Jimmy Paulette and Tabboo! in the bathroom, NYC, 1991, Nan Goldi

フィメール・ゲイズの古今東西

『i-D Japan no.6』のテーマでもある「フィメール・ゲイズ(女性のまなざし)」って? 写真研究者の小林美香が、女性のアーティストたちの試みからその視線をひも解いていく。

by Mika Kobayashi; as told to i-D Japan
|
nov 8 2018, 7:22am

Jimmy Paulette and Tabboo! in the bathroom, NYC, 1991, Nan Goldi

この記事は『i-D Japan No.6』フィメール・ゲイズ号から転載しました。

かつて映画論理家のローラ・マルヴィは、ハリウッド映画が男性視点の視覚快楽嗜好によって成り立つことを指摘し、 女性を性的対象化する視線を「メイル・ゲイズ」と呼んだ。 それではもし「フィメール・ゲイズ」というものがあるとしたら、それはどんなものだろうか? 写真研究者の小林美香と共に、女性の芸術家たちがこれまで行なってきた表現を辿りながら、フィメール・ゲイズの可能性を探る。

——本号は「Female Gaze(女性のまなざし)」号ですが、写真を研究する小林さんは「女性のまなざし」をどのように捉えていますか?
長い歴史のなかで、女性は見る主体というよりも「見られる対象」として扱われてきました。「女性のまなざし(フィメール・ゲイズ)」について考えるときは、「女性はどのように見られてきたのか」を振り返ることが必要ですし、「女性の」と名指す場合、どの立場からそのように呼ぶのか、ということを考えることも重要です。たとえば、表現活動に携わる女性を、女流○○(画家、作家など)という呼び方をしたり、日本では、1990年代に登場した若い世代の女性の写真家たちの活動が一括りに「女の子写真」という流行現象のように名づけられたことがありました。このような呼び方は、主流の価値観、「当たり前」とされるものの見方を作ってきた男性側が、女性を「主流から外れる」「亜流」とカテゴライズし、個人としてのあり方よりもまず、性別という属性によってステレオタイプ的に見る価値判断に根ざしていると思います。また、女性の表現活動や作品を評する際に、女性的(feminine)という言葉のなかに包含される意味合いとして「しなやか」で「繊細」な「みずみずしい」感性とか、論理的、構築的とは対照的という意味で「本能的」や「直感的」といった言葉が根拠なく常套句のように使われがちだということにも注意を払うべきです。男性中心的な価値観やものの見方が根強い社会のなかで、写真や映像を表現手段として「当たり前」とされてきた価値観に揺さぶりをかける作品を作り出してきた女性の芸術家は、社会の中での女性のあり方や、ジェンダーに関わる問題を考えるうえで重要な視点を提示していると思います。

——具体的にはどのような芸術家がこれまでに活動してきたのでしょうか?
1980年代以降、特に1990年代以降になると国際的に活躍する女性の芸術家、写真家たちが増えてきました。世代で整理してみると、第二次世界大戦後のベビー ブーム世代の芸術家が切り拓いた表現が後に続く世代に与えた影響力は大きいと思います。この世代の芸術家として、シンディ・シャーマン(Cindy Sherman,1954-)やナン・ゴールディン(Nan Goldin, 1953-)、アニー・スプリンクル(Annie Sprinkle, 1954-)が挙げられます。彼女たちは、アメリカで消費社会の拡大に伴い、郊外一戸建住宅での生活を理想とするライフスタイルの浸透や、核家族が社会的規範として定着した時代に生まれ育っています。シンディ・シャーマンは、50〜60年代の映画やドラマのような場面を作り出し、その中の登場人物を自ら演じ分けて撮影した「Untitled Film Stills」を通して1970年代後半に注目を集めるようになりますが、彼女の作品の根底には「女性らしさ」や「女性はどのように見られているのか」という視線に対する意識があります。ナン・ゴールディンは、70年代末から「拡大家族」と呼ばれる恋人や友人たちとの共同生活のなかで、ドラッグや、クィア(LGBT)カルチャーを間近に捉えた写真をまとめた写真集『The Ballad of Sexual Dependency(性的依存のバラード)』(1986)で衝撃を与えました。アニー・スプリンクルは、1970年代にポルノ映画のスターとして活動した後に、パフォーマンスアートを手がけたり、セクソロジー研究や性教育の活動をしています。いずれも、女性の性役割やセクシュアリティ、規範的な家族像に問いを投げかけたり、覆したりする活動を続けていますが、その背景には、1960年代以降に活発化したハプニングやパフォーマンスアートのような芸術運動、性革命(性的抑圧からの解放を目指す動き)、ウーマンリブ運動の隆盛のような社会的なムーブメントの影響があります。

