『ビューティフル・デイ』:リン・ラムジー監督 インタビュー

音楽はレディオ・ヘッドのジョニー・グリーンウッドが担当——衝撃の展開で、カンヌを騒然とさせた話題作『ビューティフル・デイ』。「この映画を主人公が乗り込んできて少女を救ったというものには絶対にしたくなかった」と語る英国の鬼才監督が本作に込めた思いとは?

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28 May 2018, 10:14am

『ビューティフル・デイ』は、スコットランド出身の女性映画監督リン・ラムジーにとって、4本目の長編監督作品である。ラムジーは、1999年に撮った処女作『ボクと空と麦畑』でカンヌ国際映画祭ある視点部門に選出されるなど、常に注目される映画作家だった。2011年の『少年は残酷な弓を射る』では、無差別大量殺人を犯した少年とその母親の関係を描き、世界に大きな衝撃を与えた。『ビューティフル・デイ』は、ジョナサン・エイムズの原作をもとにはじめてホアキン・フェニックスとタッグを組んだことでも話題となっている。

2017年のカンヌ国際映画祭では、脚本賞と男優賞の二冠に輝いている。ニューヨークの街を舞台に、ダークで暴力的な物語が描かれているが、その内容は決して一筋縄で行くものではない。
(※ 以下のインタビューには、物語の結末に関わるネタバレが含まれます。)

©Why Not Productions, Channel Four Television Corporation, and The British Film Institute 2017. All Rights Reserved. ©Alison Cohen Rosa / Why Not Productions

——『ビューティフル・デイ』は、ニューヨークというエネルギーに満ちた街を舞台にしています。作品自体も、記録や説明ではなく、そのエネルギーをシネマティックに伝えることに焦点が置かれているように感じました。いわゆるカバーショット(少し引いた場所から全体の状況を説明するために撮影されるショット)が使われていませんね。

ええ。カバーショットは撮りませんでした。時間がなかったという現実的な理由もあります。私たちはフィルムで撮影しました。従って、フィルムのストックがカメラから流れ出る間に何を撮るべきか、明確に把握しておく必要があったの。再撮影なんて一度もする余裕はなかった。どのような素材を自分が望んでいるか、撮影のときにすべて正しく考えておく必要がありました。

そして、もちろんニューヨークという街ね。私はマンハッタンの摩天楼のようなお馴染みのニューヨークを撮るつもりはありませんでした。暗くて、薄汚れていて、汗臭い……。実は、この作品を秋に撮るプランもあったのだけど、状況が一気に変わって急遽夏に撮影することになった。ニューヨークで夏に撮影するなんて全くクレイジーよ。あまりに恐ろしくて、あまりに野蛮で、立っているだけで気を失ってしまいそうになる。だから、誰もが夏にはあの街を逃げ出す。私はギリシャのサントリーニ島に住んでいます。とても静かな場所です。そこから撮影のためにニューヨークに行って、通りに立って目を瞑ってみたの。私が考えたのは……、地獄ではきっとこんな音が聞こえてくるのね!ってこと。この作品のサウンドトラックには、こうした私の印象が込められているはずです。

ニューヨークの街は、本当にノイズに満ちていました。そしてそこから、主人公のジョーについて私が考えるきっかけも生まれました。ある日、撮影の準備を進めていると、すぐ近くから爆発音が聞こえてきました。ものすごく驚いて、一体何があったのだろうと思ったけど、すぐにその日が7月4日だったことに気づいた。つまり、独立記念日の花火だったわけ。そこで、わたしはその花火の音を録音して、ホアキンに渡して言ったの。これが主人公の頭の中で鳴っている音だって。彼はすぐに理解してくれたわ。

——暴力とアクションシーンに満ちた作品ですが、主人公が売春宿に乗り込む場面では監視カメラによる映像が使われていますね。

あの場面は半日で撮影しなくちゃいけなかったの! だから、本当に効率の良い方法を考える必要がありました。それに、私はそれまで本当の意味でアクションシーンや拳銃が出てくる場面を撮ったことがありませんでした。どうすれば良いかと悩んでいて、突然あの方法をひらめいたの。暴力は、あまり見せすぎない方がうまく映画で機能すると私は思います。もちろん、そこには大きなリスクもあって、失敗すれば映画全体がダメになりかねない。それに、現場ではスタントマンがここぞとばかりに派手なアクションを披露しようと待ち構えているのです。私はそれを望んでいないのだと彼らに伝えながら、脚本に書き込まれていた重要な要素も撮り忘れないよう気をつけて……、本当に大変な撮影でした!

