公開から20年:いま『スクリーム』を考える

スラッシャー映画の伝統的展開を逆手にとってホラー映画の新境地を切り拓いた作品『スクリーム』。この映画が後世に残したものを探ってみよう。

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feb 28 2017, 9:12am

2012年、『New York Magazine』誌によるウェブサイト「Vulture」が、映画『ハンガー・ゲーム』評のなかで「なんという世の中」と映画の内容を酷評する理由を「キッズがキッズを次々に殺してまわる様子が実に克明に描かれていている」と説明していた。80年代後期に生まれた私には、その視点がいまいち理解できない。殺人の犠牲者はことごとく未成年で、しかも生きたまま体を引き裂かれ、濾され、首を吊るされ、最悪の場合には、いわゆる"アメリカ男"を体現したようなブロンド愚直男と付き合わされるなど、「10代=死=ハリウッド」というイメージが横行する時代に育ったからだ。「ティーンが残忍に殺される」という内容、そしてその人気は、ポルノ映画の「出演者は全員10代」と同じ類いのタブーなのだと私は考えている。映像に繰り広げられるすべてはフェイクであり、そこに違法性がないことも観客はよく理解しているが、リアルなスリルを感じることができる——ほら、ポルノとホラー映画は同類のタブーのうえに成り立っているのだ。

1990年代から2000年代初頭にかけ、『ルール』、『ラストサマー』、『ハロウィンH20』、『ファイナル・デスティネーション』などのホラー映画が公開され、人気を博した。これらの映画の成功によって、キッズ殺しはあの時代を象徴する映画的テーマにまでなった。『ラストサマー』は、"クラスの人気者"の美しいティーンたちが漁師の男を殺してしまったという過去を主軸に展開される物語で、『インシデント』は「処女」と「殺人」が絡む女性蔑視甚だしいストーリー展開だ。あの時代のホラー映画に共通しているのは、「死」と「バイオレンス」が礼式的に用いられ、いわばストーリー展開の便利な小道具として扱われているという点だ。あるティーンの体はふたつの袋に入れられて親元に送られ、また他のある子の目はまるで思春期のにきびから膿が吹き出すように豪快に飛び出し、別のティーンの女の子はまるで人の体をかたどった浮き輪のように豪邸のプールに浮かぶ——どれも、どこかで見たことがあるような予測のつくカオスの展開だろう。

先でも少しだけ触れた「ポルノ」に関係する話になるが、特にあの時代のホラー映画には多分に、そして公然とポルノ的要素が散りばめられている。登場する男性ティーンたちは映画のエンディングまで一貫してスタジャンを脱ぐことがないが、女性ティーンたちは必ずと言って良いほどピンク色のビキニ姿になったり、ヘソが覗く着丈の短いセーターや、太ももが露わになるスカート、そう、チアリーダー・ユニフォームの黄金比のファッションになったりするのだ。今年公開された『ネオン・デーモン』のなかで、キアヌ・リーブスが「ロリータもの」と呼ぶ世界観だ。そんな女の子たちは、たとえ第1作で殺人犯から逃れ、生き延びることができたとしても、映画の成功に気を良くした制作サイドによって次々に作られる続編のどこかで冷遇されることとなり、『ファイナル・デスティネーション3』を例にとれば、日焼けマシーンの中で焼き殺されるという展開を免れない。神など存在しないのではないかと思わせるに十分な展開が盛りだくさんとなるわけだが、もともとこのジャンルの映画は「神などいない」もしくは「無能な神」という世界を描いているわけで、エクソシズム映画であっても奇跡は起きないというのがルールなのだ。

