赤リップは誰のもの? ジェンダーは複雑なままでいい:写真家・萬砂圭貴が撮り下ろす、ありのままの私たち
全ては思い思いのまま。素直でいれる方がいい。人の持つ複雑さを内に秘め、流動的なセクシュアリティを部屋の中で好奇心のまま楽しんでもいい。
ネットが普及して以来、ビジュアルは”わかりやすい”伝え方から、徐々に人間の複雑性をお互いに理解していくことの方が好奇心をくすぐるようになったといえる。
そしてコロナ禍の中の数ヶ月間で、撮影という方法もまた変わらざるをえなくなった。今回、写真家・萬砂圭貴がこの撮影で挑んだのは、画面越しに被写体とオンラインで繋がり、彼らのパーソナルスペースに歩みより、複雑な人間性を映し出すという点だ。
このオンライン撮影を通じてフォトグラファーの存在意義についても考えさせられたという。従来ならば、被写体とのコミュニケーションを通じて距離を詰めてゆく方法で撮影していた彼だが、今回の撮影はその真逆のアプローチとなる。ネット越しに実際の距離を縮めることできない反面、オンライン越しに映る相手のプライベートスペースは、どこかファンタジーにも感じられる。そして、特別な距離感が生まれた。
コロナ禍の中の数ヶ月間で、人と身体的に共有していた肌感覚は空漠なものになり、引きつづき私たちは「日常」について考えていくことになる。それは今まで以上に、内包的に自己と向きあい、鏡写しで人間の複雑さも受けいれていくことになるだろう。まだカテゴライズされていない曖昧で複雑なことに向きあうのは、決して小難しいことではない。
写真家・萬砂圭貴は被写体の在るがままの姿と彼らの好奇心、誰にも脅かされない”私”の瞬間を収めたのだ。
赤リップは誰のもの?パンツやスカートの定義は一体?
そんな具体的な言葉を公に発さなくとも、ときには想像力に身をまかせて、”私”たちの流動的なセクシュアリティを部屋の中で好奇心のまま楽しんでもいい。
なにかの初期衝動、好奇心、それは抑え込むものではなく心から喜んで楽しんでいいんじゃないだろうか。私が喜ぶなら。
セクシャリティは流動している、気がする。
なにも宣言することはなくて、こっそりでいい。秘密でもいい。
秘密のエクスタシィ
誰にも脅かされない、わたしだけのわたしの瞬間。
Keiki Banja









Photography Keiki Banja
Text Yoshiko Kurata
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