90年代ニュージーランドのカルチャー雑誌『Pavement』とその快楽主義的な編集哲学

ニュージーランドのスタイルを世界に知らしめたカルチャー雑誌『Pavement』。創始者のふたりに、表紙を飾ったスターや90年代のニュージーランド、雑誌作りの裏で起こっていた衝突について話を訊いた。

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aug 7 2017, 8:30am

This article originally appeared on i-D Australia

90年代初頭、ニュージーランドはいたって平穏だった。しかし水面下では世界の若者たち同様、ニュージーランドの若者たちもi-Dや『The Face』といった雑誌に掲載される、時代を象徴するファッションやエディトリアルに夢中になっていた。インターネットもまだ普及していない時代、それらの雑誌は同世代の同志たちを結束させる聖書のような存在だった。そんな1993年当時の社会気風のなか、ニュージーランドのオークランドを拠点とするジャーナリスト、バーニー・マクドナルド(Barney McDonald)は、自身の雑誌を立ち上げようと思い立った。「自分が読みたいと思うようなストーリーを書きたい」という情熱に駆り立てられたバーニーは、新たなストリート・カルチャー誌を創刊するにあたり、ニュージーランドを代表するライターや写真家を集めた。そして、『Pavement』が誕生した。

すでにクールなものができあがるための要素の多くは揃っていたものの、『Pavement』にはデザインとファッション・コンテンツを指揮するディレクターが必要だった。そこへ運命的にも、アート・ディレクターでデザイナーでもあるグレン・ハント(Glenn Hunt)がロンドンから帰国していた。『Pavement』に大きな可能性を見出したグレンはバーニーに連絡をとり、「創刊号を一緒に作りたい」と申し出た。そして、その後も毎号にわたって、ニュージーランドの(そして世界の)90年代のクールネスを反映する雑誌を作り続けていった。

Christy Turlington. Photography Regan Cameron. December 1997.

『Pavement』は創刊からの13年間を走り抜けた。表紙には、ナオミ・キャンベル、ジョニー・デップ、レオナルド・ディカプリオ、ケイト・ブランシェット、アンジェリーナ・ジョリー、コートニー・ラヴなどが登場し、まだ駆け出しだったモデル、ジゼル・ブンチェンまでもカバーしていた。『Pavement』の輝かしいアーカイブを振り返りながら、バーニーとグレンに90年代のニュージーランドについて訊いた。

Gisele Bundchen. Photography Regan Cameron. December 1997.

『Pavement』を創刊した頃のことを教えてください。
バーニー:創刊の準備をしていた頃に、グレンが「雑誌のデザインについて話がある」と僕に会いに来てくれたんだ。ふたりとも同じ海外のファッション雑誌を読んでいてね。ニュージーランドの雑誌も『Rip It Up』や『Cha-Cha』を共に愛読していたから、すぐに意気投合したよ。
グレン:僕が参加したとき、創刊号はたったの64ページですべてが白黒、ファッション写真もなかったんだ。でもバーニーは良く書かれた記事を作っていた。すぐに大きな可能性を感じたよ。

Eva Herzagova. Photography Regan Cameron. November 2003.

当時のニュージーランドについて聞かせてください。
バーニー:ニュージーランドはもっと国際的に通用するクリエイティブなポテンシャルがあると感じていた。でもこの国特有の村意識が、その可能性を囲い込んでしまっていた。そんな中90年代に入って、カルチャーが一気に加速していったんだ。国内のファッション・デザイナーたちが先進的な考えのもと海外に新たな市場を求めるようになり、映画監督のピーター・ジャクソンが『乙女の祈り』を撮り、『さまよう魂たち』を作って、その後の『ロード・オブ・ザ・リング』三部作への布石を作った。OMCが「How Bizarre」をリリースして大ヒットを飛ばし、世界各国のチャートで1位を獲得した。ドラムンベースがクラブやレイヴを盛り上げた。そうしたすべてが、僕たちを奮起させたんだ。僕たちも人々に刺激を与えられたなら嬉しいね。
グレン:雑誌を創刊するときも市場調査はしなかった。僕たち自身がターゲット層だったからね。僕たちには、才能のある人たちとのコネクションがあったし、彼らもまた表現ができる媒体を必要としていた。直感を信じていたよ。必ず彼らに表現する場を与えられるって。

Jarvis Cocker. Photography Max Doyle. December 1995.

