男の長髪が持つ、政治的重要性

それはひとつの抵抗のかたち。

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jul 31 2017, 11:04am

i-D Hair Week is an exploration of how our hairstyles start conversations about identity, culture and the times we live in.

「お前の髪は長すぎる」と父は言った。「そんなんじゃどんな仕事にも就けないぞ」。そう言われると、わたしは明るい茶色の髪を無意識のうちに触っていた。2012年にはその髪も顎まで伸びた。女性であれば、顎までの髪などショートの域に入るだろう。しかし、男性の場合には、それが政治的意味合いを帯びる。父にとって--いや、少なくとも父の世代の多くにとって、"きちんとした仕事に就いている男"というのは短髪でなければならない。長い髪の男は、無職のヒッピーか同性愛者だけ。そうした固定観念を持っているのだ。

父が言った言葉を、わたしは数ヶ月のあいだ考えた。大学を卒業し、英語とライティングで修士号を取得した。しかしその後、「イースト・ヴィレッジのバーで詩の朗読をしていても未来は開けない」と直感的に感じた。そこでわたしは「就職しよう」と決意した。面接でこれまでに成し遂げた功績や、会社に貢献できる点などを面接官に話していたが、そのあいだ手は無意識に髪をいじっていた--「髪の長さという些末なことが、雇用に影響するなんてあり得るのだろうか?」と考えながら。

雇用における長髪男性に対する差別がどの程度存在するのか、それを証明する統計にわたしは出会ったことがない。しかし、興味深いことに長髪男性の人口統計学データや髪の手入れ情報の提供、そして文化的汚名を打破するための取り組みを行なうLonghairs(ロングヘアーズ)というサポートグループが存在する。Longhairsは男性用ヘアゴムも販売している。

しかし、わたしの懸念は、「長髪であることでわたしの性的趣向が明らかになり、それが雇用に悪影響を及ぼすのではないか」ということにあった。わたしは同性愛者だ。アメリカにおいて、男性でありながら髪を伸ばすということは、社会通念としてあるジェンダー観に逆行することを意味する(世界的にはそうではない。オーソドックス系ユダヤ教の男性や、イスラム教男性には、宗教的信条から髪を伸ばすものも多い。またボブ・マーリーのおかげで、ドレッドヘアはジャマイカにとどまらず世界中で人気だ)。そして、職場でのLGBT職員差別は現実問題として存在する。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で、ひとびとの性的趣向やジェンダー・アイデンティティに関する法律や公共政策について研究を行なうウィリアムズ・インスティテュート(Williams Institute)によると、国内で企業に雇用されているLGBTの社会人のうち21%が、これまでに雇用や昇格、昇級において偏見を感じたと報告している。

履歴書を持って面接に出向いた企業での第二次面接は、ほとんどが叶わなかった。わたしの髪型がその理由かどうかは分からない。しかし、そのおかげで、わたしは髪型が問題とならない仕事を見つけることができた。わたしが初めて就いた仕事は、ニューヨークの社会やアート・シーンを取り上げるブログでの執筆だった。そこでわたしの髪について触れる者はいなかった。そこに出入りするひとびとやアーティストたちは、色も形もスタイルもさまざまな髪型をしていた。わたしはさらに髪を伸ばしていった。

いまは2017年。わたしの髪は90cmほどまで伸びている。5年前にロサンゼルスに引っ越してからは一度も切っていない。理由は多くあるが、そのひとつは散髪にお金がかからないということだ。美容院に行かないことでどれだけお金が貯まったか。もうひとつの理由はよりセンチメンタルなものだ。大人になると伸びた身長を柱に刻むようなこともしなくなる。身長は中年期になると縮みさえする。だが、髪は伸び続ける。そこには過ぎ去った時間が記録されていく。ひとが肉体的に死んでも、髪は伸び続けるという。髪はわれわれ人間の肉体において、最後まで死に抗う部分なのだそうだ。

髪は虚栄心の表れともなる。しかし、ジェンダーの概念を超えた力を持つときもある。伸ばすことで、わたしは社会通念として押し付けられるジェンダー観に抗うことができた。そして、長い髪があったからこそ、わたしは時と場合によって着るものをドレスとスーツで使い分けることができた。

髪はまたひととの親密な関係を感じさせてくれる。自分以外では、パートナーだけがわたしの髪に日常的に触れる。彼はときにわたしの髪を使って遊んだりするが、そこには優しさと親密さが感じられる。見ず知らずのひとから、「触らせてもらってもいい?」と訊かれることもある。これは、特に人種による違いに関連して繊細な問題としてさまざまな記事や見解があるが、わたしはほとんどの場合、「触らせて」と言われれば触らせるようにしている。握手や、頰にキスをすることが人との出会いにおける儀礼になっているのだから、髪を触らせることも許されていいのではないだろうか?

