映画の平行線 第17回:ヤスミン・アフマド『細い目』

新作映画についての往復連載。今回取り上げるのはマレーシア映画の母にして伝説の監督、ヤスミン・アフマドの長編二作目『細い目』。初々しい初恋の物語から、話題は家という名の“檻”、そして少女たちのしかめ面へ。

by RIE TSUKINAGA
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26 October 2019, 8:55am

先日、山形国際ドキュメンタリー映画祭で王兵の『死霊魂』を見た。1950年代後半、中国共産党によって「右派」とされ弾圧された人々がいた。砂漠の中の収容所へ送られた約3200名のうち、生きて帰ったのはたったの500名。映画は、8時間以上の時間を用いて、餓えと虐待に耐え生き残った者たちの証言を映し出す。最初の証言者は、80代の老人。自分はただ仕事場の上司を批判しただけで「右派」とされ突然収容所へ送られた。弟も無実のまま収容所へ送られ数年を過ごした。次々に餓死者が出る収容所での壮絶な記憶を語る老人の横には、同じく年老いた妻が静かに座っている。やがて妻が口を開こうとする。「それは◯◯年じゃなくて…」と夫の記憶違いを指摘したり「私が食料を持って収容所を訪ねると…」と自分の思い出を語ろうとする。だが夫の鋭い声が妻の言葉を遮る。「お前は何も言うんじゃない。お前には何もわかっていないんだ」。そう夫が吐き出した瞬間、会場から野太い笑い声があがった。夫婦のやりとりを滑稽に思ったのか、妻の出しゃばりを叱る夫に同調したのか。どちらにせよどこか冷笑めいた笑い声だった。私は無性に腹が立った。いったい何がおもしろいというのか、まったく理解できなかった。

『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著、三浦みどり訳、岩波書店)で、元兵士である女性たちを訪ねた著者は、彼女たちの夫から必ずと言っていいほど同じことを言われる。戦争のことなら自分に聞けばいい、妻には何も答えられないのだからと。女たちは、実際に戦地へ行った当事者であるのにまるで当事者ではないように扱われ、言葉を奪われる。『死霊魂』では、当事者として語る資格があるのは男たちばかり。けれどカメラの前にはしばしば男の妻たちが登場する。夫の横でただ黙って座る妻。ときおりカメラの前を横切り食事の用意をする妻。口を挟もうとして夫に邪険にされる妻。夫のために遠い収容所までパンを運んだ者もいれば、どうしても収容所を訪ねることができなかった者もいる。沈黙のまま男の横に座る妻たちを、カメラは根気よく写し続ける。だが最後になって、長い長い沈黙の先にある女の声を発見する。8時間という上映時間は、彼女たちが声をあげる瞬間を捉えるためにあったと言ってもいい。

『シークレット・スーパースター』
『シークレット・スーパースター』

『シークレット・スーパースター』の上映時間150分のうち130分ほどは母が自分の意思を確かめるために待った時間だ、と五所さんは書いた。五所さんと同じように、私もまた母の「なぜ誰も私がどうしたいのかを聞かないのか」という叫びに胸をつかれた。母は、横暴な父の影でつねに怯え、間違ったことを口にしないよう沈黙を貫き続ける。娘のインシアは、そんな母をかばいながらも、「母は本当に可愛い人。自分が何をしたいかもわかってない」と子供のように扱う。母を父から引き離し、彼女を救わなければと意気込む娘の正義感に満ちた横暴さは、若い娘が誰しも抱えるものかもしれない。映画の最後、インシアは、待ち望んだベストシンガー賞授賞式の場に出席する。周囲は、賞のトロフィーが、謎に包まれたシークレット・スーパースターに与えられるのか否かでそわそわと盛り上がっている。ついに彼女の名前が呼ばれたそのとき、彼女の視線の先が気になった。自分の名前を呼ぶ壇上のスターたちを見るでもなく、周囲の家族や友人へと顔を向けるでもなく、彼女はステージの横にある大きなモニターをじっと見つめていたように思う。モニターにはブルカを身につけた自分自身の顔が大きく映されている。満場の拍手を浴びる自分の顔を見つめ、感慨にふけっているのだろうか。そのわりには彼女の顔は不安げだ。やがておずおずと壇上へあがった彼女は、「シークレット・スーパースターは私ではありません」と宣言する。これまで沈黙を貫いてきた母こそ本当の「シークレット・スーパースター」なのだと言い、母のもとへと走り寄る。モニターの中に映る自分の顔を発見したとき、彼女は気づいたのだ。ここには誰かが足りないと。自分の隣にはいるべき人がいる。ステージを飛び出す少女の後ろ姿を追いかけたカメラは、二人の女の姿を一つの画面に収めてみせ、映画は大団円を迎えることになる。

