長島有里枝 インタビュー 1/3 「フェミニズムと工夫」

現在、東京都写真美術館で回顧展が開催されている作家・長島有里枝。インタビューのpart1は、ライオットガールとの出会いや、「ガーリーフォト」の当事者たち、母親ゆずりのDIY精神について。「機材が良くなければいい作品は作れない、みたいな感覚はとにかくバカにしていました」

by Sogo Hiraiwa; as told to Atsuko Nishiyama; photos by Eiki Mori
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nov 16 2017, 2:19pm

社会における「女性」や「家族」のあり方に対する違和感を、写真や文章、インスタレーションといったさまざまな形式の作品を通して問い続けてきた作家・長島有里枝。現在、東京都写真美術館では自身初となる回顧展「長島有里枝 そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」が開催されている。

今回、i-DはC.I.P. Books主宰の西山敦子をインタビュワーに迎え、長島にロングインタビューを敢行。20歳だったデビュー当時何を思い、そして今何を考えるのか? これまでの作品を見直して気づいたこととは? 長島が感じてきた違和感を手がかりに“違和感の正体“、その表現のあり方を考える。

初回は、「女の子写真」ということのダサさ、Riot Grrrlとの出会い、母親から受け継いだDIY精神について。

──この展覧会の内覧の日に長島さんは「元々はアーティストになりたくて、写真はそのための手段だった」と話していらっしゃいましたよね。自分が女性であることやジェンダーの問題をテーマにしてアートを作りたいという気持ちは、最初からあったんでしょうか。

「学校に上がるまえから、男の子とよく遊んでいました。人形よりも超合金に興味があって、フリルの服は着たくないみたいな。小学校のお楽しみ会で劇をつくったときは、男子が女性、女子が男性を演じる脚本を書いたことがあります。振り返ってみると、ジェンダーの規範みたいなことから自由でもいいとずっと思っていたかもしれない。幼稚園の先生になりたくてピアノを習ったりはしたけれど、アーティストになろうなんて考えたこともなかった。体育と美術だけはできないタイプの子どもでしたから。だから、なんでこうなったんだろう(笑)。中学でもやっぱり制服のスカートはイヤだったし、先生に髪の毛のことをうるさく言われて「それならいっそ坊主にしたい」と思いました。校則でもOKだったし。でもきっとまた、それは男子の校則だって叱られるんだろうなと思ってやりませんでしたけど。それから、女子サッカー部を作りたくてサッカー部の顧問にお願いに行ったら、「女子に貸すグラウンドはない」って却下されたこともありました。自分はずっと昔から同じ人間だったし、成績だってほとんどの男子より良かったのに、女だというだけでどうしてこんなにできないことがいっぱいなんだろうと思っていました」

──それが中学生ぐらいですか?

「そう。高校は女子校を受験したの。廊下で手をつないでくる女友達に「やめて」って言ったら、翌日からクラスの女子数人にシカトされたり、隣の席の男子と話をしていることに対して「仲良くするんじゃねぇよ」と脅されたり。そういうの、好きじゃないから(笑)。女子しかいなかったら、逆にこういうダルいことは起きないだろう、と思って」

──そうなんですね、確かにそれはあるかもしれませんね。

「女子校はものすごく楽しかった。男子がいないから、文化祭の力仕事もみんな自分でどんどんやるし、教室の後ろのドアにモトリー・クルーのポスターなんかが貼ってあるのも全部女子の仕業。音楽の話から本の話からなんでも、彼氏の影響とかそういうんじゃなくて、超いい感じでしたね」

──男子といるときの女子は苦手だけど、女子しかいなければ楽しくやれる、ということですよね。

「そのときはそうね。文化祭の日だけは男子が来るから、ちょっとぶりっ子がバレる子もいるけど、「女子校じゃなかったら友達になってないかもな」と思って終わり(笑)。すでに友達だから、そういうこともあるよねって思うだけっていうか」

──私も小学生の時にだいたい似たようなことを感じて中学から女子校に行きました(笑)。男子がいるのが嫌というよりも、女性だけの世界に行った方が楽しくできるかな、とか。そこまで深くは考えていなかったですけど。

「行くとわかりますよね。公立だから、ペアになる男子校っていうのがあって、その学校との交流はありましたけど、一緒に遊んだり、私はあまりしない方でした」

──表現活動をしたいと思われたきっかけは?

