Daze 非合理の高揚感を求めて:山本華【来るべきDを求めて】

「そこにいることだけでおもしろい」を突き詰めて考えていくと?

by Hana Yamamoto
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13 March 2021, 10:06am

坂本龍一とGotchが中心となり発足したオルタナティブ・プロジェクト「D2021」。震災(Disaster)から10年(Decade)の節目を目前に控えた今、私たちはどのような日々を歩んできたのか、そして次の10年をどのように生きるべきなのか。この連載「来たるべきDに向けて」では、執筆者それぞれが「D」をきっかけとして自身の記憶や所感を紐解き、その可能性を掘り下げていきます。

今回は写真家の山本華が登場。

「Daze:非合理の高揚感を求めて」 山本華

 ロサンゼルスは私の大半のアメリカ旅において関所のような存在だと感じていた。いや、ロサンゼルスがというよりは、その国際空港のことである。世界中の人々を受け入れて送り出していく空間。初めて私が降り立った異国。

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千葉県出身の私にとってカリフォルニアは、千葉県に面した海のずっと遠くにある未開の地だった。アメリカ大陸が存在していることは一応知っていたけれど、本当にあるのかは知らなかった。行ったことがなかったから。

だから、アメリカ大陸を初めて機内から目撃したときは興奮した。今まで見聞きしたアメリカについての話はただの言説ではなく実在する国家の話だとわかったし、航空券を取ればその場所に行くことができる。渡米の目的はなかったけれど自分の体が日本以外の場所にあることが面白く不思議だった。自分が外国人になることの漠然としたひりつきを感じていた。その不快さすら中毒性を感じてしまった。私はロサンゼルスに思い入れを持っている。

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しかし私は、この場所に惹かれているとはいえ、ロサンゼルスに住んだ経験もなければあたりを入念に散策したこともなかった。さらにロサンゼルスは別の場所へ飛んでいくための場所であって、たとえ約10時間のフライトを経て太平洋を横断した先が異国であっても、空港の外に出なければそこは延長された成田空港の一部だと思っている節すらある。もしくは、早朝の帰国フライトのために前日から待機して仮眠を取ることがロサンゼルスでの主な用事だった。

 時間に追われるか時間を浪費することしかしていないのに、こんなに思い入れがあるのはなぜだろう。おそらくそこにいることが面白いからだと思う。この文章では「そこにいることがおもしろい」について少し考えてみたい。

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1.

 冒頭に私は“ロサンゼルスは私の大半のアメリカ旅において関所のような存在”と書いた。ここで使った関所という言葉は、人々がロサンゼルスを拠点にアメリカの各地へ渡航するための入口という単純な意味合いだが、2005年に発売したゲーム『どうぶつの森』に存在する、村の施設としての関所を重ね合わせていた。

2005年に発売したシリーズ初期の『おいでよ どうぶつの森』では、他プレイヤーの暮らしている村へ自分のアバターが旅行できる。しかしその他のユーザーと通信する際にはスタート画面から通信することはできない。ゲーム内でアバターがわざわざ関所に行って手続きする必要があるのだ。関所で通信のためのやり取りが終わると、通信相手であるプレイヤーの村に渡る瞬間に画面が光に包まれる。私はこの演出にずっと高揚感を抱いていた。ゲーム内でのアバター操作は主にゲーム内での利益を生産するために行われるが、この関所に向かってアバターを動かしている時間や関所でのやり取りは一切利益が発生しない。虚無の時間だ。

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 13年ほど前に覚えたこの高揚感は、現在の私が遠く離れた地域に出かけるときやフライトへ向かう車内、荷物のチェックインの列で待機している時、フライトの搭乗前の時間など、旅が始まる前の数々のシーンで感じられる高揚感にとても似ている。フライトを終えて到着した空港内にいても感じることができる。これらのような、現実に発生する非生産的な時間とゲームにおける非生産的な瞬間が重なったとき、私は旅することの面白さを知ることができた。「そこにいることだけでおもしろい」は、生産性に対抗しようとする時に得られる高揚感であり、合理性に反抗することによって得られる体験だ。

    2.

私はライフワーク的に色々な所に行って写真を撮っている。すると、旅人は決して能動的ではなく、むしろ非常に受動的な存在だなと感じる。旅人は旅という行動の見返りとして、自分に返ってくる新しい感覚を全て素直に受け入れなければならないからだ。つまり、郷に入っては郷に従うこと。

私たちは日頃の生活における「何もしていない」感覚の範疇で、無意識的に非常に色々な問題をクリアしている。それは幼年期には障壁として存在したような問題全てを指している。例えば、気候への対応や交通システム、言語などである。

このような、自国では当たり前に理解し対応して過ごしていた様々な困難が、異国では新たな形で降りかかってくる。そのため、旅人はサンドバックのごとく問題を次々と受け入れて解決しなければならない。だが、サンドバックになることが旅の趣であることも一つの事実であると思う。問題を器用に掻い潜るのを自ら止めること、つまり異文化に飛び込んでいくこと、それもまた、「そこにいることだけでおもしろい」ということなのではないだろうか。

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3.

