DA YA THINK I’M LUCKY? 王谷晶

収録作のすべてが“女と女が主人公”の短篇集『完璧じゃない、あたしたち』で、多くの読者をその独自のユーモアと詩性の虜にした小説家・王谷晶。彼女は問う、「私はラッキーか?」と。

by Akira OUTANI
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17 October 2018, 11:26am

この記事は『i-D Japan No.6』フィメール・ゲイズ号から転載しました。

この原稿の依頼をいただいたとき、「ビアンなのはもうけっこう長いことオープンにしてますけど、特にドラマチックなこととか経験してないんすよ。家族や友人や仕事相手にカムアウトしてもたいしたトラブルもなかったですし。それでもよければ書きまっせ」と返事した。日本だとかなり数少ない(らしい。言われてみりゃたしかに)オープンリー・レズビアンの小説家としてオファーしてくれたのに、葛藤とか悩みとかのこっくりしたネタがなくて申し訳ねーなーと思った。

そう、私はラッキーなレズビアンだ。気ままなフリーランスなうえ仕事はなんとか食える程度にはあるし、安アパートだけど普通の賃貸住宅に住んでるし、家族との仲もまあ普通。友達も全員私のセクシュアリティを知ったうえで付き合ってくれているし、行きつけの飲み屋のマスターにまでオープンにしてる。半分引きこもりみたいにして暮らしているので、日常に大きな波風も立たない。いま恋人はいないけどまるきりモテないってわけでもないし、まったりした生活を送らせてもらっている。

私は一定以上のギャラが出る仕事は基本断らない。ので本稿も二つ返事で引き受けたはいいものの、どう書きゃいいのか悩んだ。ノルマは5000字。まあまあなボリュームである。シリアスな話はあんまし引き出しがないぞ。女にフラれたエピソードをランキング形式にして面白おかしく書くとかするかな。ワーストはやっぱあいつかな。そんなことを考えているうちに、それが起こった。

今年の7月。月刊誌『新潮45』8月号に衆議院議員の杉田水脈氏が「『LGBT』支援の度が過ぎる」と題する文章を寄せた。そのなかで氏は、LGBTは子どもを産まない、つまりは“生産性がない”存在なのだという旨の持論を展開した。

そのニュースを読んだとき、まず「マジか」と思い、次に「あーね」と思った。またか、みたいな気分だ。実は瞬時には怒らなかった。いや、怒れなかった。杉田議員の思想、発言そのものはぜんぜん珍しいものではない。現役の国会議員が大手出版社から出てる月刊誌でぶちまけるというのはアホの極みもいいとこだが、こんなやつそこらへんに掃いて捨てるほどいる。私も何度も直接・間接問わず相対してきた。でも、忘れてたんだ。無視してた。それらをいちいち心にとどめておくと、しんどいから。だから、すぐには怒れなかった。

私が忘れていたあいだも、そういう連中はこういうことを周囲に振りまき続けていた。当たり前のように。そして素人の床屋談義を通り越して、議員が堂々としゃあしゃあと公言するようになってしまった。誰にも諌(いさ)められずに。自分のしんどさや恐怖や怒りの一部をマヒさせておいたことを、ちょっと後悔した。臆病でヘタレがちなMyメンタルを守るためとはいえ、意識的に目を逸らしていたのと同じだ。だから抗議デモをやると知ったときは秒で参加を決意した。

7月27日。地下鉄に乗ってひとりで自民党本部前に向かった。デモや抗議に参加するのは初めてではない。でも、今まででいちばん緊張した。駅から出る前に某社の担当編集者に「万が一パクられたら身柄の引き受けお願いします」と連絡し、弁護士の電話番号を頭のなかで暗唱しながら現場に向かった。ネットや他のデモで非国民と言われたり侮蔑の意味でサヨクと怒鳴られたときでも、こんなにビビらなかった。

国会議員に非生産、と公言されたことに、思ったよりダメージを受けてる自分に気づいた。ブルッてんじゃねえよ、っちゃあすぞタコ、と北関東育ちのヤンキー魂(シャバ僧でしたが)を総動員してなんとか現場に向かった。