「高校は進学校だったから、中学に比べると成績が落ちますよね。そのとき、自分はそこまで勉強が得意なわけじゃないんだと気づいて、じゃあもう勉強しなくてもいいのかも、それよりやる気が起きることをすればいいんじゃないかと思って。ちょうどその頃、音楽やアートに興味が出てきて、学校を休んで名画座に入り浸ったりしていたから、結局は美大に行こうと思いたちました」

──何か訴えたいことがあってそれを形にしよう、というよりは漠然と何かやりたい、という感じだったんですね。

「変な写真は撮ってましたけれど、訴えたいことなんてまだないですよね。高校生だし、早生まれだからむしろ周りの子より子どもっぽかったんじゃないかな。その頃からいろいろと生きてて大変なことが蓄積していくんだけど、それを表現することでなんとかしようと思うまでにはかなりの溜めが必要だったと思います。祖母が死んだり、父の心が離れていったことに取り乱す母を見て、女って面倒くさい、「女」になりたくないと思ったんです。若い頃って「私だけは違う」という自意識があるけれど、結局は自分も「女」のカテゴリーに振り分けられてるってことに少しずつ気づいたのは、バイトを始めたり大学に行きはじめてからでした」

《Tank Girl》 1994年 発色現像方式印画

──世の中の縮図みたいなものに触れて、望まなくても自分もその中のどこかに組み込まれているとわかってしまった、と。例えばカテゴリーというお話でいうと、デビューされたすぐ後にもそういうことはあったかと思います。「女の子写真家」「ガーリーフォト」という呼び方やカテゴリー分けもそうですね。うかがってみたかったのは、当時、外からのくくりでひとつのカテゴリーのようになっていた若い写真家の女性たちの間には、横のつながりのようなものがあったのかな、ということなんです。自分たちがそういうふうに見られていることについて話したり、それに対しての批判的な思いを共有したりすることはありましたか?

「当時は「女の子」という見られ方があまりにも強固で、それぞれが意識してつるまないようにしていたと思います。みんな「自分は違う」と思いたいんだけれど、そう主張する場も持っていない。あとになって大学院でフェミニズムを勉強したとき、論文の資料にアンケート形式になっている当時の記事を見つけたんです。その質問が、写真家に対するものじゃなかった。「得意料理はなんですか?」とか「好みの男の子は?」とか。インタビューもそれと大差がなくて、どうでもいいことしか聞かれないことが多かった」

──じゃあ考えとか思いがあっても言いづらいですね。

「アンケートもインタビューも、聞かれないことには答えられないんです。質問に対して、「それは置いといて私の好きな芸術家のことなんですが」とか「私が本当にいいたいことはですね、」なんていう風にはできないでしょう(笑)。それと、相手はすぐに他の女性写真家と自分がどう違うかを語らせようとするんです。「長島さんはやっぱり蜷川さんとは違いますよね。僕は違うと思うんですよ」なんて言って、対立構造を作ろうとする。今ならうまく切り返せるけれど、20歳そこそこでわけのわからない注目の真っただ中にいて、彼らのやっていることを冷静に分析することなんてできない。だから今になってようやく思う存分、女性写真家だけの飲み会をやっています。それで「あいつはやっぱりセクハラ野郎だったよね?」「私もそれやられた!」みたいなことを話したりして。当時は本当に酷かった。体目当てなんていうとドラマっぽいですけれど(笑)、気持ち悪い人がたくさんいました」

──今、ハリウッドの映画プロデューサーも大問題になってますよね、言えなかった被害者もたくさんいたと。やっぱり当時は、パワハラやセクハラのようなものがあっても言いにくかったり、女性の写真家どうしのつながりも持ちにくい雰囲気だったんでしょうか?

「そうですね。おなじ立場の人間同士が連帯したら「やっぱり女は」と言われるような構造を作られていました。かたや男どもは、みずから◯◯派なんて名づけて堂々と徒党を組んでいるのに。たかだか同じ年生まれだったりするだけで、たいがい女性は含まれない、ホモソーシャルなグループをね」

──カテゴライズされたり、ひとまとめにされたりしたからこそ、逆に自分たちからはあまりつながらなかった、と。

「そう。つながることを阻まれたと思っています。自分たちの違いを訴えることがまず一番にやるべきことだと考えざるをえなかった。「私だけは『女の子写真』じゃない」ってみんな思ったはずだし。私はね、とにかくネーミングセンスがないなと思ってました。「女の子写真」ってダサすぎるよ、って。自分のことわざわざ「女の子」って呼ぶ必要なんてないし、おっさんの発想だよなぁ、って」

──ひとりひとりの写真家としては、屈辱的でもありますよね。例えばそんな思いをするなかで、女性に限らず、写真家に限らずですが、ロールモデルのようなアーティストなどはいましたか。人じゃなくても、カルチャーとかムーブメントとか、こういうのはいいな、と思っていたものは?

「うーん。やっぱり私はフェミニストだったと思っていて。というのも18歳の頃に(シモーヌ・ド・)ボーヴォワールの本を読んで、これが自分の言いたかったことだって思ったんです。その後ロックにも興味を持つようになって、L7とかビキニ・キル(Bikini Kill)にものすごくハマっていったんだけど、周りに聞いている人がいなかった」

──ビキニ・キルが現役の頃ですか、90年代半ばとか。

「3年くらいずれてるんじゃないかな。その頃、渋谷でティッシュ配りのバイトをしていたから、センター街から宇田川町のほうに抜ける、あの辺のレコード屋はだいたい一周してたんです。ポップ見てよさそうなアルバムは試聴して、ビキニ・キルもそうやって見つけた。家で辞書をひきながら歌詞を読んで「これはすごい」と思った。ライオットガール(Riot Grrrl)のこともよくわかっていなかったけれど、とにかくなんかかっこいいことやってる人たちだと思ってましたね(笑)。91年くらいに、バックパッカーとしてしょっちゅうロンドンに行っていたときにi-Dの特集記事を読んで、こんな人たちがいるんだ、ってびっくりした。映画の影響もあると思います。映画って、割と強めの女子がでてきますから」

──90年代の若い女性たちによるパンク・ムーブメント、パンク・フェミニズムですよね。その流れは特にインディ・カルチャーの中では影響が大きかったと思いますが、長島さんご自身はそういうカルチャーに出会ったことが直接的に自分の作品に反映されていたと思いますか?

