ダイバーシティについて──否定性の複数性の肯定:千葉雅也【来るべきDに向けて】

「ダイバーシティだ」「多様性だ」と言うけれど、なんとなく流れに乗っておけ式の、思考停止の賛同になってはいやしないだろうか。

by Masaya Chiba
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16 November 2020, 3:00am

坂本龍一とGotchが中心となり発足したオルタナティブ・プロジェクト「D2021」。震災(Disaster)から10年(Decade)の節目を目前に控えた今、私たちはどのような日々を歩んできたのか、そして次の10年をどのように生きるべきなのか。この連載「来たるべきDに向けて」では、執筆者それぞれが「D」をきっかけとして自身の記憶や所感を紐解き、その可能性を掘り下げていきます。

今回は哲学者で、初となる小説『デッドライン』で野間文芸新人賞を受賞するなど作家としても大きな注目を集めている千葉雅也が登場。

この数年で「ダイバーシティ(多様性)」や「LGBT」という言葉もすっかり定着したが、内容を伴わない“良さげなワード”として事業に利用されることも増えてきた。さらには、「ダイバーシティ」の中にも「今の時代はこうだから」という規範に従っているにすぎないものがある、と千葉は指摘する。真のダイバーシティはどこにあるのか。


「ダイバーシティについて──否定性の複数性の肯定」 千葉雅也

 微妙なグレーゾーンをやりくりすることより、一律に禁止してしまった方が簡単である。これまで微妙な問題性を帯びていたものを禁止することで世の中をわかりやすくクリーンにしていくというのは、僕は前からよく言っているのだが、「易きに流れる」ことである。難しい生き方の放棄だ。あるいは言い換えれば、それは人間の雑多な欲望のデコボコを均していくことであり、禁欲的な方向へと進むことであり、それは一見倫理的に思えるかもしれないがそうではない。禁欲とは易きに流れることである。デコボコした欲望と可変的な濃度のグレーで付き合い続けることこそが真に倫理的なのだ、と僕は主張してきた。 

 今回の企画は、Dかダ行で始まるキーワードを置いて何か書いてほしいという依頼なのだが、この文章は一応「ダイバーシティ」をテーマにしようと思う。広い意味での欲望、そしてセクシュアリティに関するダイバーシティである。思うに、今日、ダイバーシティを推し進めようという善意によるかけ声があちこちで反響しているが、それはその実、世の中がいっそう禁欲的・禁止的な方向に進んでいく人類史的な流れの一環だと僕はペシミスティックに捉えている。

 僕は、同性愛を生きる一人の当事者としてこの20年の変化に悲喜こもごもの思いを抱いている。大学に入学した90年代後半に僕は、いつかもっと公に同性愛が肯定される世界になったら、という願いと共に学問を始めた。その願いが、既存の規範性を批判するフランス現代思想と結びついていた。僕にとってフランス現代思想は、同性愛のエンパワメントと一体のものだった。

 それから20年が経ち、AppleのCEOがカムアウトし、企業でLGBT研修が行われる時代になった。状況は革命的に変わったかに思われる。同性婚が認められる国が出現し、増加し、日本でも盛んに議論が行われている。こうした変化はもちろん「我々」の生活をより良くしたが、その一方で僕の胸中では、どうにも処理しきれない納得のできなさが膨らんでいっている。かつて同性愛を小馬鹿にしていたはずの人たちが、リベラル「ぶって」いれば「間違いない」と判断したかのように、手のひら返しをした、という苦い気持ちがある。実際、身近な経験でも、〈以前あんなことを言ったやつが今ではね、よく言うよ〉というようなケースを目にしている。いま、「我々」の戦略としては、たとえ表面的なものであってもマジョリティからの支援をもっと取り付けるべきなのだからそこは目をつむろう、という意見もあるだろう。だが僕は黙っていられない。ツイッターでも「手のひら返しの虹色」に対してブツブツ文句を言い続けている。

