©Frenesy, La Cinefacture 

鼻血と暖炉の炎:『君の名前で僕を呼んで』評

避暑地のまばゆい陽光、思春期の欲望——ルカ・グァダニーノ監督が、初恋の喜びと痛みを描いた映画『君の名前で僕を呼んで』。本年度アカデミー賞脚色賞を受賞した本作を、現代美術作家のミヤギフトシがレビュー。

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apr 23 2018, 7:12am

©Frenesy, La Cinefacture 

舞台は北イタリアのどこか、1983年。17歳のエリオと、住み込みのインターンとしてアメリカからやってきた24歳のオリヴァーが、美しい夏のイタリアの風景のなか、時に反発し、自らの感情を否定しながらも、惹かれてゆく。

この美しさに騙されてはいけない。なんとなく身構えながら私は本作を観ていた。美しいがゆえに、つい死の予感を探してしまう。事実、一見死や病を連想させるようなモチーフは何度も出てくる。突然エリオの鼻から流れる血、オリヴァーの化膿した傷、画面の中を執拗に飛び回る蝿など……だが、どうやら血や傷は幼さや若さの象徴であり、蝿は、果実にたかり、やがて来る腐敗を示しているのだろうか。しかし、鮮やかに完熟した果実にあふれたこの映画では、誰も死なない。

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一方で、死について語られるこんなシーンがある。雨の日の午後。エリオの母親が『エプタメロン』の一節を朗読する。ある王女と騎士の物語。騎士は彼女に恋い焦がれている。そしてついに王女に言う。「話すべきか、命を絶つか」と……。これに続くのは、田舎町の広場を歩くふたりを五分半に渡って映す長回しのシーンだ。エリオは自分の気持ちをオリヴァーに伝えようとする。彼の視線を追うように、カメラは二度、上に向けられる。まず、広場の真ん中に建つ、第一次世界大戦で命を落とした兵士たちに捧げるモニュメントと国旗。次に、教会の十字架。そしてオリヴァーが言う。そういう話はすべきではない、と。死の歴史があり、そして宗教の、社会の規範とされるものがある。そんな時代と風景のなかで、エリオは話すことを選ぶ。

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騎士のように話すことも死ぬことも選ばず、話さないことを選択した。エリオが17歳にして感じた喜びや、哀しみすら体験できなかった。そんな十代を過ごした人はたくさんいるだろう。私もそのひとりで、だからこそ後半は映画の美しさにすっかり浸っていた。80年代というセクシュアルマイノリティの歴史において必ずしも明るいとはいえない時代の前半に、あり得たかもしれない恋、そして家族の可能性として、ある種のファンタジーとして。映画の後半、駅までエリオを迎えにきた母親も、友情や若さについて語る父親も、ガールフレンドも、皆優しい。優しすぎる。本作のプロデューサー、ピーター・スピアーズはパンフレットでこう語っている。「こんな言葉をどこかで聞いたことがある。“自分が若かった頃必要だった人間になれ“ってね。ルカと私は、いろんな意味で、自分たちが若かった時には持ち得ず、でも必要だったような映画を作れたと思う」

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私が画面に死を探していたのは、この物語が映画『めぐりあう時間たち』を思い出させたからだ。『ダロウェイ夫人』執筆中のヴァージニア・ウルフ、その『ダロウェイ夫人』を読む50年代アメリカの主婦ローラ、ダロウェイ夫人のあだ名を持つ2001年のNYに生きる編集者クラリッサ、三人の女性を描いた映画。エリオとオリヴァーの関係と共鳴するような記憶(海辺の家、一夏の恋)も実際語られるが、ここでは同作のオープニングに触れたい。おぼつかない手でコートの紐を結び、裏口から太陽の光に輝く春の庭へ出て、ウルフは川へ向かう。死ぬためだ。一方『君の名前で僕を呼んで』の終盤、エリオが裏口の戸を開け、生き物の気配がしない雪景色から暖炉の炎で暖められた室内に入りコートを脱ぐシーンは、まるでその逆回しだ。このふたつのシーン、構図がよく似ている。しかし、死の予感が覆されることなく、絶望の先にあるものを描こうとする前者と違い、『君の名前で僕を呼んで』はあくまでも生の映画だ。エリオは暖かい場所にいる。その優しさに救われる人はきっと少なくないはずだ。

君の名で僕を呼んで
4月27日(金)TOHOシネマズ シャンテ他 全国ロードショー