Love Simon

誰がクィアの物語を書くべきか?

ヤングアダルト小説に一波乱ありそうだ。AIDS問題を扱ったある小説が、いまアメリカで議論を呼んでいる。

by Alim Kheraj; translated by Aya Takatsu
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maj 30 2018, 11:20am

Love Simon

自分がクィアのYA(ヤングアダルト)小説のファンであることを恥じたことはない。2012年の研究によると、YA作品の55%は成人が購入しているという。これを見るかぎり、10代後半の少年少女に向けて書かれ、売り出されている作品に魅了されている大人は、私のほかにもたくさんいるようだ。

「ヤングアダルト」というと、魔法の女王や陰鬱な科学者が登場したり、三角関係(吸血鬼や狼男も巻き込まれる)が描かれるといったイメージが強いかもしれない。しかしここ数年、YAの表現が多様化し、インクルーシヴ(包括的)になってきている。その変化はLGBTQの登場人物に特に色濃く表れている。2017年だけでも、バイセクシュアルやアセクシュアル(無性愛)、性的なアイデンティティを獲得することの難しさを描いたYA小説が出版されている。今年は、ベッキー・アルバータリの『サイモンvs人類平等化計画』が、大手映画制作会社による初のゲイ青春映画『ラブ、サイモン』として映画化された。クィアのYA業界はまさに花盛りだ。

そうしたキャラクターの多様性は発展しつつあるが、市場の状況はまた別問題だ。実際、売れたLGBTQ小説の多くはシスジェンダーによって書かれており、ストレートの女性であることも多々ある。先週、YA作家ヘレネ・ダンバーの新作が出版社に買われたというニュースを聞いて、そのことが頭に浮かんだ。この『Blood Makes Noise』という小説は、1983年のニューヨークを舞台にした物語である。主人公は16歳のゲイ、マイケル。迫りくるAIDS危機のなか、「情報は乏しく、噂だけが豊富にあり、セックスと恐怖心が結びつく」時代に育っている。

「この本に向けた辛辣な批評を理解するには、今のYAがもつインクルーシヴ(包括性)への熱狂と献身を知ることが必要だ」

ヘレネの小説は、LGBTQ小説が次のステップを踏み出すための鍵ではないだろうか。AIDS危機を扱ったYA小説があったとしても、片手で数えられるほどだろうし、セクシュアリティのバランスを取りながら、敵意と恐怖に満ちた時代で育つゲイの少年の視点で書かれたものは、私が思いつく限りほかにない。しかし、だからといってヘレネの小説が発表されたとき、誰もが手放しで賞賛したわけではない。

「シスの白人女性が書いた、1983年のAIDS流行を16歳のゲイの少年がナビゲートするという発表されたばかりの本について、Twitter上のYAファンのあいだで大きな議論が起こっている」YA作家で歌手でもあるサイモン・カーティスは、こうTwitterに書いた。「つまり、またもやゲイの少年モノという“流行”に乗っかって利益を得ようとする女性作家の話というわけだ。YAを書いてる本物のゲイ男性は二の次みたいになってるっていうのに」

「この本に関わっている人はみんな、恥じるべきだ」ジェイ・エリオット・フリン(Jay Elliot Flynn)はそう書いている。「AIDSが流行した時代のゲイ男性についての物語で利益を得る女性は卑劣だし、僕はこの企画が白紙になればいいと思う」
この本に向けた辛辣な批評を理解するには、今のYAがもつインクルーシヴ(包括性)への熱狂と献身を知ることが必要だ。これは2015年に始まったYAにおける“オウン・ボイス(自身の声)”を主張したキャンペーンに端を発している。そのコンセプトは非常にシンプルだ。それは、マイノリティの視点でものを書く主流派(マジョリティ)の作家ーーシスジェンダー、男性、ストレート、白人、健常者ーーではなく、多様性のあるキャラクターを描いた多様性を持つ作家の作品を応援しようというもの。ここ5年でこの議論は激しさを増し、今その矛先はすべてヘレネ・ダンバーに向けられている。

「ストレートの人がゲイの物語を語るとき、その物語はほとんどいつも“ストレート目線”でストレートの読者に向けられている」レヴ・ローゼン

YA作家アダム・サス(Adam Sass)の目には、ヘレネの本の発表は、男性×男性の小説を書くシスの女性が、自らの著作を“オウン・ボイス”の作家たちより優れているとする潮流の一端と映った。「本はよくリサーチされているのだと思うし、ヘレネも素晴らしい作家だけど、何かが欠けたようなものになっているんじゃないかな」と彼は言う。「オウン・ボイス・コミュニティの一翼を担っておらず、“ゲスト”という立場でそのコミュニティについて書くのであれば、見落としがちな点についてかなり配慮し、こう自問しなければならない。このことについて自分は書くことができるだろうか? もちろん。でも書くべきなのだろうか?」

今年『Jack of Hearts and Other Parts』を刊行するゲイのYA作家レヴ・ローゼン(Lev Rosen)は、非当事者がクィアの物語を書くこの流行は、善意に基づいているのではないかと見ている。「しかし、ものを書くとき、最初の読者は作者自身なんです」と彼は付け加える。「だから、ストレートの人がゲイの物語を語るとき、その物語はほとんどいつも“ストレート目線”でストレートの読者に向けられている。当事者の多くは、その点を居心地悪く感じます。YAのなかで、私たちの物語はいまだ語られていない。まだ足がかりを得たところではありますが、すでにストレートの人がやってきて『まずは私にこの物語をストレートの読者に向けて語らせなさい。そのあと、今度はあなたがゲイの読者に向けて語っていいから』と言い出しそうな気配があります。そのあいだにも、私たちは自らの手で自分たちの物語を書きたいと思っているにも関わらず。

