Photography Drew Carolan, from Matinee: All Ages on the Bowery.

アヴェドンと撮影旅行をしながら、NYのスキンヘッズを撮り続けた男:ドリュー・キャロラン

1980年代初頭、ハードコア・パンクシーンを生んだライブハウス〈CBGB〉に集まっていたスキンヘッズたち。彼らは今でも珍しい多様性のあるコミュニティを形成していた。

by Emily Manning; translated by Aya Takatsu
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maj 25 2018, 11:12am

Photography Drew Carolan, from Matinee: All Ages on the Bowery.

ドリュー・キャロラン(Drew Carolan)は、初めてスキンヘッズを見たときのことを鮮明に覚えている。1981年秋、ある火曜の午前2時半のことだった。イーストビレッジのアベニューAを歩いていると、トンプキンズ・スクエア・パークの外に数人のスキンヘッズを見かけた。「14歳か15歳くらいのスキンズが、休み時間みたいな感じで、ゲラゲラ笑いながらフリスビーをしていたんだ」と、キャロランは話す。「『あいつらは何者なんだ? かっこいいな。写真に撮らせてもらいたいけど……どんな風に撮れば、あの魅力を写せるだろう?』と思った」。現在のスキンヘッズは極右思想や人種差別主義を想起させるが、1980年代初頭に現れたニューヨークのスキンヘッズはそのような思想や主義とは無縁だった、とキャロランは強調する。

それから2年間、キャロランは考え続けた。どのように彼らを捉えれば良いのか? その答えはなかなか浮かばなかった——地元を離れ、ニューヨークを離れるまでは

1983年初旬、26歳のキャロランは、人生を変える旅に出た。後に写真の歴史においてもっとも重要な作品と位置付けられることとなる写真シリーズ『In The American West』の撮影に、リチャード・アヴェドンから直々に誘われたのだ。それから数年、夏の間だけ、キャロランはアヴェドンとともに車での旅に出ることとなった。

最初の撮影旅行から戻ったキャロランは、イーストビレッジに新たらしいスキンヘッズがいることに気づいた。彼らは、バワリー・ストリートにあるライブハウス〈CBGB〉の外にたむろしていた。その10年前、ザ・ラモーンズ、ブロンディ、テレヴィジョン、そしてパティ・スミスをはじめとする多くのアーティストを輩出し、ニューヨーク・アートパンクのシーンの震源地となった〈CBGB〉。時代が80年代へと突入するころには、入ることすら難しい人気のスポットとなっていた。〈CBGB〉は土曜の昼間に、その後「ハードコア」と呼ばれる新たなパンクに共鳴する若者たちに向けた、年齢制限なしのショーを開催していた。

マンハッタンを中心としたニューヨーク近郊から、スキンヘッズ、ピースパンク、家出少年少女たちが、毎週末〈CBGB〉に集まった。アグノスティック・フロント、クロ・マグス、マーフィーズ・ロー(Murphy’s Law)、レーガン・ユース(Reagan Youth)、セヴン・セカンズ(7 Seconds)、マイナー・スレットをはじめ、多くのバンドが、そんな若者たちから支持を得て育っていった。その音楽こそ暴力的ではあったが、ハードコア・パンクは活気あるサブカルチャー的生態系を作り出していった。
キャロラインは〈CBGB〉の近くにあるビルの壁に大きな白い紙を貼って(アヴェドンが用いた撮影手法)、〈CBGB〉の公演に駆けつけた若者たちを撮影した。

「ありのままが撮りたいと思ったんだ。だって、彼らは17歳だよ。自信過剰で当然。傷つきやすく、猜疑心でいっぱいで当然なんだ。僕にとって、それはとてもリアルな感覚だった。僕自身も若いころはそうだったからね」

経験から生じる同情の念が、彼のポートレイトを特別で生々しいものにしている。そこには生(せい)が、感受性が、反逆の精神が、そしてシーンを作り出した圧倒的なコミュニティ感覚が感じ取れる。撮影から30余年を経て、キャロランはそれら写真を集め、写真集『Matinee: All Ages on the Bowery』を作り上げた。「素晴らしい」のひとことに尽きる——歴史に残る傑作写真集だ。

——写真に興味を持ったきっかけは?

14歳のころだったと思う。小遣い稼ぎに、モデルの仕事を始めたんだ。ある日モデルの仕事で、エディトリアルの撮影現場にいた。そこでカメラマンと音楽の話になったんだ。僕はもうすぐ16歳で、当時いろんなライブを見に行っていたんだ。そんな話をしていると、カメラマンが、ザ・キンクスやロッド・スチュワートの撮影をしたことがあると話してくれた。それを聞いて、「こういう仕事もしながら、バンドの写真も撮れるならやりたい」と思った。そのカメラマンというのが、ブルース・ウェーバーだったんだ。

ブルースはすごく良いひとだったよ。「アシスタントはいればいるほどいいぐらいだから、興味があればいつでも連絡をくれ」と、電話番号をくれた。それからほどなくしてうちがロングアイランドに引っ越してしまったんだけど、高校を卒業するまでの2年間、僕は彼の電話番号をとっていた。ロングアイランドの高校にはアートに夢中な先生たちがいて、その先生たちに教えてもらいながら写真を始めたんだけど、すぐに夢中になった。高校卒業後は、ニューヨーク州立大学で写真を学んだ。大学を卒業した後は、フリーで写真家のアシスタントをやるようになって、80年代初頭にやっとブルースのアシスタントになり、1年間働いた。

