ISSEY MIYAKE タトゥ 1970年作 Photo:Kishin Shinoyama

『イッセイさんはどこから来たの? 三宅一生の人と仕事』:小池一子 interview

Nakako Hayashi

クリエイティブ・ディレクターとして数々の展覧会をキュレーションしてきた小池一子。その彼女が、ブランドを立ち上げ当初から目撃しつづけてきた三宅一生の仕事をドキュメンタルに綴った書籍『イッセイさんはどこから来たの?』が昨年末に刊行された。いま改めて小池一子に訊く、イッセイミヤケの革新性とその時代。

ISSEY MIYAKE タトゥ 1970年作 Photo:Kishin Shinoyama

2017年暮れ、『イッセイさんはどこから来たの? 三宅一生の人と仕事』を上梓された小池一子さんは 三宅一生氏が若いころから活動を見続け、併走され、あるときにはキュレーターとしてかかわり、またあるときは目撃したことを正確かつエキサイティングな言葉に置き換えられてきた朋友である。

衣服の領域展

数々のファッション展をキュレーションされてきたばかりかアートスペースを創設・運営してこられた(佐賀町エキジビット・スペース 1983年〜2000年)小池さんが、「極東の島国の日本の、自己規制が無言の戒律のような精神的風土のなかで、デザインを中心とするものづくりのリテラシーを確立したエネルギー。誰のものでもない、自己の発想に根ざす企画を成功に導く力が象徴するエネルギー」(『イッセイさんはどこから来たの?』小池一子著より)と書いたその人が、三宅一生さんである。天然繊維と化学繊維、和服と洋服というように、日本人が衣服を考えていくうえでつねにそのどちらかに傾きながら選び取っていくという究極の選択肢を、三宅一生さんは全身で問いながらキャリアを築かれてきた。1938年生まれで、1963年に初めてのショー「布と石の詩」を行った三宅氏がその後55年間の軌跡のなかで問いかけてきたことは、いまの私たちにとって多いに示唆にとむし、たくさんのヒントを得ることができるだろう。

——最近ファッションが好きな若い人たちのあいだで再びイッセイさんの人気がとても高まっていると聞きます。

小池 そうなんですか?

——コズミックワンダーの前田征紀さんは昨年、活動歴20年をむかえました。パリコレクションを志向していた時期もありましたが、今は京都の伝統保存地区である美山をベースに、紐でむすぶ構造の服をつくっています。また前田さんは工芸デザイナーの女性と〈工藝ぱんくす舎〉というユニット活動を行ない、2017年夏には資生堂ギャラリーでの展覧会を実現されました。田舎暮らしや農業に向かう人が増えてきている時代の風潮のなかで、前田さんも美山地区に会社ごと移住されています。彼らのユニークさは、人の行動まで変えてしまう服をつくること、見た目を変えるためのデザインにとどまらない創造だと思うのですが、その源流には一生さんの、イノベーションとしてのファッションデザインがあったのではないでしょうか。

小池 知らなかったですね。興味深いです。コズミックワンダーは90年代終わりころに、学生たちに言われて作品を見たことがあって。でも当時は、現代美術にすりよるようなものを私は見ていて、服ならもっとちがうことができるのにな、と残念に思っていたんですけれど。

生きている時代、コンテンポラリー感覚というんだと思うんだけど、そのことが大きいのではないかな。いまコズミックワンダーがそんな方向に向かうというのは。時代の空気や感覚からの要請ではないかと。自分がどう生活していくかということを真摯に考えている人ほど、着る物のディテールまで感じることがあると思うの。三宅さんの時代は、日本の近代というか現代化、産業社会化のあり方に対するアンチテーゼだったわけです。そのときに三宅さんが感じた感覚といま前田さんたちが感じている感覚が、どこかで符号するのかもしれない。それはすごく面白いことだと思う。あらゆることを通過して一巡したこのデジタル時代に、皮膚感覚とか手の感覚とか、それが訴えてくるものとか。その感じ方は30代、40代ならではの敏感な感覚なんじゃないでしょうか。三宅さんもまったくそうだった、と思うし。理屈で日本のものがいいんだ、とかじゃないんですよね、たぶん。生きている時代感覚のなかで選び取っている問題じゃないかなと思います。

——私たちはイッセイさんが出ていらした1970年代のことを皮膚感覚では知らないわけです。その「時代」をつきやぶって出てこられて、いろいろ闘って自由になったという感覚を、私たちも知りたいと思います。

小池 そうね。黎明期という言葉があるじゃない。まったく黎明期だったんだなと思う出来事もありました。世界中がカウンターカルチャーの機運で、ジャニス・ジョプリンとジミ・ヘンドリックスなんかで湧くわけです。その2人が亡くなって、友達がいっちゃったように悲しんで。イッセイミヤケ最初のショーでは皆川魔鬼子さんがすごい絵を描いていますが、三宅さんが考えていたのは着る人の皮膚感覚に密着したものにしたい、ということで、皮膚を覆うだけのジャージの服をつくったんです。

ISSEY MIYAKE タトゥ 1970年作 Photo:Kishin Shinoyama

三宅さんは当時、デザイン界のスターとして登場してきた人だから、周囲の全員が興奮していて。それで繊維会社がスポンサーに入ってショーをすることになったんです。すべての準備が整ったショー当日の朝に「入れ墨は、アウトローのものだから、当社としては同意できない」といわれて驚きました。小さなショーでしたが、そんなこともありました。

