ガスライティング、ゲートキーピング、ガールボスの本当の意味とは?

インターネットが意味を変えてしまった3つのバズワードから、安易なネットミームがはらむ危険を考える。

by James Greig; translated by Nozomi Otaki
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17 August 2021, 1:00am

2021年、誠実な対話の場としてのインターネットは、急速に失われつつある。〈ガスライティング、ゲートキーピング、ガールボス〉というミームがネットを席巻しているのだ。みんなに嫌われている格言〈生きる、笑う、愛する〉をもじったこのミームの発端は、今年1月のTumblrの投稿だった(ちなみに〈ガスライティング〜〉ほど広まっていないが、その前にも〈操る、上から目線で説明する、メールワイフ(※しばしばガールボスとともに使われる、女性パートナーに追従する男性を指す言葉)〉というミームが存在した)。この言葉はいったい何を意味するのだろう?

今年7月のVoxの記事は、後半のふたつの言葉は少なからず真面目な意味で使われることを踏まえ、このミームはガールボスの典型への文化的反論なのではないか、と論じた。すなわち、ガスライティングとゲートキーピングは、ガールボスであることと切っても切れない関係にある、ということだ。

 いっぽう、Refinery29の記事は、このフレーズは「着実に前に進み、いかなる犠牲を払っても進歩し、何があっても回転を止めない歯車のひとつになることへの圧倒的なプレッシャーに反対するミーム」であり、「そもそも女性が今の地位を獲得したのは、この飽くなき成長と〈進歩〉への貪欲さのおかげではないかのように(思わせられる)」と指摘する。私は、どちらの主張にも完全に納得したわけではない。一般的に、ミームとは教訓的というより不条理であり、理路整然とした主張を明示するものではない。そして何より、ガスライティング、ゲートキーピング、ガールボスは適当にバズワードを並べただけであり、だからこそ面白いのだ。このミームからガールボスという言葉に飽き飽きしている感じが伝わってくるとしても、ゲートキーピングやガスライティングにも同じことが言える。どちらも、インターネットという言説の道具によって、無意味な言葉へと矮小化されてしまった便利な概念に過ぎない(Voxの記事も指摘するように、「ガスライティング、ゲートキーピング、ガールボスは、どちらかといえば私たちが呆れるほど熱狂的にバズワードの流行に飛びついていることを示す皮肉として機能している」)。

この3つの厄介なバズワードの歴史を振り返りながら、インターネットがいかに言葉の意味を変えてきたかを考えてみよう。

 ガールボス

2014年、オンラインショップ〈Nasty Gal〉の創設者、ソフィア・アモルーソ(のちに自伝も自身のメディア企業と同じく#Girlbossと命名)が生んだこの言葉は、瞬く間にひとつの文化現象へと成長した。最初のうちは誰もが真に受けていたが、この言葉が真面目さや憧れをもって使われていたのはずっと前の話だ。かつての信奉者ほぼ全員が、この言葉を見捨てたのも無理はない。そもそも時代の思想にどっぷり浸かり、文化の流行を真っ先に取り入れることが、ガールボスの必須条件なのだから。

今では冷笑的な意味で使われることがほとんどだが、なかには自虐的な方法で肩書きを変えようと奮闘している元ガールボスもいる。そういう意味では、この言葉は新たな〈ベーシック〉といえるだろう。彼女たちが自分について使う、ネガティブな含みを持たせた言葉だ(Instagramで#girlbossというハッシュタグをクリックすると、真面目な意味合いで使っているユーザーもそれなりにいるが、いわゆるリア充ばかりなので、この記事で論じるべき対象ではない)。

ガールボスという言葉は、すべての過ぎ去った流行がそうであるように、ほぼ死んだも同然だが、この言葉が誘発した嫌悪感は、多くのひとが表象の政治学にうんざりしていることを証明している。個人の成功体験をより広義的な解放に結びつける考え方に懐疑的になる女性も増えている。Nasty Galや女性限定の会員制クラブ〈The Wing〉(両者とも長年にわたる有害な労働環境を批判されている)など、さまざまな女性主導の企業が物議を醸したことで注目を浴び、結果として、女性資本家は男性資本家と同じくらい搾取的で冷酷なのではないかという疑念を強めることとなった。

ガールボスは、表象の薄っぺらい政治学や個人のエンパワメント重視などの特徴を持つ〈ホワイト・フェミニズム〉や〈リベラル・フェミニズム〉と複雑に絡み合うようになった。近年ますます時代から取り残されつつあるこのフェミニズムの流派は、過去5年間、多くの著名な批評家に論じられるとともに、『Obnoxious Broads』や『Insufferable Dames』といったタイトルの、要らないクリスマスプレゼントの典型のような本によって矮小化されてきた。

リベラル・フェミニズムは今もそれなりの人気を保っているかもしれないが、ポジティブな意味合いで使われることは稀だ。この言葉に賛同する人びとにとって、ガールボスとはただのフェミニズムに過ぎない。ただ、ガールボスは著しく減少しているにもかかわらず、彼女が広めた企業的なイデオロギーは今なお健在だ。