 それにしても、時代の空気が何かがおかしい。ヘテロ社会が同性愛を「包摂」するようになってきている——のだが、必ずしもそれは、異質な欲望が肯定されているのではない、と感じる。結局それは、「今の時代はこうだから」という新たな規範性に従っているにすぎないのではないか。その規範性とは、「差別してはまずいから差別禁止ですよ」、「まずいことを言ったら問題になりますよ」というネガティブな方向性でしかないように感じるのである。 

 この20年で便利になったことは多々あれど、個人的に、生活の息苦しさは増している。

 これには当然異論があるだろうが、僕は喫煙者であり、かつての日本の室内分煙体制はちょうどいい妥協策だと思っていた。が、2020年の4月から規制が強めら、隔離された分煙室でタバコを吸うことができる店も激減した。

 もう一つ、僕が注目しているのは「放置自転車」の排除である。かつて自転車が野放図に置かれていたのは問題だったのかもしれないが、今日、道のあちこちに有料の駐輪ラックが設置され、まるで、土地をタダで使わせるわけにはいかないぞと、土地=資本をガッチリと守る厳めしい顔が街のいたるところで睨みを利かせているかのようだ。左翼的な概念でもって言えば、「共有地」が失われたわけだ。確かに、土地の所有権は侵害されてはならないのかもしれない。だがそれでも、かつては、利害の分岐をあまり細かく言わずに空間を分有するという「精神のあり方」があった。分煙という妥協にしてもそうだった。

 今日では、土地にせよ自分の身体にせよ、他者から偶然的に被る「ダメージ」を一切受けたくないという「私的所有」観念の徹底が進んでいるのである。そして重要なのは、それは我が身を、我が家を大事にしたいからではない、ということだ。所有物を守りなさい、あなたの身体をいつまでも健康に維持しなさい、という命令は、国家と資本主義の結合体からやってくる。人は、自己準拠的に土地と体を愛しているのではない。大昔からの強大な力の組織が、人々を労働機械としていつまでも働かせ続け、利潤を吸い上げるためにそう命令しているのである。その命令を、人々は、あたかも自分が望んでのことであるかのように誤認させられているのである。

 禁止、禁止、禁止。よりクリーンな世の中のための禁止。それは結局、生活のありとあらゆる部分の資本主義による「実質的包摂」である。曖昧な共有性が排除され、すべてが厳格な私的所有の論理の下に置かれていく。まさにその論理によって、たとえば、同性愛者というアイデンティティもまた、その人が私的所有する属性なのだから、そこに踏み込んではいけないという意味で差別してはならない、ということになっているのではないか。そうならば、異なるセクシュアリティ間の相互理解の可能性はなくなるだろう。まさに理解を放棄することで、互いの邪魔をしないというわけだ。もし相互理解をしようとなったら、多少気分を害するようなことを互いに言い合う場合だって生じるだろう。そうだとしてもその方が、真に互いの欲望を肯定することなのではないだろうか。

 今日では、私的所有物たる「私自身という資本」を目減りさせるありとあらゆるストレスを排除しようとする方向が強まっている。だが人間とはそもそも、否定性を織り込んで、人生の襞を深めていくものではなかろうか。20世紀にはそれは 当たり前の人間像だった。90年代のクィア・ポリティクスにおいてもそれは当たり前だったと僕は思う。だが今日、そのことを表立って主張するとまるで保守論客のように聞こえてしまう。というのはどういうことなのか。答えは簡単だ。問題は資本主義にある。この20年で人々は、より先進的に弱者性を尊重するようになったのではない。資本主義の進展にただ身を任せることで、私的所有的エゴイズムをより強固にする中で、「お互いに資本を目減りさせないようにしましょう」という約束をあらゆる場面に行き渡らせているのである。

 真のダイバーシティとは、資本を保全するための禁止を増やすことではなく、多種多様な否定性を通り抜けながら生きることの肯定であり、否定性の複数性の肯定なのである。

D2021

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