Let the Right One In. Screenshotvia YouTube

思春期を描いたフェミニスト・ホラー映画5本

だって思春期は、血塗られているから。

by André-Naquian Wheeler; translated by Atsuko Nishiyama
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13 February 2018, 5:33am

Let the Right One In. Screenshotvia YouTube

This article was originally published by i-D US.

2017年、何人もの保守系の政治家たちが女性のセクシャリティを怪物的なものに見せようとし続けた。プランド・ペアレントフッドに複数回の攻撃をしかけ、軍隊からトランスジェンダーの兵士を排除すると脅し、女性たちの避妊手段へのアクセスを制限した。性暴力に抵抗するために声を上げた女性たちが「魔女」扱いされるような、苛立たしいこの時代。フェミニスト・ホラー映画こそ、この社会が強い女性に対して抱える恐怖を考えるのに最適なジャンルに思える。

確かにホラー映画は、マッチョイズムを撒き散らしがちだ。悪役は武器を手にしたクレイジーな男(『ソウ』)、餌食となるのは受け身で、取り乱した女性たち(『スクリーム』)。けれどこのジャンルの中でも、女性であることを進歩的かつ寓話的に描き出す作品がどんどん作られている。例えばカルト映画『ジンジャー・スナップス』(2000)は、オオカミ人間を思春期のメタファーとして使っている。この作品では体の変化と女性の体の周期とを重ねて描き出し、月経にまつわるタブーを打ち破っている。2007年の映画『女性鬼(原題:Teeth)』では、ヴァギナ・デンタタ(ヒンドゥー教の神話に現れる架空の女性器の状態で、男性がレイプに及ばないよう警告するもの)の民話からヒントを得て、女性の体が自らを危害から守ることをめぐって、ヤバさあふれるストーリーが展開する。

これらの作品は皮肉のきいたやり方で、若い女性の登場人物たちを、社会では怪物的と見なされるような存在に変えていく。その結果生まれるのは、家父長制から解放された——肉体的にも精神的にも——キャラクターたちだ(超自然的な方法によってではあるにせよ)。ここに上げる5本の映画は、女性の思春期を、むごたらしくもエンパワリングな血みどろ状態として描き出している。

『ジンジャー・スナップス』(2000)


チョーカーやホルタートップ、黒ずくめの服、といった最高にイケてるグランジ風ファッションにいろどられた『ジンジャー・スナップス』は、2000年に公開されて以来、かなりの規模のカルト的人気を集めている。その理由の一つが、若い女性であることについての、型にはまらない描写にある。まず初めに主人公のブリジットとジンジャーは友達のいないティーンの姉妹で、「死」に夢中になりすぎるあまり、ふたり一緒に死ぬ約束まで交わしている。ある夜、狂犬に噛まれてしまったジンジャーに、尻尾と体中を覆う毛が生えてくる。そして同時に彼女の生理がとてつもなく重いものになり始める(実は月経こそ、この映画の大きなトピック)。ジンジャーの変化を心配したブリジットは彼女を保健室に連れていく。型にはまったタイプの保健の先生は彼女たちに月経周期について説明し、「これから30年間、28日ごとにやってくるのよ!」と叫ぶ。
『ジンジャー・スナップス』の作り手たちは、この映画をティーンの女の子が自分の体に起こる変化に取り乱すさまを描く作品にすることだって、容易にできたはずである。しかしそうではなく、ジンジャーは自分が得た新しい力をひどく気に入り、それを使って男を誘惑してセックスしたり、妹をいじめる奴らと戦ったり、要は本物のバッドアス、というべきキャラになる。数ある最高なシーンの一つで、ジンジャーは悪名高いプレイボーイとセックスする。途中でオオカミに変身してしまう危険も顧みず。行為の後、少年の体から血の尿が出はじめる。このジェンダーロールの入れ替えを見て、不健康な満足感を得ないでいられようか。この上なくダークな描かれ方とはいえ。なぜならジンジャーが妹に示すように、人々は男と女がセックスしたと知ると、それぞれに対してまったく違う見方をするからだ。「彼は〈あの女とヤッた奴〉、私は〈ヤられた女〉」彼女は分析する。「彼はヒーロー、私はセックスの対象。フリークでミュータントで、彼がヤった女」

『RAW〜少女のめざめ〜』(2016)