 例えば、ホーム画面のアプリのフォルダに、〈私は生産的〉〈私は教養がある〉〈私は金持ち〉などといった自己肯定的なタイトルをつけているこのCEOのバズツイートを見てほしい。ここに〈私はガールボス〉〈私はゲートキーピングする〉〈私はガスライティングする〉のフォルダも加えるべきだろう。

 

ガスライティング

次は、ガスライティングに移ろう。ガールボスと違い、これはもともと単なるバズワード以上の意味を持つ言葉だった。夫が妻の現実認識を変えることで狂気に追い込んでいく、1938年のパトリック・ハミルトンによる戯曲『ガス燈』から名付けられたこの言葉は、特定の精神的虐待を指す言葉として、長年一般的に用いられてきた。

個人的に、ガスライティングとは現実の問題であり、このような行動パターンを正確に表す言葉があるのは良いことだと思う。しかし、いわゆる〈這い寄る概念〉によって、この言葉はより多くの行為に当てはまるように変化していった。今となっては、嘘をつく行為全般を指すこじゃれた表現となり、その対象も個人的な人間関係から公の場へと広がっている。

 この傾向を示す最も顕著な例が、「ドナルド・トランプが米国にガスライティングを行なっている」と題され、大いにバズった『Teen Vogue』の記事だ。しかし、彼は本当にガスライティングをしていたのか? それとも、ただ嘘をついていただけなのだろうか。

確かに政治家の嘘というのは非常にタチが悪いので、ガスライティングは適切な表現に思えるかもしれない。しかし、ほとんどの場合、彼らはただ自らの不正に対する罪悪感に苛まれているだけに過ぎない。そもそも嘘をつくこと自体、公務員にはふさわしくない性質だ。それをあえて大げさに表現する言葉など、私たちには必要ない。誇張することで、この言葉がもともと指していた行為の意味合いが弱くなってしまう。

もし私自身が今、私生活で本来の意味でのガスライティングを受けているとしたら、この言葉の使い方には慎重になるはずだ。今のこの言葉には、若干バカらしい響きすらある。もはや取り返しがつかないところまで来てしまった。もう元通りになることはないだろう。ガスライティングという言葉は、数多の限度を超えた解説記事に殺されてしまったのだ。

 

ゲートキーピング

ゲートキーピングは、おそらくこの3つの中では最も認知度が低いが、ガスライティングと同様、ある重要な物事、というより複数の重要な物事を指している。英国では住宅用語であり、法的義務のある自治体がホームレスの人びとへの宿泊施設の提供を拒否することを指す。トランスの人びとにとっては、医療的ゲートキーピングとは、思いやりがなく妨害的な第三者を通さなければ必要な医療を受けられないことを意味する。これは深刻な抑圧であり、医学界におけるファットフォビア(肥満嫌悪)にも関連している。

 もっとカジュアルな使い方としては、誰かの趣味を見せかけだと決めつけ、同じ趣味の仲間を取り締まる迷惑な行為を指す。最も典型的な例は、NIRVANAのTシャツを着ているひとに突進していって好きな曲を3つ挙げろと迫ることだが、私の個人的なお気に入りは、英国の議員ジェレミー・コービンが『ユリシーズ』が好きだと発言したとき、誰かが彼にクロース・リーディング(※文章を1節ずつ詳しく解釈すること)で勝負を挑んだことだ。

 しかし、ガスライティングと同様、ゲートキーピングも〈這い寄る概念〉の犠牲となり、今ではあらゆる中傷的なコメントに使われるようになってしまった。例えば、攻撃的ではなくても大衆文化に賛成しない意見を表明すれば、ゲートキーパーとみなされる危険がある。

かわいそうなマーティン・スコセッシ監督が、マーベル映画をテーマパークの乗り物にたとえる(あながち間違いともいえない)発言をしたときに受けた反発を思い出してほしい。監督は誰も排除していないにもかかわらず、何が本物の映画で何がそうではないかを〈ゲートキーピング〉している、と非難された。

ガスライティングとゲートキーピングは事実上、〈自分の気に食わないことを言う誰か〉を指す言葉として定着してしまった。言葉の意味は時代とともに変わるもので、その変化は必ずしも悪いことではないが、今回の例では、かつて価値のあったふたつの概念の効果が薄められてしまった。私たちは、SNSに汚される前のゲートキーピングとガスライティングに当てはまる言葉を、新たに考案しなければならないかもしれない。

言語学者のグレッチェン・マカロックは、著書『Because Internet: Understanding the New Rules of Language』でこう述べた。「ミームをつくり、共有し、笑うことは、内部関係者としての権利を主張することだ。自分はインターネットカルチャーの一員である、これが理解できないならあなたは仲間ではない、と」

誠実な対話から生まれた言葉を使ってミームをつくることは、たとえほとんどの一般人には理解できないとしても、流行が時代遅れになったことを示すサインだ。ひと足先に何かが陳腐になったことに気づくことは、それ自体がある種の文化資本なのだ。

しかし、どんな言語でも、あまりにも早いスピードでバカげた軽口へと矮小化されてしまうと、その過程で何かが失われるリスクが生じる。あらゆる流行語は、その本来の意味がどれほど有意義でも、もしくは取るに足らないものでも、同じ運命をたどることになる。絶え間なく激しく変化し、結局は同じことを繰り返し続けるインターネットによって食いつぶされ、吐き捨てられるのだ。

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