ジェレミー・スコット ファッションに生きた20年

カンザス州の小さな田舎町から、煌びやかなパリへ——その後、NYを経てロサンゼルスへと渡り歩いたジェレミー・スコット。彼は単なるデザイナーではない。ファッションの鼓動そのものなのだ。カール・ラガーフェルドに「唯一考えうる後継人」と言わしめた彼のキャリアをここに讃える。

by Ben Reardon; photos by Marcus Mam
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20 September 2017, 2:26am

ジェレミー・スコットは生命力の体現者だ。ネオンカラーにキラキラと輝くリボンがかけられた箱、ポジティブさと愛、光、健康、富、そして幸せを詰め込んだ、プレゼントのような存在だ。後ろ髪だけ伸ばしたマレットヘアやスポンジボブをファッションにまで昇華させたのも彼だし、あのデヴォン・アオキを発掘したのも彼だ。ミニマリズムが席巻していたパリのファッション界に、白人的で退廃的なアメリカーナの世界観——ウータン・クランのTシャツ、フィンガーウェーブのヘアスタイル、トラムライン、ジュディス・ライバーのハンドバッグ、金歯など——を持ち込み、大きな衝撃を与えた。ビョークともカール・ラガーフェルドとも仲が良い。バービー人形の衣装も手がけ、『バットマン』に登場するハーレイ・クインや、『セサミストリート』などでおなじみのミス・ピギーの衣装も作り出した。また、ラリー・クラーク監督の映画『ワサップ!』に特別出演し、自身の半生を題材にしたドキュメンタリー『ジェレミー・スコット:人を仕立てるデザイナー』も制作されている。ファッション界にミッキーマウスやマクドナルドを持ち込み、adidasのシューズやアパレルをデザイン、現在はMOSCHINOのクリエイティブ・ディレクターとして活躍している。これまでに衣装を手がけたポップスターは、ビヨンセからジャスティン・ビーバー、マイリー・サイラス、リアーナなどトップ級ばかり。そして、マドンナを「主要なコラボ仲間であり友達」と呼ぶ。

先日ジェレミー・スコットは、自身が立ち上げたブランドJeremy Scottの創立20周年を祝った。マドンナの娘ローデス・レオンやニッキー・ミナージュ、パリス・ヒルトンが観客席で見守るなか、ランウェイにリバティ・ロス、ジジ・ハディッド、そしてもちろんデヴォン・アオキなど、ジェレミーがミューズとしてきたモデルたちが躍り出た。ジェレミーは誰も無視することなどできない彗星のような存在だ。人生に対する飽くなき情熱と好奇心は、彼が作り出してきた圧倒的な作品と同様、まっすぐで感動的ですらある。彼のクリエーションは一見、ディズニーランドのようなおとぎ話を彷彿させるが、セクシーな腰ふりダンスや、暴れ馬に乗るロデオの要素を楽観的に加えている。

新たに居を構えたロサンゼルスのスタジオの外で、ブザーを鳴らす。外は43℃という記録的猛暑。勢いよく開いたドアから出てきたジェレミーの姿は、20年前とまったく変わらない。『ドリアン・グレイの肖像』のように、階段の左手にある壁には額装された写真が飾られている。聖セバスチャンのポーズをきめた20代のジェレミーの写真だ。自転車のチェーンで木に縛り付けられたジェレミーには矢が刺さり、腰巻きはマドンナのTシャツ、あらわになった肩にはマレットの後ろ髪が触れている。この写真、なんとカール・ラガーフェルドによって撮られたものだ(!)。大きなアール・デコ調の建物の中、ジェレミーのスタッフはまだ社外秘のMOSCHINO最新コレクションの最終準備に追われている。わたしたちは階段をのぼり、キャデラックのソファ、巨大なルーフガーデン、アート本やファッション誌に溢れた図書室を通り過ぎて、ジェレミーのオフィスへとたどり着く。部屋にはトリ・スペリングとアーシア・アルジェント出演の短編映画『Starring』冒頭に登場した磁器製ジェレミー像と、MTVのムーンマン像が置かれている。フェイクのヒョウの敷物の上を歩き、建築家エットレ・ソットサス作のランプに照らされた新品のデスクにジェレミーと向かい合うと、彼の肩越しにみた山に、あの「Hollywood」サインが見える。

20年前の駆け出し時代から素晴らしい現在まで、思い出を語ってもらいながら、ジェレミーが築き上げてきた功績をここに祝福したい。いつまでも吠え続けて、ジェレミー!