——リチャード・アヴェドンとの出会いについて教えてください。

友達にアヴェドンのアシスタントがいたんだ。そいつが「Versaceの広告キャンペーンをやってるんだけど、お茶汲みやら雑用やらをやるアシスタントを急募してる」と言うから、飛びついた。キャンペーン写真撮影で2週間ほど働いたよ。すごく楽しかった! 撮影が終わってしばらくしたころ、アヴェドンの事務所から連絡があって、「フルタイムで働けるアシスタントを探してるんだが、君、興味ある?」と。

フルタイムでアシスタントをやるよりも、ウェイターやフリーのアシスタントとして仕事をしているほうが稼ぎは良かった。でも、彼らが「アヴェドンは、『In The American West』という写真集の撮影で、これから3年間、夏の間だけ、アメリカ西部のハイウェイを旅して回る」と教えてくれて、彼のアシスタントにつくことを決心したよ。僕にとっての「西」は、ブロードウェイの向こうにある世界でしかなかったんだから! あれは人生を変えるほどの体験だった。本当にね。夢のようだった。

1983年のとある土曜、僕は〈CBGB〉の前を通った。そこには、真昼間からスキンヘッズの若者たちがたむろしてた。〈CBGB〉が週末の昼間にハードコアのライブをやっていたんだ。僕はライブに向かうスキンヘッズたちに声をかけて、写真を撮らせてもらおうと思った。〈CBGB〉にはよく行っていたし、高校も近所にあったからこの場所をよく知っていた、何より彼らが僕と同世代ということに惹かれた。アヴェドンと写真集のため撮影で一緒に仕事をしたからこそ、自分が作りたいものを見つけることができた。

——当時のNYのハードコアのコミュニティについて教えてください。

僕が〈CBGB〉で彼らに出会ったとき、それはまだ生まれたばかりだったね。ショーは2時半とか3時から始まって、5時半か6時ぐらいには終わっていた。入場料が3ドルで、3組ほどのバンドの演奏を見ることができた

撮影初日は、ひとりで、巨大な白い紙を持っていった。それをブリーカー・ストリートの建物の壁に貼って、その前でたくさんの写真を撮ったよ。撮った写真を現像したとき、「この方向性で撮り続けよう」と思った。そこに集まっていた若者たち、彼らが存在で訴えていたものにどうしようもなく惹かれたんだ。パンクじゃなく、ハードコアだった。彼らには強い主張があった。

——当時のCBGBで、人種差別主義を目の当たりにしたことはありましたか?

僕がCBGBに出入りしていたころあそこにいたスキンヘッズのやつらは、みんな素晴らしいやつらだったよ。見た目こそ怖いけど、そこには一体感があった。アグノスティック・フロントは「There’s no justice, there’s just us. We need justice for all of us.(正義なんてない。ここにあるのは俺たちの存在だけ。俺たちに必要なのは、俺たち全員にとっての正義)」と歌ってた。そういう結束感があったんだ。CBGBは、色んな場所から、色んな経験をしてきた、さまざまな若者が集まる、真のメルティングポット(人種や文化のるつぼ)だった。そんな場所に、人種差別主義者のスキンヘッズが入ってこれる余地はなかったね。

——写真集は、白人男性ばかりが被写体の写真集だろうと信じて疑わなかったんですが、そこには女性も有色人種もたくさん捉えられていますね。当時のNYハードコアのシーンにあった多様性について聞かせてください。

NYのような人種のるつぼは他にないからね。ここには黒人もいればアジア人もいて、プエルトリコ人もイタリア人もポーランド人もいる——男も女も、ゲイもストレートも、まだ自分のセクシュアリティに戸惑っている若者もいる——それが当時のハードコア・シーンだったし、それこそあのシーンの素晴らしさだった。何もかもが違う若者たちが集って、共鳴できる場所だったんだ。

——レーガン政権下アメリカは、子どもたちにどのような影響を与えていたのでしょうか?

保守派共和党が政権をとっていた時代、若者たちは、本気で闘い、叫び、主張しなければならなかった。もし他の候補者が大統領になっていたら、あんな力強いハードコアのシーンは生まれていなかっただろうね。

——本の中で、巨匠ロバート・フランクに「失せろ」というようなことを言ったと書いていますね。

1984年の2月のことだったと思う。僕は〈CBGB〉の若者たちを連れて、撮影場所でアシスタントをやってくれていた友人トムと撮影の準備を進めてたんだ。そこへ、ビデオの撮影機材を持った男が現れた。汚い格好をした男で、向こうの道に座り込んだ物乞いを撮影したりしてた。気づいたときには、僕の後ろからスキンヘッズを撮影をし始めてた。僕はトムに目配せして、「あいつを追い払ってくれ」と言ったんだ。トムはその男を道の向こうへと連れていき、僕たちの撮影場所にもう一度近づいたらボコボコにしてやるって脅した。

撮影を終えた僕たちは撮影機材を片付けていた。そこへ、例の男が近寄ってきた。しわがれた声で、「アウグスト・ザンダー風だな」と言われて、僕は「アウグスト・ザンダーの名前を知ってるなんて、こいつ、誰だか知らないけど写真のことをある程度わかってるやつだな」と思った。すると彼はこう言ったんだ。「わたしはロバート・フランク。わたしはここに30年も暮らしてるから、指図なんて受ける筋合いはないんだよ」

後に、僕が彼を見た目で判断してしまったように、ひとびとはスキンヘッズの若者たちを判断していたことに気づいた。見た目がみすぼらしいからということで、僕はロバート・フランクに対して不敬を極めたことをしてしまった。スキンヘッズたちは、見た目こそ攻撃的だったけど、彼らはそれを通して独自の主張をしていた。ひとはどうしても見た目でひとを判断してしまいがちだけど、その奥には、見た目ではけっして計り知ることのできないものがあるんだよ。

This article originally appeared on i-D US.