シスの(その多くはストレートの)女性たちがゲイの物語を書いたり出版しているのには、歴史的な背景もある。70年代の二次創作コミュニティにおいて、スラッシュ・フィクションーー同性(通常は男性)の登場人物ふたりが、二次創作上で性的もしくは恋愛関係にあることを描いたフィクションーー作家の多くは女性だったのだ。1991年の『Enterprising Women: Television Fandom and the Creation of Popular Myth』で、著者のカミーユ・ベーコン=スミスは、女性の欲望や性を抑圧しがちな家父長社会において、女性はホモセクシュアルの小説を書くことで、自分自身を性的、そして感情的に表現することができるのだと論じている。スラッシュ・フィクションのような大人の恋愛小説もまた、同様の表現を可能にした。YAというジャンルもまた、それと非常によく似ている。恋愛、特に恋愛コメディが十八番のテーマだからだ。そしてそれは、男性×男性の恋愛ものを書く(そして読む)女性の数が多いということでもある。

「この状況を変えようと奮闘しているエージェントや編集者はたくさんいます。変革のときが来たと言わざるをえないでしょう。でも、もっと早い変化が必要です」コソコ・ジャクソン

しかし、デビュー作『A Place for Wolves』が来年刊行予定のコソコ・ジャクソン(Kosoko Jackson)は、YAが他のジャンルと異なる点を指摘する。「YAは他のジャンルにはない、固有の役割がある。それは害がないということです。YAはときに若者にとって、自分自身が表現される最初の媒体となります。ヤングアダルトが“窓と鏡”と呼ばれる所以ですね」。コソコが言うのは、非当事者(非オウン・ボイス)によるマイノリティ小説が突出し、しばしば優先されると、オーセンティックで忠実に表現された作品が重要ではないと考えられてしまうということだ。「これは問題です」と彼は言い添えた。

出版界もまた、ビジネスとしてのプレッシャーにさらされている。この3人の作家と話すことで明らかになったのは、マイノリティを題材にした物語に対する出版社やエージェントの無知だった。「出版界では、過去に出版されたほかの作品とあまりにも似ているという理由で、契約が破綻するケースがあるんだ」とアダムは言う。「だからヘレネの本は、ゲイやクィアの人たちが似たような題材についてこれから書くであろう小説とはぜんぜん違うとみんなが思うような状況をつくり出すんじゃないかな」

3人の作家は全員、女性×女性のYAよりも男性×男性のYAのほうが多いと話した。また、トランスジェンダーについての物語や、障がいを持った人たちに関する小説はとても数が少ないのだという。有色人種、特にクィアの有色人種が出てくる多様な作品も、同じようにもっと書かれてしかるべきだ。「この状況を変えようと奮闘しているエージェントや編集者はたくさんいます。変革のときが来たと言わざるをえないでしょう」とコソコは話す。「でも、もっと早い変化が必要です。ほかの本を買うことを正当化するために“状況を打破する本”をただ待っているべきではない。その打破する本が15年出版されなかったらどうしますか? そのあいだに、出版社が言うところの“予算的に実現不可能”を理由に、どのほどの子どもたちが自分自身を投影できずに育っていくでしょうか。誰もが自己投影する権利を持っているはずです」

小説の出版発表とそれに対するネット上での批判があってから、私はヘレネ・ダンバーとコンタクトをとることができた。私が送った質問に彼女は答えなかったが、手紙のようなものを送ってくれた。そのなかで、彼女がAIDS危機の最中に育ったこと、『Blood Makes Noise』は自身の経験を踏まえたものとなると説明した。また、当時の活動家たちを取材し、そのリサーチも「入念に裏を取った」という。

「意見をとても重く受け止めていますし、自分自身の個人的な経験以外のことを書くことが、さらなるリスクをともなうのも理解しています。ですが、時間が経つうちに、私自身のジェンダーやセクシュアリティではなく、語り口や登場人物、リサーチやメッセージなどでこの本が評価されるようになればと願っています」と彼女は記している。「また、歴史上じゅうぶんに受け入れられず、過小評価されてきた多くの声を小説にするというのは、議論されるべき題材だということも、それが実現するまで続けられてしかるべきということも理解しています」

湧き上がっている議論に関して、ヘレネは責めを負うべき対象ではない。彼女の小説が経験と思いやりに基づくものだというのは明白だ。今回クィアのYA作家と読者が始めたのはーー彼らはほかの業界の人間だからーー、自らのためにさらに要求し、支持を強めるということだ。他業界でのこうした議論と同じく、当事者でないものがクィアの小説を書いてはいけないという決まりをつくるべきではない。そうではなく、アダムが言うように「オウン・ボイスだけではない、より多くのオウン・ボイス」こそが必要なのだ。「彼らにはぜったいそういう小説が書けないとは決して思わない」とレヴも賛同する。「でもその一方で、LGBTQ作家に、最初にそれを書くチャンスを与える必要があるとも思います。なぜなら今、編集者や出版社は、そんなこと考えていないように感じられますから」

YAが人気を博しているのは、それが若い人たちだけでなく、大人にも“窓と鏡”を提供するからだ。だからこそ、読者にとってその作品がとても個人的なものとなる。コミュニティの人々がこれほど表現やオウン・ボイスにこだわるのも、こうした議論が感情的になってしまうのも、それに由来している。なぜならそれが事実だから。ほかのエンターテインメント業界と同様に、出版界もまた目を覚まし、クィアの人たちがいて、彼らには語るべき物語があるのだということに気づく必要がある。

This article originally appeared on i-D UK.