長い前置きになったが、現在28歳の私は、——すでにお察しかと思うが——大のホラー映画ファンである。しかし「ホラー映画ファン」などと豪語してきた私だが、なんと先週まで『スクリーム』シリーズを観たことがなかった。なんたることだろう、と我ながら思う。『スクリーム』第1作は、今年で初公開から20周年を迎える。公開当時、私はもう物心ついた子供であり、それから20年にわたりそれを観ずに「ホラー映画ファン」などと言い放ってきた私は、公開当時に世界を席巻した『スクリーム』熱を友達とともに楽しむ機会を逃しただけでなく、今ではそれをリアルに理解できるほど若くもない。『スクリーム』を観ずにここまで来てしまった理由のひとつは、「ドリュー・バリモアの演技が好きになれない」という個人的趣味だった。だから「『彼女が出てくるのはオープニングだけ』と誰かが教えてくれていたら、もっと早くにこの映画を観ていたかもしれないのに」と愚痴のひとつやふたつも吐きたくなる。『スクリーム』は「スラッシャーものはツッコミどころ満載」という前提で、それを逆手にとってストーリーが展開されていくホラー映画であり、まずその「自認」ともいうべき設定が新しく、素晴らしかった。だからこその驚異的な興行収入だったのだろうと納得がいく。映画の世界では「シリーズもの」を「スターウォーズ・フランチャイズ」「エルム街の悪夢フランチャイズ」など「~フランチャイズ」と呼ぶが、この言葉はファストフードやコンビニを連想させて、私は好きではない。しかし『スクリーム』フランチャイズは、第1作の成功を受けてその後、劇場版の続編を3本と、名の知れた俳優・女優がひとりも登場せずジムのテレビでしか流れないようなテレビ版を世に送り出すなど、まさにファストフード店のように次から次へと続編やスピンオフを展開していった。私はまだ観ていないが、『スクリーム3』はキッズ版『ハムレット』とでもいうべき作りのようで、「映画の中で映画を通して語られる物語」という見せ方を取り入れているそうだ。昨年、一連の『スクリーム』作品と『エルム街の悪夢』第1作を作り出したウェス・クレイヴン監督が死去した際、『Forbes』誌は『スクリーム』第1作を「ホラー映画最後の傑作」と讃えた。

「遊び心溢れる作りで、様々なスタイルを織り交ぜたストーリー展開にバイオレンスを見せ」と『Forbes』の記者はこの映画について書いている。「平均的な映画素人から熱狂的ホラー映画ファンまで、ありとあらゆる層の観客を満足させる映画だった」と締めくくり、絶賛した。熱狂的なホラー映画ファンのひとりとして、この記事を読んだ私はこれを観ずしてホラー映画ファンを名乗ってはならないと考えた。『スクリーム』の興味深いところは、登場人物たちと観客が同程度の理解を有したままストーリーが展開していくという作りだ。登場人物の、「誰かに見られている」という感覚(思春期という精神状態にあって、魅力的な容姿を持ったティーンは誰もが「見られている」という感覚に苛まれるものだろう)を、観客も一緒に味わうことになるのだ。アメリカきっての映画評論家ロジャー・イバートは、『スクリーム』について「これは、ストーリー展開を最重要として作られている作品ではない。"ストーリー"という概念そのものを主題とした作品だ。言い換えれば、この映画は"自分がストーリーの中にいる"という自意識に生きるキャラクターたちを描いた作品だ。彼らは『Fangoria』を読み親しんでいるのだ」と書いている。ひねりの効いた展開に「いちいち驚くこともなかった」という観客に向け、イバートは批評の中でこう書いている。「『Fangoria』を挙げて私が何を言わんとしているかを、あなたたちは理解できただろうか?」

ストーリーをここで説明するのは、ピクセルの無駄というものだろう。それでも必要とあらば、「殺人犯がティーンたちに電話をかけ、『好きな恐怖映画は?』と質問をする。そして、質問されたティーンは殺される」とだけ説明しておくが、i-D読者のみんなは、私と違いきちんとティーン時代当時にこの映画を観ているだろうから、そんなことは知っているだろう。2016年、状況には変化が見られる。男が女を質問攻めにした挙句、正論で論破されれば脅迫まがいの発言を公共の電波で吐いてしまう——それが2016年の世の中だ。そこで思わずにいられないのは、一般的に"ツリ投稿"と言われる挑発的ツイートについてだ(ヒラリー・クリントンの言葉を借りれば、「どんな男が、攻撃対象の女性を苦しめるためだけに、夜を徹して映画に関する問題をツイートしたりするのだろうか?」ということだ。ツリ投稿にしてもクリントン候補の疑問にしても、「インターネット時代だから仕方がない」としか答えようがない)。『スクリーム』の劇中で、学校きってのスポーツマンという設定の男性登場人物が「男じゃないとこんなことはできねえ!」と誇らしげに言うシーンがある。このシーンを見て、私はアメリカ大統領選テレビ討論会の様子を思い出さずにいられなかった。クリントン候補に対抗するもうひとりの候補者も、「男の仕事を遂行するだけの強さを、女が持っているのか」と言っていたではないか。