<パリへ移り住んだことについて>
「ファッションが生まれる場所に行きたい。パリに行きたい!」って言ったら、母は「フランス語も話せないし、向こうに知り合いがいるわけでもない。お金もないのに……住む場所はどうするの? バカなこと言いだして」って言ったんだ。でも僕は「ママ、悪いけど僕は行くね」って。パリに着いた初日はいまだに覚えているよ。飛行機を降りて、市内のアパルトマンに荷物を置いて地下鉄に乗ったら、声をかけられたんだ。ジャン=ポール・ゴルティエのモデルをしていたひとが「君の格好、最高だね。週末にパーティを開くからおいでよ」と言ってくれた。地下鉄を降りて地上に出て、街を歩いていたら、今度はドイツのテレビ撮影隊がいて「君を撮ってももいいかな? 君の格好が気に入った!」って声をかけられた。「もちろん!」って答えたよ。それから次にギャラリーに入ったたら、写真家が近寄ってきて「雑誌を作っているんだけど、ぜひとも君を特集したい」と言ってくれて。「どうなってるんだ!」って思ったよ。パリに到着した日のできごとだよ。パリとは馬が合うと思ったね!

<自分自身でやってみるということについて>
誘われたパーティに行くと、モデルで、パーティのプロモーターもやっているアクセル(Axel)と知り合った。アクセルは楽しいひとで英語も話せたし、スタイルもクールで、僕に興味を持ってくれた。アクセルはその後、パーティ要員として僕を何度も雇ってくれて、僕は当時気に入っていた王冠を頭につけてパーティに参加していた。お金をもらってパーティに行って、楽しい時間を過ごしながら友達も増やせるっていう生活。ひとの家の床に寝て、なぜファッション界で働くチャンスがもらえないのか、チャンスさえ与えられれば絶対にブレイクできるのにって、いつも文句ばかり漏らしていた。するとアクセルが「そんなに才能があるなら、自分でやってみればいいんだよ」って。そう言われたから、自分でショーを作ったんだ。いまの僕があるのはアクセルのおかげ。彼は自分の一言がそれほど大きな意味を持ったなんて知らないだろうけどね。会場を見つけてくれた友達、照明を作ってくれた友達もいた。クールなひとたちとたくさん知り合っていたから、モデルは彼らにお願いした。周りにいたすべてのひとが関わってくれてできたショーだった。ルックの数は25か30ほど。インターネットが普及する前で、僕のショーはフランスでテレビ放送もされたんだ。2回目のショーをやったら、Venus de la Modeの「ベスト・デザイナー賞」に選ばれた。

<デヴォン・アオキについて>
3回目のコレクション「ホワイト・ショー」ですべてが変わった。デヴォンにとっては初めてのショーだった。i-DかThe Face(両方だったかも)に出ていたデヴォンを見て、心を奪われたんだ。友達に頼んで、彼女の事務所に1ヶ月間、毎日電話をし続けてもらったよ。「このショーにはデヴォンが絶対に必要なんです」って。デヴォンは当時13歳。ロンドンからお母さんと一緒にユーロスターで来てもらわなくちゃならなかった。現れたデヴォンは可愛くてね! 一目惚れだったよ。すでに彼女の虜ではあったけど。だって、あのコレクションはデヴォンを基にして作ったものだし、彼女がミューズだった。彼女じゃなきゃダメだった。彼女があのコレクションの中心だった。あれがデヴォンと一緒に手がけた最初のショー。そして今も、これからもずっと一緒。

