人口減少と微かな光:平野啓一郎【来るべきDに向けて】

「dwindle」という聞き慣れない英単語を手がかりに、小説家・平野啓一郎が来るべき日本社会のありようを示す。

by Keiichiro Hirano; photos by Kikuko Usuyama
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12 May 2021, 6:00am

坂本龍一とGotchが中心となり発足したオルタナティブ・プロジェクト「D2021」。震災(Disaster)から10年(Decade)の節目を目前に控えた今、私たちはどのような日々を歩んできたのか、そして次の10年をどのように生きるべきなのか。この連載「来たるべきDに向けて」では、執筆者それぞれが「D」をきっかけとして自身の記憶や所感を紐解き、その可能性を掘り下げていきます。

今回は、『マチネの終わりに』『ある男』などのベストセラーでも知られる小説家の平野啓一郎が登場。

「dwindle」平野啓一郎

コロナ禍は、この一年、私たちの生活に大打撃を与えていて、残念ながら終息はまだかなり先のことのようである。この企画のために、dから始まる何かポジティヴな言葉を考えていたが、頭をよぎったのは、dwindleという単語だった。

『ジーニアス英和大辞典』には、「だんだん小さく(少なく)な(って消滅す)る:縮まる」、「(名声などが)衰える。(品質などが)落ちる。低下する:やせる:重要さを失う」、「~を小さく(少なく)する。縮める。減らす」といった意味が載っている。残念ながら、いい言葉ではない。私は、この気が滅入る単語を、日本の人口減少についてアメリカ人の友人と喋っていた時に知った。珍しい綴りなので、以後、頭にこびりついている。

人間や社会が、これまでとは違った方向に大きく足を踏み出すきっかけは、大体、ポジティヴな動機より、ネガティヴな原因だろう。夢や理想を抱いて、自分を変えようとすることもあるかもしれないが、大抵は尻に火がついて、ようやくのことである。殊にここ日本では、「これまで通り」を続けようとする圧力は凄まじく、それはコロナ禍でも五輪の準備でも嫌というほど目にしてきた。

これはあまり明るくない話だが、まだどうにかなっている間は、実際、やれることもあるのだろう。結果、根本的な変化は先延ばしにされてしまう。しかし、一旦、大きく変わりさえすれば、その後はまたしばらく、それを推し進めることに専念すればいいのである。別段、矢継ぎ早にコロコロ変化し続ける必要はない。

将来の見通しについては、テクノロジーの発展や政治情勢など、見通しは必ずしも明瞭ではない。自動運転や再生医療など、方向性は見えていても、難しいのはテンポ感であり、その間のハンドリングである。

しかし、何が起きるのか、かなりはっきりと分かっていることが少なくとも二つある。一つは地球規模の気候変動であり、もう一つは日本の人口減少である。そして、日本に住む私たちは、後者の条件の下で、前者の困難を克服してゆく術を模索しなければならない。

少し前までは、一部の「意識の高い」人たちだけの抽象的な問題だった地球温暖化は、毎年の酷暑や台風、水害などによって、日本各地に甚大な影響を及ぼすようになった。最近では、グレタ・トゥーンベリ氏の行動や斎藤幸平氏のベストセラー『人新世の「資本論」』などによって、改めてその深刻さを認識した人も多い。彼らが具体的に示すデータは、私たちの想像を遙かに超えて深刻で、ほとんど手遅れに近い印象さえある。それでも、世界の再生可能エネルギーへの大転換やEVシフトの迅速さは、その危機感の中で、要するに、何とかしようとしているのである。その中で、日本が大きく後れを取っていることは周知の通りである。

他方、危機が迫るどころか、現に壊滅的な事故を経験したにも拘らず、政府の原発への執着は止むことがない。これは、逃げ切り世代の開き直り以外の何物でもない。

原発事故の後始末は、私が生きている間には終わらないのではないかと思う。というか、本当にいつか、終わらせられるのだろうか? これもまた、人口減少という現実の中で考えるべきことである。コロナ禍で、昨今は南海トラフ地震や首都直下型地震の話題がすっかり鳴りを潜めているが、福島第一原発クラスの事故が他の原発でも起きてしまえば、精も根も尽きてしまうだろう。

少子高齢化は一つの現実であり、政策的に手を打つべきだが、個人の生活や価値観に圧力をかけるような政策は正しくなく、また、効果も期待できまい。子供を生みたいと感じ、生めると思える人が増えるような社会環境の整備に徹する以外に方法はない。結果的に人口減少は止められないかもしれないが、その条件なりの生存戦略は必要である。外国人労働者頼みという発想も未だに根強く、正当な手続きの移民を拡大することには賛成だが、アジア諸国が今後ますます発展し、賃金が上がり、それらの国でも少子化が問題となれば、低賃金で、技能実習生制度に見るような深刻な人権侵害事例のために悪評を轟かせている日本に出稼ぎに来る人など、早晩いなくなるだろう。

コロナ禍の一つの変化は、ここ数年続いていた「日本スゴイ」という国粋主義的なブームが、遂に完全に終わったことである。何故なら、世界中が同じ一つの感染症への対処を迫られるこのパンデミック下で、日本は涙が出るほど、まったく「スゴク」なかったからである。

私は徒に悲観的になって、絶望を煽っているのではない。それどころか、追い詰められれば、変化を求め、知恵とやる気が出てくるはずだと、楽観的に期待もしている。リモートワークなどは、この十年来、ずっとダラダラと主張されてきたことだが、切羽詰まれば結局やるのである。そのために、東京一強集中が変わるかもしれないという微かな光も見えている。

坂口安吾の『堕落論』ではないが、底に達すれば足場も出来る。課題が多い分、解決策は多いわけで、クリエイティヴィティを生かす領域はかつてないほど大きい。それを阻害する社会制度は必死になって変えていくべきであり、当然に必要なのは政治参加である。

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平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)

小説家。1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作毎に変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在した。著書に、小説『葬送』『滴り落ちる時計たちの波紋』『決壊』『ドーン』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』『マチネの終わりに』『ある男』等、エッセイ・対談集に『私とは何か 「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』等がある。2019年に映画化された『マチネの終わりに』は現在、累計58万部超のロングセラーとなっている。最新作は『本心』(文藝春秋)。