トランスジェンダー女性ソウル歌手、ジャッキー・シェインの数奇な半生

ギャングによる誘拐、カーニバルでの見世物ショー、圧巻のショーを最後に忽然と姿を消した引退劇など、ジャッキー・シェインを取り巻く物語は波乱に満ちている。

by Russell Dean Stone
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04 September 2017, 11:29am

This article was originally published by i-D UK.

ジャッキー・シェイン(Jackie Shane)は、「激しい」という表現などでは形容しきれない。彼女の半生は、誘拐や見世物ショー、ギャングなど壮絶な体験に満ちている。そして突然、表舞台から姿を消したことで、それから数十年間にわたり、彼女が死去した、または殺害されたのではないかとまで噂された。世界がシェインに関しておかしたもっとも大きな罪は、音楽史において彼女に正当な評価を与えなかったことだろう——音楽界初のトランスジェンダー歌手ジャッキー・シェインは、(黙殺された)真にアイコニックな天才歌手だった。

華麗、ハスキー、そして小悪魔のような遊び心のあるソウルフルなシェインの歌声は、神の存在を感じさせる。しかし残念なことに、彼女はたった1枚のアルバムをリリースして、表舞台から姿を消した。それが1967年に発売されたライブ・レコード『Any Other Way』だ。このアルバムが今年、再リリースされることとなった。だから今、改めて彼女の功績を振り返ってみたい。

ジャッキー・シェインが活躍した60年代、彼女に関するほとんどすべてのことが違法、または差別の対象だった。自分らしい姿でストリートに出ることのは、彼女のような存在には過酷な現実を意味していた。トランスジェンダー女性であり、また黒人でもあったからだ。1962年以前、同性間の肛門性交は、全米で違法とされていた。シェインが60年代の多くを過ごしたカナダにおいても状況は変わらなかった。同性愛行為の非犯罪化は、1969年まで叶うことがなく、男性による女装は検挙の対象となっていた。そんな時代背景に加えて、人種間の緊張が高まっていたのがこの時代だった。シェインは、警察が公然と黒人に暴力をふるうのをよく目撃した。時代は少しずつ動き出してはいたが、シェインにはいまだ追いついてはいなかった。

1940年代、テネシー州ナッシュビルに生まれたシェインは、4歳からドレスやヒールに身を包んでいた。13歳になる頃には、「心は女性」と自認するようになり、学校にも化粧をして通うようになる。ジェンダーは、彼女にとって疑問ではなく事実だった。彼女は自分が何者かを強く自覚し、自分らしさを素直に生きた。シェインは、ロブ・ボウマンが書いたエッセイの中で、自身の半生について、「どう頑張っても自分でしかいられなかった。男性のふりをするのは、どうしてもできなかった」と語っている。そんな彼女の性格は、彼女の母親によるところが大きいようだ。現代、インターネットでは、子どもが社会通念に左右されずのびのびと育つのを支援する親が大きな支持を得ている。シェインの母も、まさにそのような親だった。

シェインは教会の合唱団で歌いながら育ったが、音楽のキャリアはドラマーとして始まった。初期に加入していたバンドで彼女は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのドラマー、モーリン・タッカーさながら立ったままドラムを叩き、力強いボーカルで観客を圧倒した。その後シェインは、アメリカ人ブルース/R&B歌手のリリアン・オフィットの「Miss You So Much」などで、ドラマーとしてではなく、歌手としてレコーディングに参加するようになった。50年代には、旅芸人の一座にソウル歌手として加入し、これがきっかけとなって彼女はカナダへ初めて渡った。