もちろん、皆が了承を得てから触るわけではない。それによって発生した面白いエピソードもいくつかある。大統領選挙の少し前、わたしはネブラスカ州オマハにあるゲイバーにいた。パートナーとふたりでアメリカを横断するロードトリップに出ており、わたしたちはその道中でそこに立ち寄ったのだ。ドリンクを注文して数分が経過した頃、ドアが開き、独身最後の夜を女性だけで楽しむパーティの一団が入ってきた。新婦となる女性は、わたしを見つけると全速力で駆け寄ってきた。彼女はわたしの髪を掴み、「わたしはこれまで長髪の男性と出会ったことがない」と語り始めた。

彼女が話してくれたエピソードは奇妙なものばかりだった。彼女は、自身が生まれ育った地域がいかに古くからの慣習にがんじがらめになっているか、そしてまたそこに比べていかにオマハがリベラルで素晴らしいかについて語った。彼女はオマハの先進性を象徴するものとして、トイレに「トランスジェンダー用」があったことを挙げていた。また、アイダホ州の保守的な地域に暮らす "ヒッピーの叔母"が、いかにリベラルな思想を持っているかについて語り、その叔母が自由な発言を繰り返したことで地元のKKK(アメリカの白人至上主義秘密結社)から誘拐されたことも明かした。この叔母は、誘拐されてから1週間が経った頃にようやくKKKたちの目を逃れて電話で警察に救助を要請し、命からがら逃げ出したそうだ。「そんなこと、オマハでは起こり得ない」と、新婦になろうとしている目の前の女性は力説した。そして、そんな話をしながら、彼女はずっとわたしの髪を握っていた。わたしの髪が何かしらのお守りであるかのように--世界の現状がけっして捨てられたものではないと、わたしの髪が証明しているかのように。

誘拐が果たして実際に起こったのかどうか、わたしには知る由もない。トランスジェンダー用のトイレは実際に存在するが、それはトランスジェンダーの人たちが男性用・女性用の公衆トイレを使うことを防ごうとするネブラスカ州政府が作ったもので、大きな議論の的となった。

なんにせよ、この女性が語ってくれた話は、髪がなぜ政治的意味合いを持ち、またなぜ重要なのかを浮き彫りにしている。髪を伸ばすことは、「自由思想を持ったヒッピーである」「同性愛者である」と世界に宣言することと結びつき、社会通念がジェンダーや文化に押し付ける"普通"の概念を問う行動になるのだ。そしてひとは、それが理由で憎悪や嘲笑のターゲットになりうる。しかし、だからこそ今、社会通念における"普通"とは違う自分を打ち出すことが、これまでになく重要なのだ。伝統や慣習に従ってはならない--わたしたちそれぞれを個人たらしめる要素を妥協してはならないのだ。そうさせようとする政治的圧力に屈してはならない。伸ばしたいのに、社会の目を恐れて髪を切る。問題は髪ではない--もっと大きなものが危機にさらされているのだ。

トランスジェンダー学生たちの安全を確保する法を覆し、チェチェン共和国ではゲイやバイセクシュアルの男性たちが強制収容所で殺害されているというのに一切の発言を避けている現アメリカ政府--女性、LGBT、イスラム教徒、そして有色人種などの社会的弱者の人権と生活も、危機にさらされている。男にとって、髪を切るのはたやすいことだ。しかし、長く伸ばした髪には大きな意味が込められている。社会通念への服従、男性至上主義、そして性差別や同性愛嫌悪を増長するジェンダー二分化への抵抗だ。

もう何年も前、髪を伸ばし始めた頃にわたしにはその意味など理解できていなかったかもしれない。しかし今、髪を伸ばすことで自分に課した責任は明白だ。わたしの髪はクィアであることの、そして社会に対する抵抗の象徴だ。はじめの疑問は、「長髪でも雇ってもらえるだろうか?」だった。しかし、その視点は間違っていた。本当の疑問は「社会にとって男性の長髪はどんな脅威か?」だ。「長髪は何を意味するか?」であり、「差別に直面する恐怖感に駆られて、ひとがジェンダー二分化の概念に屈しなくてはならない社会--それを変えるのに、何をしなければならないのか?」ということなのだ。

Credits


Text Daniel Reynolds
Photography Hairfreaky via Flickr Creative Commons
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.