©AAMIR KHAN PRODUCTIONS PRIVATE LIMITED 2017

映画の平行線 第16回:『ペトラは静かに対峙する』『シークレット・スーパースター』

新作映画についての往復連載。今回取り上げるのは、インド映画で歴代世界興収3位に輝いた『シークレット・スーパースター』。自由に歌うことを夢見る少女の物語から、話題は“似ていない家族”と“本物の家族”の境界、ダンスを禁じられたムスリムの女性たちへ。

by Junko Gosho
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11 September 2019, 8:24am

©AAMIR KHAN PRODUCTIONS PRIVATE LIMITED 2017

葬式で笑ってしまうんですよ、と告白した蛭子能収がまわりの芸能人たちから呆れられているのをテレビで見て、まずいと思った。わたしも同じ性向をもつからだ。葬式で笑ってしまう。なにがわたしを破顔させるかというと、参列した人びとの顔が似ていることだ。似た顔が集合する景色、そこに作為性を感じてむず痒くなり、不自然さを耐えるために笑いという反応が引き起こされているのだと思う。集合という現象、家族という構成、それがわたしには奇妙だった。

スクリーンの家族は似ていない。映画や演劇ではおよそ血族でない人たちが家族を演じる。遺伝的な関係が薄いために役者たちの形質ははっきりと異なり、もし似て見えるとしたらヘアメイクや体型づくり、演技プランや撮影プランなどの造形的な努力による。役者たちが営む家族は似ていないという差分をたえず露呈させていて、つまり家族はかならずしも血族にあらず、血族であることは家族の正統性を保証するものでないと示唆する。それは家族というユニットのフィクション性を積極的に開示しているようで、わたしはむしろ平穏な気分で見ていられる。

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『ペトラは静かに対峙する』©2018 FRESDEVAL FILMS, WANDA VISIÓN, OBERON CINEMATOGRÀFICA, LES PRODUCTIONS BALTHAZAR, SNOWGLOBE

「あなたは私の親である」と子ペトラが父ジャウメに通告しに来ることで『ペトラは静かに対峙する』(2018、ハイメ・ロサレス)のドラマは動きだす。はたして本当にペトラとジャウメ(およびジャウメ一族)に血縁関係があるのかがサスペンスとして機能するが(時系列をシャッフルした断章的な構成はこのサスペンス性を高める)、もとよりジャウメは同居する使用人一族をその家族的結束(父母から子への情愛、夫婦の配偶形態、母の貞操観念、息子の自立)を翻弄する悪魔的な人物として描かれており、ペトラ=ジャウメ一族の崩壊と存続はジャウメにくわえられた制裁のように見えなくもない。この制裁の使者はもちろんペトラであり、またペトラは亡き母の遺恨を晴らす代理人のようなストーリーも抱えている。つまりペトラは「あなたは私の親である」を父に浴びせる呪詛として携えて来た。性交した相手が妊娠して子を生み落としたことも知らずにのうのうと生きる男に対して、父の過失と、母の物語と、子の存在を、認めさせるための呪詛として。しかしジャウメにとってはそうではない。

ジャウメには祝福である。父にとって「あなたは私の親である」は、隣接しながらその存在に気づいていなかった部屋の扉が開かれるような言葉だろう。反省も疑念も不安も驚愕も恐怖も引き起こすが、根本的にはいやがおうにも世界と自分との結び目をあらたに出現ないし変容させるもので、子のそれよりもまず己の存在の承認を強くさせるのではないか。いかに子が親を呪おうと、子の出現は、子が親へ捧げる祝福という面をもつ。というのも、本作の登場人物は実のところ血縁を明らかにはしない。いわゆる“本物の家族”(遺伝的関係の濃淡)を解明すべき謎として中心に置きながら、その科学的証明には消極的である。DNA検査をジャウメが口にするようにこの作品世界では科学的実証が可能であるにもかかわらず、そういったアプローチはなんとなく斥けられている。

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『ペトラは静かに対峙する』©2018 FRESDEVAL FILMS, WANDA VISIÓN, OBERON CINEMATOGRÀFICA, LES PRODUCTIONS BALTHAZAR, SNOWGLOBE

ここでは科学的な検証よりも、呪術的な心証の変化に重きがある。「あなたは私の親である/ない」「あなたは私の子である/ない」と宣言することに意味があり、その言葉の呪術性に動かされ、またそれを見せるために動いている。だからこそ血縁関係の有無に葛藤して崩れていくペトロ=ジャウメ一族は、(事によると血縁関係にないと言われながら)逆説的に家族的結束を強めていくのである。その意味では、 “本物の家族”として疑われない使用人一族と、“本物の家族”であるかを疑われるジャウメ一族に、さほど違いはない。ドラマの前奏と終奏を使用人一族がきつく締めることで、かえって二つの族の境界が曖昧になって一つの族に、そして境界自体がカタルーニャの温暖な土地に消え失せていくようだ。

