『鳥類学者』:ジョアン・ペドロ・ロドリゲス監督インタビュー

ロカルノ国際映画祭2016で監督賞を受賞したJ・P・ロドリゲス監督の最新作『鳥類学者』。ポンポドゥーセンターで大規模な特集上映と展覧会を行なうなど世界的に注目を集める気鋭監督に、Indie Tokyo主催の大寺眞輔がインタビューを行った。

by Shinsuke Ohdera
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19 December 2016, 7:50am


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『鳥類学者』は冒険映画であり、ロードムービーのように場所を移動し続ける作品ですが、同時に時間的にも現代のポルトガルから過去へと遡行します。
主人公フェルナンドは、希少な鳥を観察するため、ポルトガル人でさえよく知らないポルトガル北部の深い森を一人で旅しています。ここで表そうと思った第一の特徴は、彼が"宿無し"だということです。フェルナンドは現代のポルトガルを生きる鳥類学者ですが、同時に映画の中では殆ど宿無しと同じなのです。人の手が何世紀も及んでいない原始の森が彼の家になっている。そして、フェルナンドはカヌーで旅しますが、彼が行くのは聖アントニオが生きていた時代に流れていたままの川です。彼の冒険は、映画に映る現実として、12世紀にポルトガルで生まれ13世紀にイタリアで死んだ聖アントニオの時代と同じ風景の中で起きるわけです。そしてフェルナンドは自然の中で自分を見失い、様々なものから解放されていく。その姿を描くことが『鳥類学者』の大きな主題でした。

現代はグローバル化の時代ですが、その中でローカルな森を舞台に選んだのはなぜでしょうか?
"グローバルな世界とローカルな場所"という対立を超えたいという思いはありました。現代のグローバル化は、既存のすべての価値観を危機にさらします。それに対し、まだ個人に変化が許されていた時代、人間が変化することが許されていた時代へと戻る一種のタイムトラベルをこの作品で描いたつもりです。この映画の最初の発想は、ウェスタン(西部劇)を撮りたいというものでした。個人の創意によってまだ新しいものを作りうる時代、開拓の時代へと主人公が戻っていく。彼を取り囲む深い森は、現代の私たちが知っているポルトガルの風景から、精霊や神話がまだ生きていた時代の森へといつの間にか姿を変えているのです。
この映画のもうひとつの主題は聖アントニオの人生ですが、私自身は聖人を信じていません。私の両親は科学者で、ポルトガルはキリスト教国ですが、洗礼も受けていないのです。現実性に立脚した考え方をする家庭で育ったと言えます。しかし同時に、私は人間が変化する能力を秘めていると信じています。そして、人間が自然の中ですべてを失いながら変化することで彼が聖人へと近づく、あるいは聖人そのものとなることを描けるのではないかと思いました。実際、聖アントニオが起こした奇跡と言われるものは、全て彼が亡くなった後に書かれたに過ぎません。誰も、彼が実際に何をやったか知らないのです。聖アントニオは、まさに現代を生きる私たちのフェルナンドと同じような人だったかもしれない。あるいは、フェルナンドをそのまま聖アントニオへと変化させることができるかもしれない。そのためには、過去から現在までずっと変わらぬ姿でそこにあり続ける風景が私には必要だったのです。

フィクションの世界への通路はローカルな場所にこそ存在するのでしょうか?
私が2012年に撮った短編『聖アントニオの朝』は、同じくリスボンの聖人である聖アントニオを主題とした作品でした。ここで、ある女性がスマホの画面を見ながら湖へと沈んでいく姿を私は描いています。現在から見ると、これはほとんど「ポケモンGO」のようです(笑)。私自身は「ポケモンGO」をやったことはありませんが、自分の作ったフィクションやファンタジーから生まれたものが、こうやって現実とつながりを持つのは奇妙なものです。そして、スマホのようなコミュニケーションツールが、逆説的に人を孤独へと導くことがこの作品のひとつの主題でもありました。孤独や個人のファンタジー、フィクションはローカルな場所にもグローバルな場所にも存在するのではないでしょうか。
実際、グローバル時代の恩恵を受けることで、私は世界中を旅して回る生活を送っています。映画祭に招かれたり、映画を撮影したり、あるいはプライベートでもよく旅行します。その旅の中で様々な人と出会い、様々な体験をします。様々なものを見て、そしてこれらすべての断片が私を作り上げているのです。断片と言いましたが、私は旅行者としてこれらのものを発見します。現地の人々のように、それら本来の文脈で理解してはいないかも知れません。しかし逆に本来の文脈から切り離された断片として、私の中で新しい結びつきを驚きの目で見つけたり、生み出すことができるのです。例えば、2013年にレトロスペクティブで日本に来たとき、私は京都の鞍馬山へと足を伸ばし、そこで天狗の存在を知りました。天狗は『鳥類学者』を作り上げる際に大きなモチーフのひとつとなりました。
『鳥類学者』には様々な宗教や神話の断片が登場します。聖アントニオはそのひとつですし、ギリシャ・ローマ時代の神話やディアナ神話、さらにまだ宗教が確立していない時代の若者たちの儀式や日本の天狗まで登場します。これらは全て、その本来の文脈の中で存在するのではなく、私が作り上げるひとつの大きな神話学の一部を構成しているのです。天狗の引用は日本で目にしたイメージに基づいていますが、その伝説自体は中国にもあります。だから、あの映画に登場する2人の中国人女性は天狗を森の精だとして怖れるのです。さらに、中国人女性を登場させるのは、私がジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタと一緒に作ってきた『チャイナ・チャイナ』や『追憶のマカオ』といった作品からの自己引用でもあります。そこにもまた、私自身の神話学があるのです。