——社会のなかでの女性のあり方をテーマにしてきた写真家としては誰が挙げられますか?
アニー・リーボヴィッツ(Annie Leibovitz,1949-)は、1970年代から数々の雑誌で著名人のポートレイトを撮影し、パートナーだった批評家のスーザン・ソンタグと共に写真集『WOMEN』(1999)を制作し、さまざまな領域で活躍する女性のポートレイトで、現代社会における女性の役割の変化を描き出しています。ベッティナ・ランス(Bettina Rheims, 1952-)は、女性のヌード写真やポートレイト写真を手がけ、トランスジェンダー、男女という性差の枠組みにとらわれない人物をモデルにした写真集『Modern Lovers』(1990)や『Gender Studies』(2014)を発表しています。数々の戦闘地に赴き取材をしているフォトジャーナリスト、スーザン・マイゼラス(1948-)は、初期作品『Carnival Strippers』(1976)で70年代初頭の旅回りのストリッパーたちを舞台裏や楽屋も含めて間近に捉え、彼女たちに向けられる視線を浮かび上がらせています。女性だからこそ、男性では立ち入ることのできない領域に入り込めたり、被写体と対話を重ねて撮影できることもあります。また、自らの出自やアイデンティティに関わる事象や場所を撮り続けることで、社会や歴史に踏み込んでいる写真家の活動も重要です。石内都(1947-)は、幼少期を過ごした軍港の街、横須賀を撮影した『絶唱、横須賀ストーリー』(1979)や、日本各地に点在する旧赤線地帯を撮影した『連夜の街』(1981)で、土地に刻み込まれた歴史と自身との関わりを見つめています。沖縄を拠点に活動する石川真生(1953-)が、70年代に黒人の米兵が通うクラブでホステスとして働きながら仲間の女性や米兵たちを撮影した写真をまとめた『熱き日々 in キャンプハンセン!』(1982)は、人種差別や基地問題、女性の性と自立など、現代にも通底する問題を描き出しています。

——ベビーブーム世代に続く世代ではどのような展開が見られるのでしょうか。
フォトジャーナリストのローレン・グリーンフィールド(Lauren Greenfield, 1966-)は、「女性への視線」というテーマを掘り下げ、さまざまな若い女性たちを取材し、幼い頃から女性らしさや性役割、容姿にまつわる価値観を植えつけられ、過剰なダイエットや美容整形に取り組み、時には摂食障害に陥ったりするような現状を『Girl Culture』(2002)にまとめています。やなぎみわ(1967-)は、パフォーマンスや演出という手法に加え、デジタル技術による画像加工を駆使し、百貨店の案内嬢の制服をまとった女性を現実と虚構が重なりあう場面に配置した「エレベーターガール」や、お伽噺を再解釈した『Fairly Tale 老少女綺譚』(2007)など、女性の生き方や加齢をテーマにした寓意的な作品を制作しています。澤田知子(1977-)は、シンディ・シャーマンが用いたセルフポートレイトの手法を展開し、作品のなかに証明写真やお見合い写真、集合写真のようなフォーマットを取り入れたり、コギャル、キャバクラ嬢のような類型的な女性像を演じたりしています。長島有里枝(1973-)は、家族とヌードで撮影したセルフポートレイトや身近な人たちを被写体とした作品で90年代半ばに脚光を集め、以来、自身と周囲の人との関係のなかから、女性であることや家族のあり方に問いを投げかけるような作品を作り続けています。自身の生活に結びついた長島の作品は、自らが見る主体として存在することの葛藤や模索の軌跡を示しています。インベカヲリ★(1980-)は2000年代半ばから、被写体になることを望んで応募してきた女性たちと対話を重ね、場面をセッティングして写真を撮ることで、それぞれの女性が抱える意識や感情を掬い上げるように捉え、写真集『やっぱ月帰るわ、私。』(2013)を発表しています。女性が女性を撮るということは、「見られる対象」としての女性の複雑な意識のありようを、差し出して見せるような側面を持っていると言えるかもしれません。