シェインにとって、カナダは一目惚れの相手のような存在だった。モントリオールのクラブで歌い始め、多くの人々の心を動かす歌声を披露した。ある日、ギャングが彼女たちの滞在先だったモーテルに押し入り、彼女とバンドのメンバーを拘束して、アメリカとの国境地帯まで連れていった。ギャングたちは、シェイン以外をアメリカに帰らせた。そして、残るシェインを人里離れた農地の納屋に監禁した。ギャングのリーダーは、シェインに「お前には才能がある。俺はお前をスターにしてやれる。だが、俺に逆らえば、お前を殺す」と言ったという。しかしシェインは、「わたしはまだ未成年」と嘘をつき、これを信じたギャングたちはシェインをモントリオールへと送り返した。シェインの半生には多くの男性が現れ、彼らの多くが常軌を逸した行動をとった。シェインが加入した最初のバンドではサックス奏者が、「俺のものにならなければ、お前の顔を切り裂く」と脅したという。シェインは「どうぞ」と言い放ち、その男は部屋から出ていったそうだ。

モントリオールへ戻ったシェインは、トランペット奏者ふたりが同時に演奏することで有名だったフランク・モトリー&ザ・モトリー・クルーと出会う。シェインを迎えた彼らは、ボストンやモントリオールで公演を行ない、<Esquire Show Bar>など有名な会場でもチケットが争奪戦となった。フランク・モトリーはシェインの成功に一役買ったが、彼もまた彼女の人生に現れた男性の多くと同様、彼女の才能を利用したうえ、彼女をナイフで脅迫した。

ステージ上でのシェインの存在感は圧倒的だった。彼女のルックスは素晴らしく(シルクが特に好きだったようだ)、観客を瞬時に魅了してしまう術を知っていた。伝説的歌手のジャッキー・ウィルソンやエタ・ジェイムズらとのツアーでは、Motownの名曲「Money (That's What I Want)」をカバーしたバージョンでも聴くことのできる、リトル・リチャードと比較されたほどのパフォーマンスとアドリブで繰り出す独白などで、主役たちを凌ぐ存在感を見せつけた。

シェインには高貴な道徳心があった。当時の大人気テレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』から出演依頼があった際には、「メイクを落とすなら」という条件を「のめない」として断った。唯一出演したテレビ番組は『ナイト・トレイン』だったが、彼女はこれも不快に感じていたようだ。彼女の声は人々の偏見を超えて視聴者の心を動かしたが、それでも彼らのトランスジェンダー嫌悪や人種差別から完全に逃れることはできなかった。現在は、彼女を讃えた記事やポッドキャストが多く見られるが、それでもシェインを男性称で呼ぶコンテンツがいかに多いことか——CBCのコンテンツでさえもシェインを「彼」と呼んでいる。シェインは、そのような記事やポッドキャストを、どんな気持ちで読み、聴いているのだろう?

シェインのレコードは、大きな話題となってしかるべきクオリティだったが、現実はそう運ばなかった。しかしトロントでは、「Tell her that I'm happy, tell her that I'm gay(わたしは幸せ わたしはゲイとして誇り高く生きている そう彼女に伝えて)」とシェインが書き換えた歌詞が反逆的な意味として取りざたされたことも手伝い、彼女の「Any Other Way」がヒットした。カナダのゴシップ誌『Tab』は、トロントの地元ラジオ局CHUMがインタビューを希望し、シェインを招いたが、現場に現れたシェインの容姿に驚き、急遽インタビューも同曲の放送も取りやめたと書いている。しかしその後、間もなくして「Any Other Way」がトロントのビルボード・チャートで2位を獲得。CHUMは同曲を放送せざるを得なくなったという。

シェインは「与えすぎると、ひとはすぐに飽きる」というモットーで生きていたそうだ。だから、演技のチャンスや、1969年のトロント・クリスマス・パレードでのパフォーマンスも、彼女は断った。そして、だからこそ、1971年に行なったショーを最後に、彼女は永遠にわたしたちの前から姿を消してしまったのだろう。

その最後のショーまでに、彼女がわたしたちに残してくれた音楽は少ない。しかし、シングル6曲と、1967年にトロントのSapphire Tavernにて行なわれたライブの音源が、2017年10月20日に<Numero Group>からリリースされる『Any Other Way』は、そこらのアーティストが一生をかけても作り上げることのできないほどの深みを放っている。全25曲のこのアルバムを通してシェインがわたしたちに教えてくれるものは、当時も今も変わらず尊い。ジャッキー・シェインよ、永遠なれ。

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