この根拠のない「男性のプライド」に、私はまず笑った。そして次に笑ったのは、犯人が"電話をかける"という仕掛けを「それが俺のオリジナルのアイデアだ」と言うところ——クレイヴンはなんともソフトな風刺を織り交ぜたものだが、これは見事に功を奏した。劇中でふたりのティーンが、自らのセックスライフを「映画にするなら年齢指定はR(17歳未満保護者同伴必須)?それともPG-13(13歳未満保護者注意推奨)? NC-17(17歳以下鑑賞禁止)かな?」などと話すシーンがあるが、これを観ながら観客は自らのセックスライフについて考えてしまっている自分に気づき、そんな自分をおかしく思ったりする。犯人のコスチュームを警官たちがこき下ろすシーンもあるが、その後20年にわたりそれはハロウィンの定番コスチュームとして愛され続けている。デヴィッド・アークエット演じる警官に「これが映画化されるなら、誰に君を演じてほしい?」と訊かれた主人公シドニー(ネヴ・キャンベル)は、「若い頃のメグ・ライアンかな」と答えるが、ネヴのキャリアがその後パッとしなかったことを考えると、これも皮肉な話だ。主役たちが通う学校の校長を、テレビドラマ『アレステッド・ディベロプメント』で無能な弁護士バリー・ザカーマンを演じたヘンリー・リンクラーが演じているのも計算尽くのキャスティングだろう。

「大量殺人モノ映画の特別期間だからな」とレンタルビデオ店の店員が言うシーンがある(映画がVHSでレンタルされていた時代の遺跡的証拠として、この映像は大変興味深い)。店員はそう言った後、スプラッター映画にありがちな展開について「カノジョを殺す理由ってのが必ずあるんだ。その潜在的な要素が、スプラッターものの美しいところなんだ」と言うのだが、このシーンでも私は米大統領選について考えずにいられなくなった。クリントンに対抗するあの男が、明け方の4時5時にツイートしていた内容と、さして変わらないような気がするからだ。20年とは、それほど長い時間ではないのかもしれない。VHSが絶滅するには十分な時間だが、人類が人類として成長するには不十分なのだろう。ちなみにレンタルビデオ店でのシーンには「新世紀だぜ。動機なんかどうでもいい時代なんだ」というセリフもある。

ドリュー・バリモアのシーンを見終えた私を待ち受けていたのは、その後1時間半に及ぶ怒涛のマシュー・リラード祭だった。1985年から1995年の間に生まれた者なら誰にでも彼のオーバーアクティングを目にした経験が少なからずあるはずだ。リラードが犯人のひとりとして正体を明らかにするシーンは、その後パロディのアテレコが多数作られたのも当然と納得できるクオリティ——リラードは「シォィー、こぉゲーゥ、たぉしいだろ?おぇたちの質問に答えぁぇなけぇば、こぉさぇぅ(シドニー、このゲーム、楽しいだろ?俺たちの質問に答えられなければ殺される)」と食べ物が口に入っているわけでもないのにモゴモゴと話し、さらには「シャロン・ストーンでもないくせに」というセリフを吐く際には、手で女性の陰部を示唆するジェスチャーを見せる。ヨダレを垂らしながら、ニヤニヤしながら話すリラード——シドニーの母親もまた、スチュアートと、シドニーの彼氏ビリーによって殺されたことが明らかになるが、ふたりがシドニーの母親を殺した理由は「ヤリマンだったお前の母親の魂を救ってやった」というもので、ここまでくるとユーモアとして片付けるにはあまりにリアルすぎると感じた。

