけるすべての工程が好きなので、そういった作り方のなかで、草野さんが『王国〜』で結果的に提示してくれた重要な問いを、どのように取り入れていくかを模索していくだろうと思います。

草野:私自身、『王国〜』のような試みをこれから先も続けていくかは分かりません。ただ、前作『螺旋銀河』を撮ったとき、役者の演出を一番したかったはずなのに、それが十分にできなかったという苦い思いがありました。役者たちと向き合わず、演出の問題を曖昧にしたまま、この先も自分が映画を作り続けていくことはできない。この壁を何とか越えたいと思っていたところ、たまたま愛知から企画を出さないかと声をかけていただいたので、こうした作品になったのだと思います。

大寺:「王国」とは、どういう意味でしょう?

草野:最初のきっかけは、写真家・奈良原一高の写真集「王国」を見たことです。そこには、北海道にある男性だけの修道院と和歌山県にある女囚刑務所の写真が収められていました。それにすごく衝撃を受けました。一見対照的な場所ですが、どちらも閉ざされた空間で、でもそこには明確に重なる部分があって……。

大寺:この作品で描かれる「王国」は、誰にとっても明確な場所ではないですね。他人に説明できないという意味では、こうあるべきといった社会の決まりごとや紋切り型から逃れるマイナーな場所こそ「王国」だととりあえず言うことができます。それは男性的価値観に支配された社会に対して、そこから逃れるもの、さらには女性的なものとも関わりがあるかもしれない。しかし同時に、子供の頃の友人関係や女性同士のコミュニケーション、思い出の場所、あるいは子供のいる家庭にしても、それぞれが感じていることや覚えていることは全然違う。だから「王国」というのは、その関係性が続いている間だけの非常におぼろげで儚いもので、その内部にいる間だけ人は「王国」がそこにあることを確信できる。誰もが「王国」に入れるわけではない。だからこそ、そこに入るには合言葉が必要になるわけで、この作品全体が「王国」に入るための合言葉になっていると言うこともできますね。2時間半の上映時間を共有して、そこに何かが映っていることを確信するプロセス自体が、「王国」に入るための合言葉となる。こう考えると、『21世紀の女の子』のなかで自分たちに向けられた「女の子」というイメージともそれぞれ独自の距離を取った安川さんや竹内さんの作品のありようとも近接してくる部分があるのかなという気がします。

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安川:自分の作品でいうと、小説家とその妻の関係性がまずあって、それに対して妻と彼女を被写体にする写真家の女性という女性同士の関係性がある。前者は夫婦という社会的に説明しやすい関係性がありつつ、小説家の夫から押しつけられるファンタジーに妻が抑圧されるという権力関係がある。一方、後者にはそうした暴力から逃れる何かがある。それを「王国」と呼ぶことも可能かもしれません。言葉では説明しにくい人間同士の大切な関係性がそこにはあって、それが女性同士の間で、彼女たちだけが分かるものとして生まれたというのが私のやりたかったことかもしれませんね。

竹内:今の話はすごく分かります。いわゆる男性的なコミュニケーションというのは、社会のなかでのお互いの立場とか肩書きを間に挟んで、そこを経由する側面が強いように感じます。もちろん、同じことをやる女性も一方で存在するわけで、それが『Mirror』のテーマになっています。ただ、女性同士だとこうした迂回を経ない関係性を結びやすいということもある。私は昔からそれがすごく好きで、心地良いと感じてきました。でも社会に出たら、そうした関係性が成立しづらく、当惑してしまった。そこで悩んできたことを作品にした気がします。

安川:「王国」をなくした女性が竹内さんの作品では描かれていますね。

竹内:そうですね。社会からの視線に翻弄され「王国」を信じることができなくなった女性という感じです。一方で、「王国」を信じることができなくても、それをもう一度取り戻したいと考えている女性も出てきます。『21世紀の女の子』というオムニバス作品全体としては、女性の素晴らしさとして「王国」を賛美する部分があるように思うんですね。それはもちろんその通りで、そこに賛同するからこそ私も企画に参加しました。ただ、成長して社会に出るにつれて「王国」を信じることが難しくなるという現実もある。そうした、「王国」の外へと出てしまった女性の存在も描きたいというモヤモヤした気持ちが底に溜まっていたので、今の話は腑に落ちる気がしました。