あなたの神話学を構成する断片を拾い上げるとき、それが西洋のものか東洋なのかということは意識されますか?
様々なイメージの断片は、全て同じ資格で私の森に住み着いており、私の世界の住人です。私の人間性を作り上げる要素なのです。そこに分け隔てはありません。同時に、私がこのように言うことは、本来の宗教的文脈やイメージに対し、偶像破壊として機能する面もあるでしょう。
私は、両親からキリスト教を学ばされることはありませんでしたが、宗教画を学んだことがあります。これは私にとって非常に重要なことで、宗教画から影響を受けていることは否めません。例えば、カラヴァッジオの宗教画は私にとって深い意味を持っていますが、それらは教会から拒絶されたものです。そして彼の絵画に代表されるように、宗教画にはエロティックな要素もあります。エロティシズムは私の作品にとっても非常に重要な要素になっています。
また、私は映画監督になる前に鳥類学者を目指していた時期があります。この意味でも、『鳥類学者』は私にとって自伝的な作品です。ここには、パーソナルな想いが投影されていると言って良いでしょう。


こうした断片やパーソナルなイメージを通じて、あなたは現実をフィクションへと変えるのでしょうか?
先ほどお話ししたように、私は現実主義的な家庭で育ちました。しかし、現実性に軸足を置きながらも、人はどこかで聖なるものやファンタジーを求めるのだと思います。わたしの場合、それが宗教画や映画でした。それらが現実をファンタスティックなものに変えてくれます。そして、その橋を渡るのが映画監督という職業の特権です。
あるいは逆に、映画ではたとえ現実にないものを描いても、その画面の中では具体的に存在する現実になります。そして、そのもうひとつの現実を作り上げるフィクションが、私の場合、私自身の神話学なのです。聖書は何度も書き換えられ、様々な人が作り上げたフィクションに満ちています。同様に、私もまたフィクションに満ちた私自身のパーソナルな神話を元に、映画という現実を作り上げていると言うことができるかもしれません。

映画はパーソナルな世界と深く関わるメディアなのでしょうか?
基本的に、映画とはパーソナルなものだと私は思います。それは、私がどのように世界を見るかをみなさんに伝えるためのものです。その監督の人間性や世界観がどのように表出されているか、そこに私は興味を感じます。現在の映画は過剰にスペクタクルになりすぎています。こうした傾向に対する反抗の気持ちもあり、ポンピドゥーセンターから依頼されて作った私の最新作はスーパー8で撮りました。あまりに人工的になりすぎた現在の映画に対するひとつの抵抗がそこにはあります。また、その作品ではナサニエル・ホーソーンの『あざ』やヘンリー・D・ソローの『ウォールデン』を引用しています。あざとは身体に受けた刻印であり、パーソナルなものです。あるいは、パーソナルな身体性や作家性が現実に残した刻印と表現することもできます。

身体性もまた、あなたの作品のきわめて重要な側面です。
映画で最も重要なのは役者であり、その身体だと私は思います。役者をどう動かすのか、そしてどんな言葉を彼あるいは彼女は話すのか、私はそれをただ指示している存在です。役者の身体が出てくることで、映画には大きな緊張感が生まれます。役者を撮影するとは、その一部を切り取ることなのです。その身体をイメージとして切り取ってフィルムに残し、生きてきた人生の一部を具体的時間として奪い取る。だから、監督は役者として撮影する相手を人間として深く知らなくてはいけない。その人が何を考え、どのように世界と向き合っているか、それを理解してなくてはいけないのです。そして、その作業の中で監督である自分自身の想いもまた映画に投影されるのだと私は思います。
一方、役者に対する想いの中には、相手をただ見つめたりその考えを消化しようとするものばかりではなく、相手をもっと知りたいという欲望や、相手を支配しようとする監督側の欲望もあります。この欲望こそが緊張感を生み出し、映画にリアルなものやエロティシズムを生み出すのです。見る芸術である映画には、本質的にエロティシズムが含まれると私は思います。役者の身体やその人生と向かい合う中で、欲望が生まれ、エロティシズムが生まれ、緊張感が生まれ、私自身が投影され、私自身の神話学が生まれていく。こうした作業のすべてが、私にとって映画を作ることの意味なのです。

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Credits


Text Shinsuke Ohdera
Photography Kisshomaru Shimamura

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