Richie Silverman. Los Angeles, styczeń 1979 roku

カウンターカルチャーの重鎮が撮りためたアシッドな写真群

アメリカ軍心理作戦部隊の一員としてベトナムに徴兵されたロジャー・シュテフェンスは「その目で見たすべてを写真に記録しろ」との任務を課された。2年後、戦地から帰国した彼は、激動の時代を迎えたアメリカを写真に収め続けた。それらの写真4万点がシュテフェンス一家によってまとめられ現在、『The Family Acid』として公開されている。

by Emily Manning
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02 August 2016, 3:40am

Richie Silverman. Los Angeles, styczeń 1979 roku

ロジャー・シュテフェンス(Roger Steffens)はこれまで、"LSDのフォレスト・ガンプ"と呼ばれてきた。それは多くの意味で、的を射ているあだ名だ。しかし、フォレスト・ガンプとシュテフェンスには決定的な違いがある。知能だ。映画『フォレスト・ガンプ/一期一会』の主人公フォレストは知能指数が低く、20世紀最大の出来事を目にしてもそれにほとんど反応を示すことがない。対するシュテフェンスは、箱を開けてサイケデリックなチョコレートをひとつひとつ味わい尽くすように、人生の一瞬一瞬を豊かに生きてきた。シュテフェンスは、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズに関する専門家の第一人者として世界的に有名だ。そして、グラミー・レゲエ・コミッティー(Grammy Reggae Committee)に、その発足から約30年間、会長としてたずさわってきた。またサンタモニカの大手ラジオ局KCRWで約10年間も自身の番組を持ち、これまでにもキース・リチャーズやニーナ・シモン、リトル・リチャード、シニード・オコナー、レイ・チャールズなどをインタビューしてきた。

Dad's yellow Cadillac, near Yosemite, CA. October 1988

シュテフェンスの経歴は多岐にわたる。キュレーター、司会者、編集者、百科事典や音楽レコード目録の編集者、著名人研究者、プロモーションディレクター、前座の達人、作家(特に、ボブ・マーリーのトレーディングカードに関する本は有名だ)など、彼は興味のあることにはすべて手を出したように思える。しかし、そんな多趣味な彼だが、その半生において写真への情熱は1度も失うことはなかった。アマチュアのフォトグラファーとして写真を撮り続けてきたシュテフェンス——この度、74歳にして自身初となるギャラリーでの個展を開催することとなった。『The Family Acid』と題されたこの展示会は、ニューヨークのギャラリーBenrubi Galleryにて行なわれる。

詩の朗読でアメリカ全土を回っていた時代でも、常にKodak製Brownieカメラを手放さなかったシュテフェンスだが、本気で写真に取り組み始めたのは1968年のことだった。当時、シュテフェンスは25歳。ベトナム戦争で心理作戦部隊の一員として徴兵された。サイゴンで、彼は下水道に隠れていた現地人たちを難民として救済する活動を発足し、それを評価した上官がシュテフェンスを市民活動プロジェクトのリーダーに任命した。しかし任命に際して、上官からシュテフェンスにひとつの条件が課された。その条件とは、「見たものすべてを写真に収める」というものだった。

Sunbathing with poet Mark McCloskey, Berkeley, CA. August 1972

La Jolla, CA. December 1980

「フィルムも現像も2年間タダで、使い放題だったんだ。それに、現像した写真は僕がキープできた」とシュテフェンスは電話越しに語る。彼は現在、ロサンゼルスにある自宅で、6部屋を膨大な量のレゲエのレコードや記念品で埋めて暮らしている。26ヶ月に及んだ兵役のなかでも一番輝かしい体験について、彼は思いを巡らす。「子供の頃、ニューヨークで美術館を見て育ったし、母はアートに造詣の深いひとだったからね。優れた目だけは持っていたんだ。でも写真の勉強なんてしたこともなかったし、現像も苦手だった」と彼は言う。「すべては直感でやっていたんだ」