——シーン内で流れている音楽が監視カメラ映像の切り替えによって微妙に反復されるのも、とても効果的だったと思います。

そうなの。あれは編集のテストをしているときに、私がちょっと失敗してあんな感じになってしまった。でも、それがすごく効果的だって感じたの。通常の場合、編集ではカットの継ぎ目が見えなくなるように音楽をかぶせるけど、あそこでは映像と音楽の継ぎ目をむしろ際立たせるようにしています。カットの継ぎ目で、時間も少し巻き戻る。それは何か、脳の中に奇妙な違和感を植え付けるものだと思う。時間は前に進むけど、無意識のレベルで不安が残るんです。

©Why Not Productions, Channel Four Television Corporation, and The British Film Institute 2017. All Rights Reserved. ©Alison Cohen Rosa / Why Not Productions

——少女を救出して部屋に戻った主人公は、ニューヨーク市警の襲撃を受けます。そこでは、この作品で唯一のハンドヘルド・ショット(手持ちカメラでの撮影)がありました。

その通り!よく分かったわね! 誰もそれに気づかなかったけど、あの場面が唯一のハンドヘルド・ショットです。それに、あれはワンテイクで撮っています。とてつもなく生々しく暴力的な場面で、ホアキンとスタントマンと一緒に準備を進めながら、これは一度しか撮影できないって気づいたわ。ものすごい緊張感とエネルギーがあの場所に漲っていて、あの瞬間、あの場所で、そして一度しか撮影できないって感じた。そのすべてをカメラに収めるため、あそこでは唯一ハンドヘルドで撮影することが必要だった。

——主人公は凶器としてハンマーを使用しますが、これは父親がドメスティックバイオレンスの際に使用した武器でもあります。肉体的暴力が精神的暴力とリンクしていることが明らかに感じられます。

あれは原作にあった要素だけど、私はとても面白いと思ったし、暴力が繰り返されることを強調したいと思ったの。この映画の最後で、ジョーはある意味で壊れてしまう。彼は少女を救うことができず、自分自身を救うことさえほとんどできない。そして世界は不確実で、ただしずっと静かな場所になっている。この映画を撮影していて、ホアキンと私は何度も同じ感情に捉えられたわ。目の前ではあまりにも暴力的な場面が展開していて、私たちはその余波のようなものを受けていた。だから、この映画は心に関わる問題を描いているわ。私は、観客がこうしたディテールを正しく理解してくれると信じている。単に、男が闘ってクールなアクションがあって、という映画ではないから。

——この映画が、70年代のアメリカで作られた『タクシードライバー』のような作品と根本的に違っているのは、主人公が最終的に少女を救出したわけじゃないという点ですね。

そう。それこそが私が描きたかったこと! 現代の世界は不確実で、単純な善人がいなければ単純な悪人もいない。『タクシードライバー』とこの作品を比較してくれる人がいるのは嬉しいことだけど、登場人物たちの物の見方は全然違うと思う。これは、男がやって来て少女を救うという映画じゃない。全く逆に、彼女が男に人生を取り戻してやった映画なんです。

この映画を撮影しているとき、ハーヴェイ・ワインスタインの事件がどうなるかなんて分からなかったし、何か大きなメッセージを発するためにこの映画を作ろうとしたわけじゃない。私は本当に良い映画を作りたいと思っただけ。でも、こうした内容の映画のなかで、最後に物語を少女に託して終わるというのは間違いなくとても異例なことよ。

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——ジョーの母親がヒッチコックの『サイコ』を見ている一連の場面にはとてもユーモアがありました。

あれは本当に偶然だった。脚本にはなかった要素です。私の母親は、いつもテレビでサスペンス映画を見るのだけど、すごく音量を上げるの。耳が聞こえないわけじゃないのに。その話を母親役のジュディス・ロバーツにしたら、彼女は今日テレビで『サイコ』を見たばかりだって言って、有名なシャワーシーンでナイフを振り下ろす真似をしたの。それがあまりにも素晴らしくて、もう他には何も考えられなくなった。だから、この映画を見た誰もがヒッチコックの引用をしたって私に言ってくるのだけど、あれは本当に偶然で、でもそのおかげで1万5千ポンドも払う羽目になったわ。ただ『サイコ』のサウンドトラックを使うだけで、そんなにお金がかかったの。だから、プロデューサーはきっと編集で切ってくれって願っていたと思うけど、私は絶対にあの場面を使う気でいた。だって、ジョーと母親のケミストリーがあまりにも素晴らしくて、あの一連の場面は撮影していて本当に楽しかったから。原作と全く異なる部分でもあるし、この映画での母子関係が理想化されたものではないことも重要だった。もちろんジョーは良い息子で、母親の面倒を見ている。でも、私たちはそこにユーモアと同時に、母親が息子をある面で苛立たせている要素を付け加えたの。誰かの面倒を見ているときって、もちろんその人を愛しているけど、どうしようもなく頭にくることだってあると思うわ。それが、あの場面に本当らしさを与えたと思う。二人の場面は撮影していて本当に素晴らしくて、あの二人の関係だけで1本の映画を作れたと思うほどよ。