私たちにはもっともっと長い時間が必要だ。大きな声、話の上手さを備えた者たちの横で、何も言えずかたまったままの者たちがいる。彼女たちの声を聞かなければいけない。沈黙が破れる瞬間を捉えるためには、ときに気の遠くなるような待機の時間が必要だ。

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『シークレット・スーパースター』

さて、インシアの素晴らしい歌声とともに、彼女の歪んだ口元に私は惹かれた。自分に好意をよせる同級生につきまとわれるたび、彼女は不機嫌そうに口元を歪ませ、チッチッと小さく舌打ちをする。母がその場にいたら「なんてお行儀の悪い!」と叱られそうなその些細な動作が、若い女の子であるインシアをさらに魅力的にする。同じように、不機嫌さをあらわにしたインドの女の子を別の映画で発見した。ただしこちらは少女というより大学に通う若い娘。ムンバイの貧しい青年がラッパーとして成功するまでを描いた『ガリー・ボーイ』(ゾーヤー・アクタル)。インド版『8マイル』とも言えるこの映画で描かれる主人公ムラドの家庭事情は、『シークレット・スーパースター』のそれと構図がよく似ている。ムラドは、父、母、祖母と小さな家で暮らしている。家庭の貧しさを顧みず若い第二夫人を迎えた父は、第一夫人であるムラドの母に手を挙げ、ラッパーになりたいという息子の夢を握りつぶそうとする。そんななか彼に助言を与える青年MCシェールと出会い、都会から来た裕福な女性スカイが、彼らのプロモーションビデオ作りに力を貸す。

主人公ムラドには13歳のときからつきあっている恋人がいる。ムラドはインドでは少数派であるイスラム教徒の家庭で育ったが、恋人のサフィナも同じイスラム教徒だ。ただし医者であるサフィナの親はかなり裕福で、サフィナ自身も医大に通い医師になることを目指している。ふたりの家庭には貧富の差が明確にあり、ムラドはサフィナと恋人であることをお互いの両親に隠し続けている。可愛らしいサフィナを最初見たとき、私はこんな物語をすぐに想像した。おとなしく可愛い金持ちの令嬢を恋人に持つ主人公が、身分の差を乗り越えるためにラップで一攫千金をつかもうと奮闘するお話。ところがそれは早合点だった。サフィナはそんなおきまりの型に収まる女ではなかった。他の女がムラドに気のあるそぶりを見せた途端、サフィナの顔がかすかに歪む。そうして当の女の元へ押しかけ、人の男に色目つかってんじゃねえよとばかりに文字通り鉄拳制裁を加える。その激しい気性に、最高だ、と叫びたくなった。もうひとり登場する都会の女スカイも威勢がいい。深夜、友達と車を乗り回し、美白をうたう化粧品の看板に「褐色の肌こそ美しい!」とスプレーで落書きする。社会の檻から抜け出せずあがく男の前で、女たちはふてぶてしくその檻を壊そうとする。ただし檻はそう簡単には壊れない。サフィナもスカイも、結局は自分の生まれた「家」の規律に縛られている。使用人の子は使用人に、医者の子は医者になる。女は親が決めた相手と結婚する。それでも彼女たちは拳を振り上げることを恐れない。壊せないにしても、ひびを入れることはできるかもしれない。

ヤスミン・アフマド, 細い目
ヤスミン・アフマド『細い目』

インシアの、あるいはサフィナの不機嫌そうな笑みを見ながら、ヤスミン・アフマドが作り出した少女オーキッドのことを思い出した。ヤスミン・アフマドは、『細い目』(2004)『グブラ』(2005)『ムクシン』(2006)とそれぞれ物語を変奏させながら、オーキッドという名の少女を自作のなかで描いてきた。先日、イメージフォーラムで開催された特集では彼女が遺した作品群が一挙に上映され、長編第二作『細い目』も日本で初公開された。『細い目』はマレーシアの少年少女による初恋の物語。主人公は、ムスリム系のマレー人の家で育った少女オーキッド。彼女は金城武の大ファンで、ジョン・ウー映画を好んで見るため、学校の友人からは変わり者扱いをされている。華僑の家で育ったジェイソンは、かつては学校で優秀な成績を収めていたものの、華僑のため留学の機会を逃し、今は地元のギャング団と繋がりを持ちながら市場で中華映画のVCDの販売をしている。そんなふたりが出会い、惹かれ会う。ヤスミン・アフマドは、一目惚れの瞬間を気恥ずかしくなるほどのまっすぐさで映し出す。言葉などいらない、一分もあれば恋に落ちるには十分だというように、その瞬間、音が消え、互いを発見するふたりの顔がスローモーションで捉えられる。