映画『スクリーム』を、「フェミニスト映画」と讃える流れはこの20年間絶えずあったが、私は個人的にそれに諸手を挙げて同調する気にはなれない。しかしそれでも、この作品には、それまでのホラー映画にはなかった女性支持——少なくとも"アンチ女性"ではない姿勢が見て取れる。シドニーの親友テイタムが服越しにフェイクの乳首を浮き立たせているのは、もちろん当時の世相を逆手にとって風刺しているわけだが、少なくともそこにフェイクの乳首を使っているだけでも、女性にとって先進的な映画だったと言わざるを得ない。またこの映画は、「セックス=死」というホラー映画の定説ルールを覆し、主役女性のシドニーが初体験ののちにも生き延びるという、画期的な作品でもある。しかしながら現実世界では今でもそのようなルールがまかり通っており、ショートスカートを履いた女性がナンパに遭い、求められた電話番号を渡すことを拒否すれば、男にとってそれが暴行の動機として十分であると考えられているのもまた事実だ。

『スクリーム』は同時代に作られた多くのホラー映画同様、2000年代の『最終絶叫計画』でパロディの題材とされた。20年前の公開時、シドニーの恋人ビリーを演じたスキート・ウールリッチが人気を博したが、その人気は短命に終わった。2010年代に入ると、『キャビン』など、本格的にして新しいタイプのホラー映画が登場し、パロディ・ホラー・コメディは過去の流行となったが、かつては『死霊のはらわた』が一斉を風靡し、パロディ化されて、その後再びホラー映画ブームが巻き起こった歴史がある。歴史は繰り返すかもしれない。なんにせよ、『スクリーム』で登場人物が若者らしく退屈を凌ぐためにバカをやっているところを殺害されるという展開は、ホラーファンにはたまらないものだ。映画の終わりを知らずに観進めながら、私は心のどこかで犯人が女性であってほしいと思っていた。ローズ・マッゴーワン演じる、金髪の、強気な、フェイクの乳首をつけたテイタムこそが犯人なのではないかと想像していたのだ。しかし、テイタムはガレージのドアに挟まれて死んでしまう(胸の大きさが災いして死んでしまうという、いかにも昔のホラー映画的女性蔑視の小細工ではあるが、彼女は自らが死んでしまう前に、犯人の股間をボトルで打ち砕いてくれる)。映画では女性キャラクターにテイタムやシドニーなど、ボーイッシュな名前がつけられており、これはホラー映画の世界において「これら女性キャラクターたちは生き残る」ということを意味する。批評の中で『Fangoria』について触れていたとき、批評家のロジャー・イバートは冗談を言っていたわけでもなんでもなかったのだ。『スクリーム』は、そんな言葉や名前が暗に持つ意味に慣れ親しんだ者たちを嘲笑うような、巧妙な仕掛けに満ちた映画なのだ。

劇中、テイタムは、実は女性のほうがより残忍なサイコパスになりうるのだという口論に巻き込まれる。私は、テイタムがサイコパスになってしまえば良いと思った。『スクリーム』公開から3年後、ローズ・マッゴーワンは、『ハード・キャンディ』で、殺しにも皮肉にも笑いにも長けた完璧な女性を演じることとなった。しかし『スクリーム』の時点では、時代はまだ殺人鬼を"魅力的"な容姿の男の子ふたりに描き——これが、アメリカがこれまでに構築してきた、いわば「アメリカン・ドリーム」なのだ。美術家ジェニー・ホルツァーはかつてこう書いた。「危険を前に生まれる反応を見れば、そのひとのこれまでの生き様が、そしてそのひとにこれまでの人生で何が起こってきたのかが見て取れる。もっと生きたいと願い、まだ生きていていいじゃないかと考え、行動すべきか惑う、そんな心の動きが、如実に現れてしまうものなのだ」と。危険を前にもっとも健全な反応は、ときに笑いなのかもしれない。ひとは笑いすぎで死ぬこともあると医学は証明している。20年後、『ハンガー・ゲーム』を見ながら私は笑っているのかもしれない。

Credits


Text Philippa Snow
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.