ベトナムでの兵役中にシュテフェンスが撮った写真は2万枚にもおよぶ。そこには、サイゴンの街の喧騒や、道教僧たちの修行の様子、アメリカ人兵士たちが覗かせる人間味あふれる一面などが数多く収められている。「僕はベトナムの首都に放り込まれたんだ。そこでは昼夜を問わず様々なことが起こっていた。それまで経験したことのなかった環境に頭はぶっ飛んだし、目がくらんだよ」とシュテフェンスは当時を振り返る。「あの匂い、あの音、あの熱——サイゴンのすべてが僕の感覚を刺激した。目に飛び込んでくるものすべてに魅了されたんだ。ベトナムは僕を変えたよ」

My dad lived in Morocco in the early Seventies. This was taken at a campground in Marrakech, 1971

Tet Offensive, Saigon. Overhead a helicopter gunship fires 5,000 bullets a minute. Every fifth bullet is a red tracer that helps direct fire to its target. Vietnam, February 1968

兵役を終えてアメリカへ戻ったシュテフェンスだったが、写真を撮る衝動が消えることはなかった。劇的な時代のベトナムをドキュメントするかわりに、シュテフェンスは大きな上がり角に差し掛かっていたアメリカの姿、日常に見るカウンターカルチャーを捉え始めた。「友達のほとんどはアートに傾倒していた。詩人や俳優、小説家、画家、フォトグラファー——アートのボヘミアンともいうべき人たちだね。1979年にKCRWで番組を持って、初めてゲストに面白いやつらを招くことができる場所を持ったんだ」。その後も彼は、カリフォルニア州メンドシーノで開かれたヒッピーフェア(1975年のフェアで、彼は現在の妻メアリーに出会っている。そのとき、ふたりはともにアシッドで幻覚症状にあったという)の様子や、埃っぽいサンセットストリップに掲げられたビルボード、そしてどこまでも高く青いビッグサーの空などを写真に収めた。反戦活動家の友人ロン・コヴィック(Ron Kovic)を収めようと、新しいフィルムを入れたつもりがすでに使用済みのものを装着してしまったことから、彼は偶然にも多重露出の技術を知ることとなった。この多重露出で出来上がった作風は、彼がよく知るサイケデリックな世界を表現していた。「ものの裏側にあるものを浮かび上がらせることで新たな世界が広がる——そんな3つのビジョンを表現したイメージを再現しようとしたんだ。アシッドが引き起こしてくれるビジョンはまさにそんな感じ。アシッドは、そこにある膜のようなものを取り除いて、モノの本質的な構造を見せてくれるんだ。そこにあるすべてのものをあるがままにね」

彼は世界を旅し、魅力的な友人やコラボレーターに囲まれ、そして誰にも真似できない独自の視点を持っていた。しかし、彼はあくまでもパーソナルなプロジェクトとしてスナップ写真を撮り続けた——それは、色鮮やかでサイケデリックな家族アルバムなのだ。1990年代には、娘ケイトが父のコダクロームスライド(Kodachrome slide)を撮った写真を目録としてまとめ始め、2012年には息子のデヴォンも加わって、4万枚に及ぶ写真をすべてスキャンした。ケイトは専用のInstagramアカウントを開設して作品をアップし、アカウント名を「The Family Acid」と名付けた。そして、これがシュテフェンスの作品群の呼称として定着した。フォロワー数が35,000人を超えた頃、シュテフェンス作品を収めた写真集を出版する話が持ち上がった。シュテフェンス一家が目録にまとめた作品の一部は、今回の展覧会でも展示されるそうだ。