 パンデミック以降、人々はウイルスの媒介者としての自覚と、新しく提案されたライフスタイルモデルの下での生活を要求されている。旅人の身体を持つ人々もまた、ウイルスを媒介するモデルとして厳しく移動を規制されてきた。ウイルスと共生する日々は、人々の日常的な外出の形をアップデートせざるを得ない状況へ追い込まれた。国境はいとも簡単に閉鎖してしまった。世界市民なんて遠い話だと思った。

2021年に東京オリンピックが行われるとしたら、東京を中心にしてまた新たな外出のモデルが生まれる。依然としてそれは移動の制限であると想定すると、今後生まれるであろう新しい生活を私たちは脱臼する必要があるのではないだろうか。そのためにどうするのかと聞かれたら、それは「そこにいることだけでおもしろい」ことの再解釈だと思う。

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2020年の初頭、2019年に出会った友人とロサンゼルスを拠点に旅した。この出来事によって私にとってのロサンゼルスは国際空港のみではなくなり、その郊外まで拡張されることになった。

以下は、この旅行で友人と合流する前に起きた出来事について書いた文章である。このエッセイをもって、私の文章を終わらせたい。

“ おかしいと思ったときには車を探し始めて30分は経過していたと思う。

2020年2月、羽田からロサンゼルスに飛んで、現地時間午後3時に到着した。空港の外に出て、近隣にあるUber乗り場へ。事前に予約していたホテルはここから車で10分、他の交通機関を使ったら20分、歩いたら2時間かかる。

乗り場には元々私とヒッピーらしきバックパッカーがいたのだが、気づいたときには彼らは先に車を捕まえてその場からいなくなっていた。Uberのシールを窓に貼った車は無限に走っているし、実際にUberのアプリ上では何度も配車予約をすることができたのだが、到着時刻になっても表示されたナンバープレートが見えない。そんなことが5回くらい繰り返されたあたりで「これがアジア人差別か」と勘が働き、その場を離れることにした。

 この頃アメリカでは、コロナウイルスに関連したヘイトクライムがニュースになり始めていた。それにしてもこの恐怖といったらどう表現すればいいのだろう。自分がここに存在しているだけで、知らない誰かに憎まれ恐怖される。全く理不尽だけれど、どうしようもない。突然発覚した“自分が他人を恐怖させる特性を持っている事実”に対して整理がつかない。乗車リクエストを拒否したUberの運転手に「私はもう存在してしまっているし、選んでアジア人に生まれたわけじゃないのだから、車に乗せてください」と言ったら車の外へ蹴り出されるだろうか。はたまた通報されるのだろうか。どちらにせよ、罵倒されるくらいなら容易に想像できる。

それでも来てしまったのだから仕方ない。とりあえず別のルートでホテルに行こう。ロサンゼルスの空港には電車が通っていないからどうにか最寄りの駅に行かなければならなかった。従業員が乗客のほとんどを占めているバスに乗った。揺られながら私は一人、大量の人間が行き交う世界の主要都市で、早速喰らった孤独をゆっくり噛みしめる。(この感覚は東京のナイトクラブの端でぼーっとしている時によく感じていたような感覚にとても似ている。)

バスから降車し、ロサンゼルスの電車駅に設置されている券売機がどれも立派な柵に囲まれていることに不安を感じながら切符を買う。高架の高さは総武線とか中央線に似ていて、南下していく車内の窓からロサンゼルスの郊外が見える。17時過ぎ、あたりは真っ暗になり街に歩行者の姿はなくなった。短い車内には私を含めて7人の乗車客がいた。それぞれほぼ均等な間隔をおいて配置されているようだ。乗車していた他の女性客が降りると私は唯一の女性で、ただ一人のアジア人だった。大きなスーツケースを抱えて恐怖と若干の興奮が心の中でせめぎあっているのが顔に出ないよう抑えていた。

 駅から出てエスカレーターで地上口に出る。私はスーツケースをひいて、Google mapsのガイドが言う通りに歩く。スケートボードに適しているであろうフラットすぎる道が永遠に続く。駅の付近に住宅はあまり多くない。倉庫のような建物が永遠に続くコンクリートの道は歩いていてあまり不快な気持ちにならない。

ときどき、後ろから走ってくる車の轟音が近づく。

 そして横を過ぎて、あっという間に遠くに行ってしまう。

それらが自分の横を通り過ぎるまでは、この車がわたしの横で急停車し、私を誘拐する可能性があるかもしれないなあと想像する。ほぼ毎回、車が私を追い越す瞬間まで考える。私以外の人間が一切歩いていないこの路上で誘拐されたとしても、誰一人として目撃者はいない。

私が誘拐されたとしたら、きっとそれはヘイトクライムがらみの事件として回収されるだろう。私が勝手に異国に行って人気のない路上を歩いていたことはのちに、誘拐されても仕方がない行為だったと言われるだろう。

しかし恐怖しているわけではない。この状況がおもしろいのだ。私がただここにいるだけなのに、勝手に誰かが私のことを嫌ったりすることが。歩く速度が不思議と上がる。体が軽くなる。私が存在しているだけで社会が変わるかもしれないから面白い。私がここにいるだけなのにおもしろい。

2020年2月末日     
カリフォルニア州レドンド・ビーチにて


「D2021」https://d20xx.com/


山本華

写真家、報道写真家。1999年千葉県生まれ。多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コース在籍中。撮影と執筆を行いながら肖像写真についての研究を行う。主な活動に写真集『Gardening』、個展『西の旅、不在を遠くに見つめる』。

https://yamamotohana.myportfolio.com/work

Instagram: @yamamotohana324