私が到着したときにはすでに大勢の人が集まっていた。猛暑の続いた週だったが、ほどよく風があって過ごしやすい夜だった。セブンイレブンでネットプリントしたプラカードを持って、抗議の列に並びながら周りから聞こえる話し声に耳を傾けた。友達同士で、カップルで来てるとおぼしき人たち。今回の件について話してる人もいれば、身内の噂話でキャッキャしてる人たちもあり、全体的になんか明るい雰囲気であった。

そっか、ここに集まってるの、たぶんヘテロの人のほうが少数派なんだよな。普段二丁目とか行かないしプライドパレードにも出たことないので、そう思うと不思議な気分になった。帰属意識みたいなものが全般的にとぼしいので「みんな仲間だ!」みたいなテンションにはならなかったが、緊張が少し和らいだ。

いろんな人のスピーチを聞いて、コールをがなりながら、ふと親の顔が浮かんだ。両親は結婚しろ孫の顔が見たい系の話を私に一度もしたことがない。カムアウトする前からそうだったので、たぶん本気でそのへんはどうでもいいと思っているのだろう。私も自分の子どもを持つことにはぜーんぜん興味がない。それがセクシュアリティに関係しているのかはわからない。たぶん違う。周りのヘテロの女たちも、出産や子育てには興味ないやつのほうが多い。けれど私ら女の肉体を持っているものは、「産むやつ」の頭数に勝手に入れられてしまう。誰に? 世間様に。それってかなり相当、めちゃくちゃゾッとする。「そんなこと言ってホントは好きなんでしょお〜〜」ってキモオヤジににじり寄られているような気分だ。産まないっつってんだろ。こっちくんな。それでも相手がキモオヤジ程度ならまだいいが、国会議員とか政権与党となると話がまた違ってきてしまう。

私は「生産的な市民」として世間様に認めてほしいわけではない。非生産上等だ。けど権力が、ある属性の人間を勝手に「生産」「非生産」で選り分けたときにどんなことが起こるか、わずかながら知っている。学校で習った。歴史の授業で。人が死ぬのだ。だからビビッた。こいつはいざとなったら殺してもいいやつ、って言われたのと同じだから。

杉田議員の発言は当事者、つまりゲイやビアンやバイやトランスやクィアの人のあいだでも話題になった。当たり前だけど、非シスヘテロの人間も一枚岩ってわけじゃない。例の原稿に賛同する当事者も何人かネット上で見た。なかでも、「自分は日本で同性結婚式を挙げた。だから日本はいい国、差別とか言って騒がないで」という旨のゲイ男性のツイートがたくさんリツイートされていた。

彼はラッキーなゲイなんだなと思った。パートナーに恵まれ、結婚式を挙げられて、仲間にも祝福されてハッピー。だから日本でLGBTをやってくのはハッピーでラッキーだよ。そう言いたかったのだろう。間違っちゃあいない。その人個人には世界がそう見えてんだろうから。

でも私は、ラッキーなレズビアンなのに、彼の意見に賛同できなかった。なんでだろ? 私だって日本でハッピーかつラッキーにやってるはずなのに。気ままなフリーランスで(バイトも派遣もちょっと長く勤めると合コンに誘われたり男の上司にセクハラされるので逃げるように短期で辞めてばかり)、安アパートだけど普通の賃貸住宅に住んでるし(大家は当然私のセクシュアリティを知らない)、家族との仲もまあ普通(今はね。昔は酷いこといろいろ言われた。もうお互いトシになって喧嘩するのも疲れたんだ)。友達も全員私のセクシュアリティを知った上で付き合ってくれているし(離れていった友達もたくさん)、行きつけの飲み屋のマスターにまでオープンにしてる(一軒だけ)。半分引きこもりみたいにして暮らしているので、日常に大きな波風も立たない(他人とかかわらなけりゃそれだけ安全)。いま恋人はいないけどまるきりモテないってわけでもない(もう5年くらいシングル。どこで出会えばいいのかもわからん)。なのに、かのゲイ男性みたいに「ニッポンサイコ〜〜!」って、言えない。