「どうなんでしょうね。最初のヌード作品はヘアヌード写真ブームに対する私なりのアンチテーゼでした。あの表現に対してライオットガールのようなものが直接的にどのくらい影響したのかと言われると、バンドを始めたわけでもないし、わからない。でも確実に勇気はもらったというか、私だって何かやっていいんだと思えたという点で影響は受けていますね。とにかく、強い女性が好きです。そういう人に対する憧れもある、年上だとか下だとか関係なくね。そういえば、迷惑かもしれないですが、ときどき「ギャルっぽい」と言われることがある(笑)」

──ギャルですか(笑)。

「ギャルって調べてみると面白くて、男ウケがNGらしいんです。ガングロもそういうことから始まったらしいし、ネオギャルの定義にも確かそんなことが書かれていたような」

——そういう美学というか。

「硬派なんでしょうね、昔で言うところの。自分がギャルの精神を持っているかもしれないのは嬉しく思います。私、『花のあすか組!』が大好きで、『有閑倶楽部』とともに全巻持ってるんですよね」

──ライオットガールのマニフェストというかスローガンみたいなもので「レボリューション・ガール・スタイル・ナウ(Revolution Girl Style Now!)」っていうのがありますよね。

「ありました。ビキニ・キルが歌ってるやつかな?」

──そうそう。そこに「スタイル」という言葉が入っていることがポイントじゃないかと思うんですね。「何をやるか」もそうだけど、「どういうやり方」でやるか。男の人がやるのと同じようなパンクの革命ではなくて、ガール・スタイルでやるぞっていう。「自分のやり方で」ということでもあると思うんですけど。そういう意味では、長島さんは最初から自分のやり方というものを模索して、確立されていたと思うんです。で、さらにキャリアを重ねていく中で、ご結婚されたりご出産されたりしてその「自分なりのやり方」が周りのいろんなことに左右されていく、というような感覚はありましたか。例えば小さなお子さんがいるうちはできることが限られてくる、とか。

「もちろん。でも、昔からわりとずっと、そういう感じで生きてきましたけど」

──そうなんですね。これがやりたい、というよりその時々の必要に迫られるというか。

「むしろやりたいことなんてなくて。とにかくほっといてほしいっていうか、一人でぼんやりしている時間が人より長かったんじゃないかと思うんですけれど。親や先生に言われたことをやってたら1日が終わる、みたいな子どもだったと自分では思っています。攻めのスタイルじゃないの。あと、うちは貧乏だったからお母さんがすごく工夫する人だった」

──そういう必要から生じた工夫みたいなものが、何かをするときの自分のスタイルになっていくっていうことはありますよね。

「母はなんでもかんでも手作りしていて、わたしも手作りするよう奨励されましたね。それがどれだけ作品作りに影響を及ぼしているのかはわからないけど、そんなにお金がなくても楽しいっていう感覚はお母さんから貰ったでしょうね。あと、わたしの作品は、常識のなさとも関係あるかもしれない(笑)。家族がヌードのモデルをするということそのものがあれほど騒がれるなんて思っていなかったから」

《Self-Portrait (Brother #34)》1993年 ゼラチン・シルバー・プリント 東京都写真美術館蔵

──じゃあ確信犯的、というよりはむしろ……。

「もちろん、ああいう表現が鑑賞者に与える影響について自覚していなかったら作品にしません。けれども、実の家族を使った理由は、モデルを雇うお金がないとか、スタジオを持っていないとか、そういう要因の方が大きいからそうするんだと、自分では思っていたから。お金と社交的な性格があったら、モデルを頼んでいたと思います(笑)。写真は本当にお金がかかるんです。大学時代にも材料費が20万かかると言われて、選択できなかった授業がありました。授業で中古のフィルムカメラが必要になったときも叔父に借りました。あるものを使えば十分だ、って思ってましたね。ターンテーブルは「一番いいやつください」って言って、バイト代で買いましたけれど(笑)。機材が良くなければいい作品は作れない、みたいな感覚はとにかくバカにしていました、つまらない考え方だなって」

part2はこちら:長島有里枝 インタビュー2/3

長島有里枝 そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。
2017年9月30日(土)〜11月26日(日)
東京都写真美術館 2階展示室
休館日:毎週月曜日(ただし月曜日が祝日の場合は開館し、翌平日休館)