フランス=ベルギー合作のこの映画は昨年の前半に公開され、メディアの大注目を集めた。クェンティン・タランティーノ級の血の惨劇と女性の成長譚の融合は、破壊的にして決定的だ。

『RAW』がこのリストにあげた他の映画と異なるのは、これが男に復讐することを求めたり、不正を正す物語ではないということだ。どちらかと言えば主人公のジュスティーヌはただ欲望と闘い、満たされない渇きを通して自分を知っていく。監督のジュリア・デュクルノーは犠牲者でも悪役でもないキャラクターを造形することで、フェミニスト・ホラーというジャンルの幅を広げている。ヒロインは単純にまだ未熟な大学1年生で、迷い、混乱している。最高に極端に描かれ方ではあるが、『RAW』は男子とセックスに支配された典型的な青春の語りに異議を唱えている。そして、少女が自分を発見するためには実はさまざまに異なる道のりがあることを、示しているのだ。

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『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008)

この2008年のスウェーデン映画は、少女たちを無力な子供のように描く傾向に対して見事な抵抗を試みている。リーナ・レアンデションが演じる主人公は人間の心臓を食べる12歳のヴァンパイアで、ある少年をいじめっ子たちから守る。エリを守られる側ではなく守る立場に置くことで、この映画はファムファタールのパターンを変化させ、作品に適合させている。

2004年に発表された同名の小説の映画化である本作では、ジェンダーの概念も単純なものではない。実はエリは、200年前にヴァンパイアに変えられたと同時に去勢された少年なのだ。けれど少女のような服装をし、世間からは女の子と認識されている。このことで、エリとオスカーの子供らしいロマンスがさらに複雑さを増す。エリがヴァンパイアであることも、その複雑なジェンダー・アイデンティティにも、さして影響されないオスカーのあり方が描き出すのは、幼年期のある時期まで、子供たちは好きになる相手にジェンダーの境界を無理に引くことをまだ知らない、ということだ。『ぼくのエリ 200歳の少女』は、若く女らしい特徴を持つ人物を、単に恋愛対象として見る設定に、闘いを挑んでいる。

『女性鬼』(2007)

文学の世界では、内側に歯の生えたヴァギナを持つ女性についての民話やたとえ話に対して、数世紀に及ぶオブセッションが存在する。類似する神話は、インドからチリまで世界中の寓話の中に見い出せる。そして言うまでもなく、このイメージから読み解けることは無数にあるだろう。「ヴァギナ・デンタタ」は男性の去勢への恐れを刺激する。そして暴力の発生する脅威を、女性の体内に位置づけるものでもある。それらの神話の中にたいがいは登場する、性暴力をふるう男たちの方にではなく。
『女性鬼』は、この性差別的な歴史を持つ民話をラディカルに生まれ変わらせる。主人公のドーンは教会の禁欲グループのリーダー。彼女をセックスの餌食にしようとした何人もの男たちのペニスを、歯の生えたヴァギナで食いちぎり、撃退する。#metooがソーシャルメディアにあふれた2017年、『女性鬼』のテーマはタイムリーに映る。B級的な不条理さに満ちた作品ではあるが、自分の性は自分のものと主張するこの映画での少女の描写は、パワフルで忘れがたい。

『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女』(2014)

『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女』(アナ・リリー・アミールポアーが監督・脚本)は、「初の〈イラン発ヴァンパイア・ウエスタン〉」の宣伝文句で知られている。そうに違いない、と素直に思える。モノクロの映像もゴージャスなこの作品は、ヴァンパイア映画の広大な規範の中の、未知の領域に到達してみせた。ここでの「誘惑する女」はチャドルを着てスケートボードで町を行く女性のヴァンパイア(「少女」と曖昧に言及される)。彼女の餌食にならんとするのは、ヘロイン中毒の父親を養うためにドラッグを売る繊細な若者、アラシュだ。

アミールポアーはペルシャ系の女性のキャラクターを——これまで映画の中では「抑圧され」「沈黙を守る」存在として描かれてばかりだった——主人公に置き、ダイナミックな役に作り上げている。この作品は、伝統的なムスリムの衣装を身につけた少女がヒロインの現代のおとぎ話であり、ムスリムの女性たちが自らの服装を選ぶ権利をサポートしてもいる。映画は2014年に公開されたが、イランでヴェールをめぐる議論や抗議が白熱した時期と重なる、完璧なタイミングだった。