キレイなドレスやスーツで同性間で結婚式を挙げたって今の日本じゃ法的には何も保障されない。テレビでは「オネエタレント」が笑い者にされ、さらにその人たちが女を「ブス!」とか言って笑いものにしている。レズビアンタレントはテレビにはほぼ出てこない。ネット上でレズビアンを公表するとヘテロ男性からセックスに関する下卑(げび)た質問がばんばん飛んでくる。カムアウトしたゆえに頂いた仕事も数多いが(本稿とか)一切注文が来なくなった版元やジャンルもある。

私は「ラッキーなレズビアン」なのか。だんだんその自認が揺らいできた。「しょうがない」と思ってたことが実はぜんぜんしょうがなくないって、ほんとはずっと前から気づいてたんじゃないのか。人を選んでカムアウトしなくちゃいけないのも、そもそもセクシュアリティのカムアウトなんてシスヘテロのみなさんが考えもしなかったことをするべきかせざるべきか悩まなきゃいけなかったりとか、そういうのもろもろグルグルひっくるめて、しょうがないと諦めてきたけど、なんで諦めなくちゃいけないんだっけ。ただ女が好きなだけなのに。

昔、某エンタメ大会社の社員さんに目の前で「ゲイの人なんてそうそういるわけないでしょ。俺見たことないもん」と言われたことがあった。めったにいないものだから、LGBT向けのサービスがあるかないかなんて気にしなくてもいい。そういう話の流れだった。Twitterの自分のアカウントでカムアウトしようと思ったのはそれがきっかけだ。何も言わなかったら、いないことにされるんだと理解した。何も言わなかったら勝手にシスヘテロで結婚して子どもを産みたがっているイケメン好きのおばさんという箱に入れられてしまうし、何も言わなかったら購買層としても認識されないしいろんなサービスも受けられない。黙っておとなしくしていたらマジョリティ様が万事悪くないように取り計らってくださるなんて、ありえないことだ。

声をあげられない人、あげたくない人、現状維持でいいと思ってる人、オープンにしたくない人も当然いるだろう。それは尊重するけど、自分以外の人間の口を塞ごうとしないでほしい。今のままで自分はハッピーでラッキーなんだとことさらに喧伝するのも、他人の怒りを封殺する方向に働くことがある。

しばらく考えて、私は自分が「ラッキーなレズビアン」じゃないことに気がついた。職を奪われなかったことを「運が良かった」と思っちゃいけない。実家を追い出されなかったことを「家族の理解があった」と感じちゃいけない。友達がいることを「周囲に恵まれてる」と感謝しちゃいけない。大家にセクシュアリティを明かさずアパートを借りていることを「うまくやった」と自慢してはいけない。ゲイバー以外の店で「ちゃんと酒を出してもらえる」のを喜んではいけない。

何より、同性愛者であることで殺されなかったことを「ラッキー」と言ってはいけない。ごく若いころ、レズと罵られながら殴る蹴るされたことがある。怪我もたいしたことはなく後遺症も残らなかった。私はそれを「ラッキー」にカウントしていた。ぜんぜん違う。ラッキーでもなんでもない。あんなこと起こっちゃいけなかったんだ。

殺されなくて運が良かった、と言うのは、同じ条件で殺されてしまったひとたちが「アンラッキー」ってことになってしまう。それは間違ってる。殺されなかったことを「ありがたい」と思わなきゃいけなくなるから。私はラッキーではない。私がラッキーであってはいけない。これは幸運ではない。誰かに与えられ許諾され庇護されおめこぼしされ下賜(かし)されたものではない。私は幸運ではない。まったくラッキーではない。ただ、生活してる。ただただ生活している。それがラッキーになってしまうのなら、そんな世の中はクソくらえだ。私はもう二度と自分をラッキーとは言わない。