まるで一大サーガに発展しそうな族と土地屋敷、すると揺れ動くカメラはこの族の先祖であり末裔であるかのようで、ここには誰もがいて誰もおらず、不在の人びとに支えられて浮かび上がってくるのは千年前と千年後を同時に経験させてしまう場所のほうだ。その場所の夜を『ペトラは静かに対峙する』は描かなかった。鈍い昼として描かれる年代記だ。

さて、この夏は遠縁にあたるローティーンの子との約束で、アドヴェイト・チャンダン監督・脚本作『シークレット・スーパースター』(2017)を昼日中から観に行った。インドのミュージカル映画という触れ込みだったが、歌と踊りでドラマを共有していくインド映画の形式でなく、かろうじて形式的に歌われるのは主要人物の内省的なモノローグとひと組の会話だけで、ダンスはエンディングロールへと飛び出している。(ちなみに、下品なアバクロというか南国のドルガバみたいなファッションに身を包んだアミール・カーンと、蛍光色のメイクをほどこしたチア風の中年女性のダンサーたち、インドの民族衣装の様式的な華美さがドラァグ性へと接続されていた。)とはいえ、本作は歌の物語。一人の少女が父の反対を押しきって歌手をめざすドラマである。父とは、父親であり、家父長制であり、女性の快楽を禁じる社会のことだ。

シークレット・スーパースター
©AAMIR KHAN PRODUCTIONS PRIVATE LIMITED 2017

14歳のインシアはギターを手に歌うことが大好きで、あるテレビ番組の素人参加型オーディションで優勝することを夢見ている。このテレビ番組というのが、先頃ゆりあんレトリィバァがステージに上がって話題になった「America's Got Talent」をモデルにしたもので、『ぼくの大切なともだち』(2006、パトリス・ルコント)、『スラムドッグ$ミリオネア』(2008、ダニー・ボイル)が素人参加型クイズ番組『Who Wants to Be a Millionaire?』を舞台にしたのと同じ構造だ(日本版はみのもんたが司会をしていた「クイズ$ミリオネア」)。どちらも番組フォーマットがグローバルにフランチャイズ化し、いまや世界中で価値を同じくするエンターテインメントという趣だが、無名の人が一夜にしてスターになるとか一攫千金をなすという意味では、アメリカン・ドリームの価値観が底流にある。そのせいか(中年男性の友情譚である『ぼくの大切なともだち』を除き)『スラムドッグ・ミリオネア』も『シークレット・スーパースター』もいわばサグい主人公が階級を超える物語になっている。貧民街出身の少年と、一般家庭の少女。⋯⋯フツウのオンナノコのどこがサグいのか。彼女には超えるべき“家”がある。

彼女は歌いたい。でも父がそれを許さない。だから彼女は歌わない。——この理屈が成立するのが家父長制だ。家父長制において家長の言うことは絶対であり、女性は家長の所有物にすぎない。同じ父といえども、ペトラの父の所業が対等な高さで映されたのと違い、インシアの父は地面から斜めに見上げるアングルで切り取られ、高みから鉄槌を下すように娘の意向を一蹴し妻の肉体を殴打する。(その画角に『仁義なき戦い』シリーズ(1973〜1974、深作欣二)を思い出したりしたが、)家の中でそのように描かれる父は妻子との交感性をもたない異物であり、ひたすらインシアが突破すべき敵として提示されている。その点、インシアと母については顔の切り返しの応酬が激しく、たしかに対立的な緊張感が高まるけれども、合わないはずの目線を合わせたくてしかたない二者のようにも見え、のちの展開が予見されるショットである。

歌うことを禁じられオーディションの夢を絶たれたインシアは、ブルカで顔を隠して歌う姿をスマートフォンで撮影し、その映像をYouTubeにアップする。日を追うにつれビュー数は膨大に伸びていき、謎の覆面歌手は一躍話題になっていく。わたしが思い出したのは、昨年SNSに投稿されたひとつのダンスの映像、そして日に日に増殖した幾多のダンスの映像だ。はじめに投稿したのは18歳の女性で、彼女は楽曲にのせて踊る自分の姿を撮影して投稿した。そして彼女は逮捕された。彼女はイランに暮らしていた。そこは厳格なイスラム体制の地で、女性が公の場(家族以外の男性に見られる場)で踊ることが禁じられているから。すると彼女の逮捕への抗議として、数々の女性たちが自分の踊る姿をSNSにアップした。匿名性を守りたくて後ろ姿を映したものも多かった。画質の荒さがきわめて日常的で簡素で手軽な抗議のあり方を示すとともに、顔を隠して揺れる背中がタブーの身体として淫靡さを漂わせる。「見てください」とも「見ないでください」とも囁いて、相反する志向性をもった映像の群れだった。