<カール・ラガーフェルドについて>
Chanelのショーで音楽を担当しているミシェル・ゴベールと一緒に仕事をしたら、カール・ラガーフェルドがゴベールに僕への言伝をするようになった。ラクロの『危険な関係』みたいだったよ。4回目のショーの後、カールがデヴォンをモデルに起用したいと伝えてきた。僕のミューズを起用したいって。デヴォンはChanelで広告キャンペーンに起用されて、それからは彼女を通してやりとりをするようになった。ようやくカール本人と対面できたのは、i-Dの共同創始者テリー・ジョーンズのおかげ。テリーは「『Elevator』特集号を作っているんだけど、君のポートレイトは誰に撮ってもらいたい?」と訊かれたんだ。それで「カールがいい」と答えたよ。テリーはそのアイデアを気に入ってくれて、カールに問い合わせてくれた。するとカールは、僕とデヴォンと一緒にセルフ・ポートレイトを撮りたいと提案してきたんだ! そこで、Chanelのクチュール・ショーを訪れた。ジュディス・リーバー作のテディベア・バッグを持って、エレベーターに乗ってポーズをきめた。そこからはカールが撮影のたびにスタジオへ呼んでくれて、スタイリングをさせてくれたり、他のスタイリストが仕事をしているのを見ながら僕の意見を求めたり、僕やデヴォンの写真を撮ったり——Chanelのショーに呼んでくれて、一緒に座ってフィッティングの様子を眺めたり——大興奮だったよ!」

<ファッションへの忠誠心について>
テリー・ジョーンズと出会ったのはいつだったか? 難しい質問だね。「両親に初めて会ったのはいつ?」って訊くようなものだから。出会った当時、テリーは「君は新世代のパンクだ」と言ってくれたんだ。僕は「ほかの誰に言われてもなんてことないけど、テリーが言ってくれるのは嬉しい!」と思ったね。ホワイト・ショーを発表する数日前にイザベラ・ブロウが僕のところに来てくれたんだけど、それから僕はイザベラと数々の素晴らしいときを過ごしたよ。彼女は僕を大いに応援してくれてね。服を注文してくれて、僕の名前をいたるところで売り込んでくれた。彼女は偉大なパトロンで、アーティストを育てあげることに情熱を注いでいた。クリエイティブだと感じるアーティストがお金を必要としていれば、惜しみなく自分のお金を与えるひとだった。私欲がなくて、多少の貧乏も厭わないで「クリエイティビティを支援していきたい」というひとだったんだ。彼女の家によく遊びに行ったよ。イザベラは僕の助けになりそうなひと、素材を提供してくれそうなスポンサーなんかを思いつくと、そのひとの家まで行ってドアを蹴破る勢いで迫った。彼女はできるすべてのことをやってくれた、真に偉大な支援者だった。僕はイザベラのようなひとがいるからヨーロッパに移り住んだんだよ。

<アメリカ的グラマラス、そしてアメリカへの帰国について>
アメリカ版『Vogue』誌の企画で写真家マリオ・テスティーノとのポートレイト撮影があって、ロサンゼルスに来た。フランス版『Vogue』の元編集長カリーヌ・ロワトフェルドの誕生日ということで、マリオはシャトーのバンガローでパーティを開いた。そこでケイト・モスと知り合い、一緒にディズニーランドに行った——そんな一連の体験は、すごくグラマラスだった! ハイファッションのグラマラスな世界観を、アメリカで体験した——ふたつの世界がひとつになったように感じた。ハリウッドはとてもグラマラスで、すぐに心を奪われたよ。すぐにまたロサンゼルスを訪れたけど、あれ以来ハリウッドは僕にとって空気のような、酸素のような存在になった。パリに戻ると、カールがドイツ版『Vogue』のためにデヴォンと僕の写真を撮ることになっていた。現場でカールが僕を見て「目が悲しそうだ。どうしたんだい?」と訊いた。「アメリカが恋しい」と答えたよ。どう考えても、パリを離れるのは現実的じゃなかったけど、心はアメリカに帰るべきだと訴えていた。「わたしの後にChanelを継げるのはジェレミーしかいない」ってカールは周囲に話してくれていて、僕は世界の頂点にいた。僕はカールと、不思議なことに誰もが羨む友情を築いているんだ。当時、僕はフランスで自分の番組まで持っていて、すべて順風満帆に進んでいた。だけど小さな箱に押し込められているみたいに感じたんだ。カールの後継人になんて、まだなれない——僕らしくいることすらままならないのに。どんなオファーを受けるにしても、まだ自分という人間が追いついていない。まだ自分自身すら確立できていなかった。そう確信したから、当時のシーンから退いて、自分の新たらしいシーンを作り出したんだ。

