世界の闇を見た少年はラッパーに転生する:釈迦坊主 インタビュー

個性もてんでばらばらな変わり者たちが、今東京で新たな音楽シーンを築こうとしている。 その中心にいるのがラッパーの釈迦坊主だ。彼は言う、「一人ひとりがヒーローたれ」と。

by Ryo Isobe; photos by Riku Ikeya
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05 May 2019, 2:19am

「釈迦さま、尊い!」。満員のフロアから上がった叫び声のなかに、そんなフレーズを聞き取ったとき、新しい時代の到来を感じた。文字面だけ見ると何やら宗教がかっているが、〝釈迦さま〟というのは、そのとき、ステージに姿を現したラッパー/プロデューサーの釈迦坊主のことだ。彼が長い髪をかき分け、美しい顔立ちが覗く様子はおおよそラッパーのステレオタイプから外れているし、〝尊い〟という表現もオタク・カルチャーで使われる称賛の言葉で、ヒップホップのライブではあまり耳にしないものである。ただし、ストリート・ファッションとロック・ファッションがミックスされたような格好のオーディエンスを飛び跳ねさせている音は、他でもない最新型のトラップ・ミュージック。自身が主催するイベント〈TOKIO SHAMAN〉の最後に登場した釈迦坊主は、確かに教祖のようにも、ヒーローのようにも見えた。

「ヒーローって好きじゃないんですよね」。しかし、釈迦坊主は言う。「子どもの頃から、『デビルマン』とか『ゲゲゲの鬼太郎』とかおどろおどろしいアニメばかり見ていたし、格闘ゲームをやるときも選ぶのはいちばん気持ちの悪いキャラでした」。1992年、和歌山県で生まれた彼は、小学校4年生のとき、両親の別居をきっかけに東京に移住する。母親はいわゆる水商売をしていたため、少年時代は夜をひとりで過ごすことが多かったという。「でも寂しいと思ったことはない。むしろラッキーだなって。〝みんな1日1時間しかゲームができないのに、オレはめっちゃできる!〟みたいな。無理矢理、ポジティブに変換していたのかもしれないですけど」

少年のなかでは内向的な性格と外交的な性格がぶつかっていた。中学生になった彼は、当時、〝ギャル男〟と呼ばれていたファションを好み、クラスのなかでも目立つ存在だったが、一方で、ヴィジュアル系バンドのディル・アン・グレイが好きであるということは、「メンヘラだと思われるから」隠していた。選択教科では仲の良いグループからひとり外れて美術を選び、黙々と「気持ちの悪い絵」を描いた。「その時間が、いちばん素の自分だったかもしれないです」。さらに一方で、「女にモテるためにはどうするかだけ考えて生きていた」彼は、16歳でホストになる。しかし、日本を代表する煌びやかな繁華街の奥に広がっていたのは深い闇だった。

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2008年、釈迦坊主は歌舞伎町にいた。法律上、ホストクラブでは18歳未満は働くことができないが、アンダーグラウンドは無法地帯であり、だからといってそこはユートピ アではなかった。女性から金を巻き上げるためにひたすらアルコールを摂取していた若者たちはストレスを溜め込み、店でいちばん若い釈迦坊主はその捌け口として、閉店後に決まって殴られた。覚醒剤が横行し、オーバードーズで救急搬送されたこともあった。派手な仕事の反動で、休日は自宅に篭ってゲームに没頭した。「それも自然と子どもの頃にやっていたゲームばかりを選んでいたんですよね。『ファイナルファンタジー』とか、〝人間は美しい〟みたいなテーマのものを。当時は闇落ちしている意識もなかったんですけど、心のどこかで〝おれ、こんなやつになりたくなかったんだよな〟と思っていたのかもしれない」;

そんななか、〝3.11〟がやってくる。2011年3月11日、14時46分。マグニチュード9の地震が起こったとき、釈迦坊主は自宅のベッドで、ホストクラブの客と寝ていた。「揺れた瞬間、自分だけ外に飛び出して走って逃げました。〝こんな奴と一緒に死にたくねぇ!〟って感じで」。やがて、日本全体が節電と自粛ムードで暗くなるなか、歌舞伎町でも看板の灯が消え、ホストクラブの営業もやりづらくなった。「仕方がなく、関東に比べるとにぎわっていた(大阪)ミナミに移るんですけど、ホストが接客で3.11のイジリっていうか、〝メルトダウン!〟みたいなギャグをやっているのを見ながら、〝こいつら心、あるのかな?〟と思っちゃったんですよ。でも、その醜い姿は自分の姿でもあった」 3.11から1ヵ月後、彼は醜い自分を対象化するように、〝釈迦坊主〟として初めて、今に通じるダークな楽曲を発表する。もともとDTMでゲーム音楽をつくることは好きだったが、合コンの相手から教えてもらった動画共有サービス〈ニコニコ動画〉にアップしたのはラップ・ミュージックだった。次第に彼のオリジナリティ溢れるスタイルは注目を集めるようになるが、ネット・ラップの現場にも、対極にあるとされるストリート・ラップの現場にも馴染めなかった。「自分はオタク気質だと思うんですけど、クラブでアニソンとかかかっても別に面白くないし、ましてやいわゆる日本語ラップの人たちの上下関係にはうんざりしましたね。そういうものが嫌でホストを辞めたのに、〝同じじゃん〟って」。やがて、釈迦坊主が始めたのが〈TOKIO SHAMAN〉だ。「ちゃんとできない奴らの集まり」と笑うが、そこは自由だからこそ、分裂的に生きてきた彼のような人間が統合される場所として機能した。

そもそも、釈迦坊主がラップを始めたのは、「これだったら、オレにもできんじゃね?」と考えたからだ。ただし、そのような軽い思いつきは、ヒップホップのサブジャンルとして始まり、今やメインになった〝トラップ〟を知ったことで確信に変わる。「トラップはコミュニケーション・ツールだと思ってます。〝そのなかでどう遊ぶか〟っていう」。フォーマットがシンプルなトラップは、だからこそ、自由に使うことができる容れ物として瞬く間に広まった。本場であるアメリカのアトランタだけでなく、今や世界中から楽曲が発表されている。 釈迦坊主が試みたのは、マンガやゲーム、ロックやオカルト、ホラーといった自分の好きなカルチャーを放り込み、混ぜ合わせることだ。「海外のギャングスタラップも好きなんですよ。でも、あの怖さに憧れて日本人がヒップホップをつくっても無理がある。対して、ディル・アン・グレイの怖さは日本独自のもの。だったら、それをヒップホップと融合させよう。もしくは、自分自身が歌舞伎町で見た闇を表現しようと」。確かにラップ・ミュージックの本質は「誰にでもできること」にある。それならば、ヒーローを崇めるのではなく、あなたはあなたの表現をするべきだろう。釈迦坊主がそうしているように。

Credits


TEXT RYO ISOBE
PHOTOGRAPHY RIKU IKEYA
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