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大寺:女性監督ばかりをズラッと並べるのは、作品を打ち出すひとつのコンセプトとして十分理解できると同時に、男性目線から女の子たちの「王国」を愛でること、商品として消費されることや選別されることにもつながりますよね。観客には男性も当然いるわけですし。その歪みや不当さを語らずに済ますことは本当に可能でしょうか。

竹内:『21世紀の女の子』の公開に際して取材を受けたとき、女性記者の方から、女性は女性同士で集まることに対して恐れがあるものではないかと聞かれました。その質問の意図はとてもよく分かります。女性同士が集まるとき、そこに注がれる男性や社会からの視線を知らないフリはできないわけですから。なかったことにするのは無理だと思うんです。そういった目線を怖れることがないまま、もしかしたら無自覚にそれを利用しつつ生きてきた人は幸せだと思いますが、私はそこで揺らぐものをどうしても感じてしまう。

安川:オムニバス全体のコンセプトとしては、その揺らぎを見せないようにしたいということでした。私たちは堂々といるべきで、それが彼女たちの未来につながるはずだ、と。

草野:揺らぎを見せず、女の子たちのヒーローになろうということでしょうか。それ自体が男性的発想で矛盾しているような気もしますが。

大寺:例えば女性アイドルグループでも、女の子たちの「王国」を男性目線で愛でるという基本コンセプトがあって、その商品に惹きつけられるのは男性が多いですが、一方で女性ファンも多い。男性からチヤホヤされる女性に対する同性からの憧れもそこにはあるでしょう。でも大抵どこかで失望や幻滅を自分に感じてしまう場合が多いかもしれない。こうしたなかで、女性同士集まって男性目線で愛でられることに対する鬱屈や屈託を抱え、それを人前で見せるアイドルも最近ではいるようです。その微妙な距離感やニュアンスこそが、今の複雑な世の中を生きる人たちに受けているのではないか。だから、全体としてのコンセプトはそれはそれで良いですが、そこから外れる個性もいた方が面白いんじゃないかと。そのほうがグループ全体にとっても強いんじゃないかと私は思います。人を鼓舞するばかりでなく、今の世界を生きる違和感の正体について改めて考えさせるような映画こそ見たいという個人的な思いもあります。

安川:東京国際映画祭で『21世紀の女の子』が上映されたのですが、その後で竹内さんが率先して、それぞれの作品についてお互いに感想を言い合おうという場を設けてくれました。オムニバス全体としてのコンセプトは聞かされていましたが、それぞれが実際にどういう作品を作っているのか知りませんでしたし、実際に完成した作品を見ると、やはり考えてしまうことがたくさんあった。それを言わずに黙っているのも、もの作りをしている人間としてフラストレーションが溜まります。だから、作品が完成した後ではありますけど、それぞれの作品やコンセプトについて感じたことをお互いぶつけ合う場所が作られたことは本当に良かったと思います。全体のなかでも一番楽しい時間だったかもしれません。

竹内:そのときの対話もそうですし、今日の座談会にしても、もしかして私はこういうことこそが本当にやりたかったのかもしれないと思いました。自分たちの作品について忌憚なく話し合い、それをきっかけに社会や他者について考えることができるような場所が今あまりないじゃないですか。それをすごく残念に思います。それでは、何のために作品を作っているか、どうやってこれから先映画を作っていけば良いか、何も分からなくなってしまう。自分の作品を作って、それを媒介にして人と話す。そのことで見えてくるものはとても大きいですし、こうした全体こそが本当の意味での映画作りではないかとも思いますね。

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草野なつか監督の最新作『王国(あるいはその家について)』(150分版)は第11回恵比寿映像祭「トランスポジション 変わる術」にて2月8日(金)、2月23日(土)上映。
https://www.yebizo.com/

安川有果監督と竹内里紗監督が参加している『21世紀の女の子』はテアトル新宿ほかにて上映中。
http://21st-century-girl.com/

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