<ビョークとマドンナについて>
3つ目のコレクションを発表した後、ビョークとマドンナが僕の服を着てくれるようになった。ビョークからはいきなり連絡があって、ツアー衣装の依頼を受けたんだ。「ホモジェニック・ツアー」でビョークが着た衣装はすべて、あのアイコニックな羽根つきドレスも含め、僕が作ったもの。マドンナは僕がまだパリにいたころから僕の服を着てくれていた。それから、カイリー・ミノーグもね。カイリーは最高にクールで可愛いひと。アルバムのヴィジュアルに、僕が作ったシフォンの服を使ってくれたよ。子どもの頃から好きだったひとたちと、駆け出し時代から仕事をする機会に恵まれていたんだ。まだ学生の頃にカイリーの「ロコモーション」を聴いていたし、ビョークが在籍していたシュガーキューブスのライブは、僕が初めて行ったライブだった。マドンナのライブは僕がニューヨークに移り住んで初めて行ったライブだったしね。でも、リアーナやケイティ・ペリー、マイリー・サイラスといったアーティストたちは、その逆なんだよね。彼女たちは、僕の服を見たり着たりして育った。あるイベントのときにケイティが来て「あなたはわたしのお気に入りデザイナーなの! いつかコスチュームを作ってもらえるようになる!」って言ってくれたんだ。リアーナはまだトリニダード・トバゴから渡米したばかりの少女で、まだ彼女らしさ確立できていない頃だった。デビュー間もない彼女にスタイリングしてあげたり、服を作ってあげたりしたんだよ。マイリーはスター子役として大衆の目に晒されて育ったわけだけど、おそらく僕は彼女を大人として扱った最初の人物のうちのひとりだったはず。マイリーは僕の服とその世界観を気に入ってくれていた。僕はケイティやリアーナ、そしてマイリーの世界の一部。彼女たちは僕の友達であり、家族でもあるんだ。

<マドンナについて>
マドンナはもっとも敬愛するコラボレーター。マドンナを見て聴いて育ったから、彼女との関係はこれからもずっと、ほかのどのアーティストとの関係とも違うものになる。彼女は特別な存在だから当然のこと。仲間はずれにされ、いじめられ、ときには殴られていた子どもの頃の自分が、彼女と仕事をしていると癒されるような感覚があるんだ。そんな子ども時代、僕は「いつかマドンナと友達になって、こいつらに後悔させてやる」って考えてた。そうやって耐え忍ぶしかなかったんだ。いつかマドンナと友達になるって信じることで、学校での地獄の日々を耐えることができたんだよ。映画『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』の中で、マドンナはゲイのダンサーたちを愛し、ゲイのオネエ文化を楽しみ、愛してくれていた。彼女は心から彼らのことを慕い、愛しているように見えたし、『ゲイであることはクール』だと世界に示してくれていた。僕にとってマドンナは希望の星だったんだ。同級生たちにどれだけいじめられても、心だけは壊されないよう、毎日マドンナのことを考えていた。放課後のチャイムが鳴るたび、廊下のロッカーに教科書を取りに行くのが怖かった——誰かが僕を笑い者にして、物を投げてきたりして、何かしらのイヤなことがあったからね。大げさなようだけど、現実に僕はそういう学生時代を送ったんだよ。

Credits


Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.