シークレット・スーパースター
©AAMIR KHAN PRODUCTIONS PRIVATE LIMITED 2017

なぜ歌い踊る身体を見せてはいけないのだろう。それも女性に限って。——歌う、踊る、それはまず自分が自分で自分を楽しませるということだ。もしあなたが歌い踊ることができるとして、歌い踊らずにいられるだろうか。そしてまた、歌い踊ることには応答性がある。歌や踊りは音響として振動として自分の位置を誰かに知らせる。知らせるというのは誘うということで、歓迎されるにせよ拒絶されるにせよ、その音響は振動はかならず誰かを揺らす。
女性が自身の手によって快楽を得ること、かつ女性が自分の存在をみずから知らせるということに、我慢のならない人たちがいる。女性の身体は他人とりわけ男性を充足させるためのものであり、自身を充足させるために使ってはならない。逆に言えば、女性が快楽を感じるのは男性の手によるべきで、女性が自身で快楽を得てはいけない。そして快楽的な女性の姿は所有者のもので、所有者によって管理されなくてはならない。これが家父長制の考え方だ。これに則って、一般家庭の娘インシアの歌も、イランの18歳女性のダンスも、禁じられた。

インシアの才能に注目した音楽プロデューサーが彼女のデビューに乗り出す。かつてはヒットを飛ばしたものの近年は鳴かず飛ばずのプロデューサーはインシアのデビューに起死回生を賭ける。そんな二人が成功をつかむまで、というのが本作のメインストーリーだが、わたしにとって切実なのはインシアの母だった。本作は別の角度から見ると女3代の物語である。1代目の大叔母は家父長制に従って生き、甥の妻(インシアの母)もその娘(インシア)も同じ忍耐をして当然だと考えている。父が決めた相手と結婚するのが当たり前、夫がたとえ暴君でも付き従い、女児を妊娠したときは堕胎するのもしかたないという立場。3代目のインシアは暴君である父に反抗し、家父長制をかい潜って歌手デビューを画策する。
複雑なのは2代目の母だ。先行世代のように見合い結婚をして暴君との生活に甘んじているが、後進世代である娘には自由に歌わせてやろうとする。娘とオーディション番組をともに楽しみ、動画投稿のためにパソコンを娘に買い与えてやる。けれど母は変わってしまう。父が正式に歌を禁じると、母はそれに合わせて娘を抑える側にまわる。前述したように、明らかに敵として提示される父との対立よりも、父しだいで立場を変える母との摩擦のほうがあるいは深刻なのだ。

母の台詞が頭に残っている。——かつて家族が“あいつと結婚しろ”と私に命じた。いま娘が“あいつと別れろ”と私を急き立てる。どうして私に確かめないのか。私がどうしたいかを誰も聞こうとしない——家父長制の命令と反家父長制の命令、旧世代と新世代、体制と正義、その間で呆然とする母がいる。立ちすくんでいるかぎり、旧態のほうに流される。
わたしはインシアのように性急な解決を“母”に求めたことがある。場合によってはいまも、“母”の意思を脇に置き、 “母”を“父”から引き離すことを急ぐ。ずっと悩ましい。“母”の意思を待ちすぎると事態は悪化し、“母”の意思を無視して得た成果はその場しのぎの空手形にしかならない。 “母”の意思確認とは大変なことだ。それを引き出すにも、それに付き合うにも、じりじりと野暮ったく手がかかる。けれど、引き裂かれる者が声を発するとはそういうことだ。わたしが“母”であったなら、自分を挟む両者への不信から口をつぐむに違いない。本作150分のうち130分ほどは母が自分の意思を確かめるために待った時間だ。その場面に辿りつくまで、なぜインシアはギター弾きなのだろう、ギターがなくても歌の上手さは表現できるのに、とわたしは思っていたが、やっとわかった。ギターの形状に喩えられたもの。

ところで縁戚の子が「スクールバスの中でインシアの肌がいちばん白かった。だからヒロインだとすぐわかった」と言った。「白が極まると青になるらしいぞ。インドの女神でときどき怒ったように青い肌をしたのがいるだろう」とわたしは答えた。「別に怒ってるようには見えないけど」とたしなめられた。

『シークレット・スーパースター』は全国の劇場にて順次公開中

【映画の平行線】
女の出てこない映画はない。けれど女はまだ語り尽くしていない。 “映画の女” を見ながら感じたアレコレを、お喋りのように、戯れ言のように、手紙のように、交わしてみたい。「映画の平行線」は最新映画とともに、映画ライター・月永理絵と文筆家・五所純子が意見交換していく往復コラムです。