©Why Not Productions, Channel Four Television Corporation, and The British Film Institute 2017. All Rights Reserved. ©Alison Cohen Rosa / Why Not Productions

——ユーモアという意味では、ジョーはその直前までハンマーで人を殺していたわけですし……

そう! だからこそ、あの場面があれほど奇妙なものになっているの。あんなの、脚本で書けるものじゃない。天才的な思いつきで、まるでどこかで神様が見ていて、よし、お前にプレゼントをやろうって言ってくれたようなものだから。映画を作っていると、たまにこうした奇妙な経験をすることがあって、すべてがまるで魔法のように上手くはまっていくの。あれは、間違いなくそうした瞬間のひとつだった。

——サミュエル・フラーの『裸のキッス』の音楽も使われていましたね。

それを指摘したのもあなたが初めて! シネフィルと話すのは、本当に楽しいわ。最初は別の音楽を使うつもりでいたのだけど、権利料が高くて。レファレンスという意図はなかったけど、『裸のキッス』は大好きな映画だし、あの曲にも何か特別なものを感じる。場面にユーモアをさらに与えてくれるし、彼女が安っぽい存在ではないことを感じさせてくれるわ。

——同時に、『裸のキッス』はペドフィリアを扱った映画でもありますね。

そうね! それは気づかなかった!(笑)

©Why Not Productions, Channel Four Television Corporation, and The British Film Institute 2017. All Rights Reserved. ©Alison Cohen Rosa / Why Not Productions

——音楽や歌は、この作品で大きな役割を果たしていると感じます。母親を殺した相手に鎮痛剤を与えたジョーが、彼と一緒に床に横たわって「I've Never Been to Me(愛はかげろうのように)」を歌う場面、あれは本当に素晴らしかったです。

あの場面で二人が一緒に歌を歌うのは、この映画にとってものすごく重要なことだった。殺し屋はゆっくりと死んでいく。それは、主人公が銃を撃って復讐しましたって情報を与えるだけの紋切り型の場面じゃない。そこで二人は一緒に何を歌えば良いか? 私はすごく悩んでいて、あるとき兄に相談したら彼がこの曲を口にした。それで思い出したのだけど、私の父親は造船所で働いていた巨大でマッチョな男性で、でもこの曲を聞いてよく泣いていたの。歌詞を聞けば分かるけど、これは売春婦の歌よね。自分は色んな場所に行って、色んな経験をしたけど、でも一度も自分自身になったことはないって歌。それは、床の上で横になっているあの二人の男性とも奇妙なつながりがあるように感じたわ。あれは耳の遠いジョーの母親がラジオで聴いていた曲でもあって、だからきっとイージーリスニングの甘い曲だろうって私は考えた。でも、その甘い曲をマッチョな男たちが聞いて感動するの。私の父親の記憶からインスパイアされたことだけど、これもまた映画の不思議な巡り合わせよね。驚くほどあの場面に相応しい曲だったと思う。

——「I've Never Been to Me(私は自分自身になったことがない)」という曲名は、この映画のタイトル「You Were Never Really Here(あなたは本当にはここにいなかった)」と同じ意味ではないですか?

ホント! この映画にとって最高のタイトルになったはずね! 今まで気づかなくて、本当に残念。とっても良いアイデアだと思う。

——このタイトルは、作品全体の主題とも結びつきます。そのひとつの解釈として、例えばジョー自身が少女の幻想であったという考えも成立しますね?

すごい発想だわ! それは映画を完成させた後、まさに私自身があるときふと思いついたことなの。作品を作り終えても、そのアイデアについてあれこれ考え続けるものなのよ。そう、別のシナリオとしては、ジョーが少女の想像のなかで作られた虚構の存在だと考えることもできる。これは本当に面白いアイデアだわ。私は、この映画を主人公が乗り込んできて少女を救ったというものには絶対にしたくなかった。だから、最後のカフェの場面ではジョーは完全に壊れていて、すべてを見失っている。あのエンディングは原作になかったもの。私が別のことをしているとき……、あれは確か土曜日の午後にカフェにいてチェスか何かをしている間にふと脚本のことが頭をかすめて、そこで思いついたのだと思う。それが何を意味するのか私には分からなかったけど、全くノーマルなアイデアじゃなくて、それがとても面白いと感じたわ。ホアキンも同意見だった。だから、とにかくそのアイデアからスタートして、すべてをその周囲に作り上げていった。そのせいで、この映画には沢山の解釈の余地があると思う。こうやって別の解釈をぶつけてもらえることこそが、たぶんこの映画の一番エキサイティングな部分じゃないかしら。

ビューティフル・デイ』6月1日(金) 新宿バルト9 ほか全国ロードショー