既製服や、プレタポルテという言葉が使われだした頃なので、新しい化学繊維の開発についても、ヨーロッパできちんと勉強してきた人がドレスメーカーから現代的な生産体制をつくっていくわけです。当時、一番の希望の星だった三宅さんには、いろんな相談がきていました。産業側からもすごくのぞまれた人材がでてきたという感じでしたね。

(同時代に注目された)高田賢三さんの魅力というのは新しい素材をつくるというよりも、すでにあるものの、みちくさのひとつも美しいということを気づかせてくれたということでした。「千代紙のハンティング」は、私も手伝いました。60年代までの勢いのなかで、みえなくなっていた日本の良さをテーマにしたい、という気分はいっぱいあったの。それも、いまと共通しているかもしれませんね。いまなにかをつくろうとしている人たちが探す領域というのが、過去の遺産というのかな。あまりにも酷く荒廃した、めちゃくちゃな政治経済の時代だから、いまのほうが周囲を見渡して新しい価値を見出そうと切実かもしれないわね。いまはトランプがばかなことを言ったり、北朝鮮がどうとか、すごいじゃないですか。60年代のはじめは、マイナス要素を数えなくてよかったんです。朝鮮戦争が1954年でしょ、それが終わってからはわりと前向きに考えられる時代ではあったわね。

——最近のファッションには、リサイクルや古着のリメイクという行為が含まれているものがずいぶんふえています。

小池 最近は、「形」とか「素材」といったものが服に関してはあまり、欲求されていないのかな? すでにあるものをあらためて生かすというリサイクルやリメイクということはとても好きだし、大事なんだけど、本当のリメイクというのはどういう方向なんだろうな、ということは見極めてみたい気がします。三宅さんがその分野では一番の繊維会社と組んで再生ポリエステルを使用したものづくりをはじめたときの熱意というのはすごかった。最近のリアリティラボのお仕事なんかをみていても。それに匹敵するようなリサイクルというのは、あまり見ていないと思う。

ISSEY MIYAKE No.1, 2010年作 Photo: Hiroshi Iwasaki

古着に対する目が一番早かったのは、ビートルズが出る前のロンドンのキングスロードの人たちだったと私は思うんです。それしかない、という貧しさもあったし、大英帝国崩壊で立派な銀行の建物なんか遺されちゃってどうするのというかんじのイギリスで、街にたむろする人が古着を着てキングスロードに出てきた。それが私の原点といえます。服に想いがでてくるということがあるんだな、と思いました。

——『イッセイさんはどこから来たの?』の中で1978年に平凡社から出た『イッセイ・ミヤケ:イースト・ミーツ・ウエスト 三宅一生の発想と展開』という書籍が紹介されています。East Meets Westというタイトルはティナ・チャウさんがつけた、とありましたが日本人にとっての和装から洋装化の問題というのはつねに大きなことですね。

小池 いろんなタイトル案は立てていたのですが、そこにEast Meets Westも入れていたの。三宅さんの仕事がまさにそうですよね。当時からその言葉は何度も使われてきた言葉で、明治の開国以来それはずっとそうだと思うんです。でも60年代の終わりから70年代に出てきたファッションデザイナーの仕事は、まさにそうだった。

『ISSEY MIYAKE East Meets West 三宅一生の発想と展開』 本の撮影: Yasuaki Yoshinaga

——小池先生のお仕事は多岐にわたるのですが、とても生き生きとしたお言葉で三宅さんや同時代のクリエイターやアーティストをみてこられ、アーカイブを行ないかつ発信されるという存在の方って、ますますこれからの人たちのあいだにも重要な存在となっていくと思います。より重要性をましていくというか。

小池 そうかしら。本人は夢中で。発想するにしても、書くにしても、かためていかなきゃというときに、アーカイブはどうしてもくっついてくるの。だからちょっとした原稿でも、Wordで書き出したのを置いておいて、左のはじっこに検索したのを見たりします。昨日も原稿かいていてそうだったの。やっぱり、ひとつの言葉でも、それが生まれた時期とか、背景とかを点検する、というくせがずっと続いていますね。

——ソビエト連邦時代のモスクワで1984年に開催された「日本のデザイン——伝統と現代」という展覧会でキュレーションを担当された小池さんが会場の様子を見られて「価値観の転換を衣服がはじめるということがあり得ると思う気持が湧き、私は鉄のカーテンの向こうの反応を三宅本人に伝えたいと思った」(『イッセイさんはどこから来たの?』)というくだりが非常に印象的でした。

小池 そうね、そのとき一番大きかったのは社会体制の違いよね。出張ひとつも大変なのよ。ホテルと美術館とそれをつなぐバス、その3カ所しかいられない。ホテルの部屋も盗聴されているから部屋も移れない。闇市に生野菜を買いに行くにも、英語の通訳を説得しないといけなかった。体制の違いほどフロンティアを感じることはない、ということですよね。ベルリンのチャーリーポイントを通るときもそうなんですけど、自分がこっち側でもっているものを向こう側の人がどう見るかというのは、ドキドキなのよ。西側の原発反対の会にいってもらったチラシを車のなかにいれていたのを、チェックポイントでどう彼らがみるのか、とかね。モスクワでの展覧会ではイッセイのスイムウェア、ボディウェアを見せるためのマネキンを逆さまにしていたら、「間違っている」と美術館の人が言うんです。「いや、あれでいいんです」と言ったりね。もしも、行けるのであれば、私も北朝鮮にいって「こうなのよ」と言いたい(笑)。それはやっぱり、私たちが言論統制のなかにいた時代だったから。もっと世の中を、世界をしらないと。いまの体制のなかでは、間違ってしまうよ、ということがある。でもすごく自由な国の人からしたら、日本もそう言われるかもしれない。

イッセイさんはどこから来たの?