オーキッドは、ジェイソンの前でも、友達の前でも、何か気に入らないことを言われればためらいなく顔を歪めはっきりと異議を申し立てる。友人の彼氏に「あんな細い目をした華僑のどこがいいんだ」と揶揄われれば、顔全体に怒りの表情を浮かべ、なぜ外国人とつきあってはいけないのか、外国人を妻にするマレー人の男はたくさんいるのに女が同じことをすると非難されるのはおかしい、と明晰に反論する。しまいにサッカーボールを蹴り上げ、颯爽と立ち去ってみせる。そんな強く凛としたオーキッドに、ジェイソンはいつもうっとりと見惚れている。

ヤスミン・アフマド, 細い目
ヤスミン・アフマド『細い目』

ヤスミン・アフマドの映画には、いくつもの小さな共同体が存在する。オーキッドの家。ジェイソンの家。マレー人のコミュニティ。華僑のギャング団。インシアやムラドの家庭に比べて、オーキッドの家庭はまるでユートピアのようだ。抑圧的な父も、自分の欲望を抑え込む母も、ここにはいない。ムスリム系マレー人のオーキッドが華僑のジェイソンとつきあうということは、実は宗教や家制度をめぐる諸問題を孕んでいる(こうした背景については『マレーシア映画の母 ヤスミン・アフマドの世界』《山本博之編著、英明企画出版》に詳しく書かれているのでぜひ読んでほしい)。だがジェイソンという彼氏の存在を知っても、父は心配はするものの決して頭ごなしに反対はしないし、母と家政婦(でありながら家族でもある)ヤムは「可愛くていい子じゃない」と歓迎する。誰もが平等で自由でおおらかな世界。オーキッドを縛り付けるものなどここには存在しないように思える。だがユートピアに見えたオーキッドの家にも実は檻が備えられていたことが、やがて判明する。ジェイソンと仲違いし傷ついたオーキッドは、まるで小さな鳥のように、居心地のいい家の中へと逃げ込んでしまうからだ。彼女が巣にこもることで、これまで見えなかった檻がはっきりと見えてくる。共同体を守る檻は、初めから頑強に存在していた。オーキッドの父が「私たちが死んだら誰がお前を守ってくれるのか」と娘の行く末を心配するが、それは自分たちが理想的な巣をつくり娘を庇護していると知っているからだ。優しく美しい世界を描いたように見えるヤスミン・アフマドの映画に一種の残酷さを感じてしまうのは、こうした瞬間だ。横暴な父親だけではない。誰より優しい父もまた檻の番人となりうるのだ。オーキッドの顔からはいつしか不機嫌そうな歪みが消え、代わりにぼうっとした笑みが張り付いている。

オーキッドとジェイソンを結びつけたのは、視線だった。黙って違いの顔を見つめた瞬間、ふたりは恋に落ちた。だがふたりが最終的に求め合うのが互いの声であり、紙に書かれた言葉だ。ふたりが仲違いをしたときも、ジェイソンは遠くから彼女を眺める機会を得るがそれでは満足しない。彼女の声を聞かなければ意味がないからだ。ジェイソンは長い手紙を書き、電話で声を聞かせてくれるようにオーキッドに頼み込む。視線から恋は生まれる。ただし恋を続けるには声が、言葉が必要となる。ここではたと気がついた。檻をすり抜け、壊すことができなかったとしても、声/言葉なら届けられる。だから私たちは、オーキッドがもう一度彼に向けて声を発する瞬間を待ち続ける。そのときには、どうか彼女がまたあの魅力的な顰め面を取り戻していますように、と願いながら。

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【映画の平行線】
女の出てこない映画はない。けれど女はまだ語り尽くしていない。 “映画の女” を見ながら感じたアレコレを、お喋りのように、戯れ言のように、手紙のように、交わしてみたい。「映画の平行線」は最新映画とともに、映画ライター・月永理絵と文筆家・五所純子が意見交換していく往復コラムです。

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