展覧会のオープニングを目前に控えたシュテフェンスに、"彼の半生"という長く奇妙な旅について聞いた。

Philip Michael Kolman. Big Sur, CA. June 1978

Northern California, March 1974

ベトナムから戻ったアメリカでは、何がどのように変化していたのでしょうか?
僕が戻って数ヶ月後、アメリカがカンボジアに侵攻し、フロリダ州とオハイオ州で警察と州兵が非武装の大学生たちを銃殺するという事件が立て続けに起こったんだ。政府組織が学生を殺したことで、それまで盛んだった抗議運動が勢いを削がれた——1970年のことだった。1970年初旬には、夏頃に詩の朗読とベトナムに関する講義をするということで大学から依頼を受けていたんだけれど、5月に入る頃にはアメリカ全土の大学がストライキに入っていて、いざ大学を訪れてみると、集会のゲストスピーカーではなく、ストライキ委員会スピーカーとして迎えられたよ。そこで僕はまた違う角度からベトナム戦争を見ることになった。なんたって、ベトナムへ行く前の僕は、ゴールドウォーター(Barry Goldwater)率いる保守派の支持者だったんだからね!僕が保守派だと信じて話を聴きにきた人たち、反戦スピーチになんて耳を貸さない人たちが大勢、講義に参加していたよ。そして僕がベトナムで経験したことを聴いていった。僕の個人的な経験と、そこで何が僕をあそこまで変えてしまったかについて話したよ。

Cynthia Copple at Stonehenge, October 1971

当時、カウンターカルチャーに生まれたサウンドやスタイルとはどのようなものだったのでしょうか?若者は何を身にまとい、何を好んで聴き、どう自らを表現していたのでしょうか?
70年代初頭、アメリカはカラフルで鮮やかで、大胆できらびやかな世界に傾倒していたね。今の基準で考えれば、当時の服は極端でガチャガチャしていたな。みんなの髪もとんでもなく長くてね。テレビのキャスターでさえ、もみあげは伸ばしっぱなしが当たり前だったんだから。男は全員髭をたくわえて、その下の首にはスカーフやネッカチーフを首に巻いていた。まるでサーカスのようだったな——最高の意味でね。みんなが音楽を愛してた時代でもあった。オルタモント・フリーコンサートが開催されるまで、ロックフェスティバルはただただ楽しく、"みんなで愛を"という場だったんだ。70年代、特に76年の夏、僕たちは「新たな時代がやってきた」と思ったものだったよ。世界が変わるのを感じたし、愛と団結とクリエイティビティと共同体の概念に満ちた未来が見えていたんだ。それが永遠に続くと信じてやまなかった。本当にそんな戯れ言を信じていたんだから馬鹿だったとしか言いようがないね。

あなたの写真に感じるものはたくさんありますが、特にそのユーモアのセンスに強く惹かれます。巨大に育った大麻草で遊ぶ子供たちが収められていたり、面白い言葉が車に書かれていたり——あなたの作品には一貫したテーマがあるのでしょうか?
一言で自分の作風を表現しなきゃならないとなれば、それは「歓び」ということになると思う。特に70年代の偉大な写真集なんかを思い出してみると、どれもすごくダークなんだ。ハーレムの裏道でクスリをやっている人々、アメリカ南部で家もなく貧しく暮らす人々、ゲットーで生き残りをかけて戦いながら暮らす人々。目を背けたいけど、目の当たりにしてきた厳しい現実を映した写真ばかりなんだよね。でもね、あの時代には、みんなで歓びを分かち合った素晴らしい瞬間もたくさんあったんだよ。今、僕の写真を見て「あなたが写した人たちはみんな揃って笑ってるのね」って言うひとがたくさんいるよ。それがさも不思議なことであるかのようにね。

The Family Acid is on view at Benrubi Gallery from July 7 - August 26, 2016.

@thefamilyacid

Dad double exposed by Mom. Palo Colorado Canyon, Big Sur, CA. August 1978

Big Sur Sunset, August 1978

Winters, CA. March 1981

Credits


Text Emily Manning
Photography Roger Steffens
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.

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Benrubi Gallery