『Pavement』はあなたがニュージーランドを世界に、そして世界をニュージーランドに引き合わせた形だったと、おっしゃっていますね。
バーニー:創刊してすぐに、海外にいるコントリビューターたちとのネットワークが広がっていって、彼らは音楽でも映画でもファッションでも、どんなストーリーも撮ってくれると言ってくれたんだ。ニュージーランドからも、デレク・ヘンダーソン(Derek Henderson)やリーガン・キャメロン、マックス・ドイル(Max Doyle)といった人たちが協力を申し出てくれた。その後、海外に活動の拠点を移してからも『Pavement』のために写真の仕事を引き受けてくれた写真家たちもいたよ。売れ行きが軌道に乗ってくると、クリエイティブ面での自由を重視している『Pavement』の世界観を楽しんでくれていた海外のコントリビューターが多く参加してくれるようになった。僕たちの信念は、「ストーリーをやる価値があるなら、新しい写真を撮る価値もある」だった。オリジナルの写真がなければ、オリジナルのストーリーもありえないからね。

『Pavement』の世界観とは? そしてどのようにそれに一貫性を持たせていたのですか?
グレン:ただ駆り立てられてやっていたよ。絶望感に後押しされたときもあったけどね。特に初期は、僕がやりたいことをやれるだけのページ数がなく、文字だけが多かったりしたから! 僕はバーニーが作り出しているものを素晴らしいと思っていたし、彼が書くテキストを最大限まで引き立てるのが自分の任務だと感じていた。ふたりとも写真を敬愛していて、それが『Pavement』のひとつの強みになったと思う

Cate Blanchett. Photography Peter Gold. March 1999.

思い出深いストーリーや写真、エディトリアルはありますか?
バーニー:思い出すたびに悔しくなる表紙がふたつある。でも失敗があってこそ生まれる色彩の幅みたいなものがあると思う。僕たちは一歩一歩成長してきた。でもやりたいことはずっと変わらなかったね。
グレン:スーパーモデルを起用した表紙にはいつも特別な楽しさがあった。イタリア版『Vogue』の表紙に出ているモデルが、僕たちのスタイルで僕たちの雑誌の表紙を飾ってくれるのが嬉しくてたまらなかった。もっとも記憶に残っているのは、プラシーボやエラスティカを撮影するためだけに西海岸のビーチまで行ったこと。プラシーボのブライアン・モルコが、ピハ・ビーチの岩の上に立って、押し寄せた大きな波でずぶ濡れになっている写真があるんだけど、あれが気に入っているよ。
バーニー:雑誌の文章量については言い争いが絶えなかったね。ある夜、オフィスでグレンは僕が書く文章の長さについて文句をぶちまけ始めた。僕は手近なところにあった大きめのポケット辞書を投げたんだ。するとそれがグレンの頭に命中してね! 彼は自分の部屋に戻っていったんだけど、すぐにグレンの爆笑が聞こえて、僕も大笑いしたよ。

Leonardo DiCaprio. Photography Hugh Stewart. March 1997.

パーティについていくつか逸話を聞きました。詳しく教えてもらえますか?
バーニー:巨大パーティはいくつもやったよ。オーストラリア・ファッション・ウィークのパーティをオックスフォード通りの<Q-Bar>でやったりね。当時は知らなかったけど、その頃シドニーで『マトリックス』の撮影が行われていたんだ。俳優のローレンス・フィッシュバーンが撮影の合間にパーティに来てくれてね。いいひとだった。すごく背が高かったよ。
グレン:マッシヴ・アタックやマリリン・マンソン、インターポールなど、ニュージーランドを訪れているミュージシャンのためにパーティを開くこともあった。特に嬉しかったのは、『Pavement』のパーティにジョニー・ロットンが来てくれたこと。イメージ通りの不遜さが痛快で、彼が煙草を口にくわえたとき、カメラマンのひとりが火を点けてあげようとすると、「うせろ平民!」と言い放ってたよ。

Shalom Harlow. Photography Regan Cameron. September 1994.

『Pavement』を出版しているあいだ、文化背景はどのように変化しましたか?
バーニー:広告の人間がすべてに関係してくるようになったね。ファッション・ウィークが、デザイナーの時間とマーケティング予算の大半を占めるようになっていったのもあの時代。音楽も根本から変わったね。写真もデジタルになっていった。90年代に、僕たちが撮った写真はすべてフィルムだったけど、フォトシートやプリントをひとつひとつ丹念にチェックするのが楽しかったね。デジタルの誕生は劇的な変化をもたらしたよ。
グレン:僕が変化に気づいたのは2000年代初頭だった。90年代には物事の固定概念がどんどん変化して、オルタナティブのクリエイティブ・シーンが進化を続けていた。自分たちがその一部になっている実感があった。まだあの頃は、真にオリジナルであることもできたし、個々の美的感覚や経験が、ひとを唯一無二の存在として打ち出すうえで重要な要素になっていた。若者文化をマス市場へと押し上げたのが、僕たちのようなオルタナティブのメディアだったというのは、皮肉なことだね。

Thandie Newton. Photography Derek Henderson. November 1995. 

最終的に『Pavement』を廃刊に導いたものは?
グレン:辞書を投げつけられるのにうんざりしたから!

Russell Crowe. Photography Derek Henderson. March 1996.

Credits


Text Briony Wright
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.