——女性が写真を撮ることに関連して、近年注目している動向はありますか?
スマートフォンの普及やSNSの浸透、自撮りの流行などによって、誰もが写真を撮ったり、見せたりするようになり、見られることに対する意識が変容しつつあると感じます。2018年の現時点で総ユーザー数10億人を超えるというInstagramはユーザーに若い世代の女性が占める割合が高く、フォロアーが多い著名人の投稿する プライベートな写真が大きな反響を引き起こしたりもします。私はここ数年、マタニティ・フォトや、出産・育児に関わる写真に興味を持って研究をしているのですが、Instagramでこれまでに1000万を超える「いいね!」数を獲得した写真が、ハリウッド・セレブで実業家のカイリー・ジェンナーの出産報告の写真(1800万以上で現時点で最多)と歌手のビヨンセのマタニティ・フォト(1100万以上で第2位)であることはとても興味深いことだと思います。つまり、今やSNSは個人的なコミュニケーションツールであると同時に公的な情報公開のプラットフォームでもあり、そのなかでも 妊娠・出産という女性の身体に関わる写真が注目を集め、その関心の度合いが数値によって可視化されているのです。

芸能人や歌手、モデルのような公的な場で見られる立場の女性にとって、妊娠期間は、以前であれば表舞台での露出を一時的に控える時期と見なされていました。しかし、現在ではむしろ積極的に公開される時期にさえなっています。このような変化の背景には、メディア環境のみならず、出産の高齢化、少子化のような動向も反映し、妊娠・出産が広く社会的関心の対象になっているという要因があります。2013年にロンドンのフォトグラファーズ・ギャラリーで開催された「Home Truth:Photography and Motherhood」展は、このようなSNS時代を背景として、「母であること・母性」をテーマにしたさまざまな国や地域の写真家、映像作家の作品で構成され、母親と子どもの関係、妊娠、不妊治療、家族のルーツ、育児経験、母親という存在、役割がどのように表現されているのか、社会的な側面と共に通覧する意欲的な試みでした。妊娠、出産、育児という営みのなかで主体となる女性のまなざしは、人が生まれ育つ社会環境や文化、歴史的な背景の複雑な様相を浮かび上がらせるのだと思います。

——「女性のまなざし」の多様化や深化という傾向を受けて、女性に向けられるまなざしが変化してきていると思いますか?
女性像の多様化ということに関して言えば、ファッションモデルの世界では、従来は細くてスリムな体形のモデルや白人のモデルが多数派を占めてきたなかで、「プラスサイズモデル」と呼ばれる、より自然で肉付きの良い体形のモデルが登場し注目を集めたり、人種的にも多様化しており、既存の美しさの基準を見直そうとする流れが目立ってきています。また、フォトショップやスマートフォンの画像加工アプリの普及によって、モデルの肌や体形を補正することが頻繁に行なわれるなかで、下着ブランドのaerieは、広告のなかでモデルにレタッチしていないことを謳い、「The Real You is Sexy (本当のあなたが素敵)」というキャッチコピーをつけて宣伝し、SNSで#arierealというハッシュタグを用いてキャンペーンを展開して女性たちの共感を集めています。このような展開がある一方で、公共空間には、たとえば電車内でよく見られる脱毛エステの広告のように、女性の身体は、滑らかで、美しく愛でられる、「もの」であることが望ましい、というメッセージで充ち満ちているのが現状です。女性に対して「望ましい外見」を押しつけ、強化するような規範や価値観は根強く、その価値観は女性にとって抑圧的なものだと感じます。また、近年では、太ももやうなじ、鎖骨のような女性の身体の部位や、制服のようなコスチューム、シチュエーションなどを限定して撮影した写真をまとめた「フェチ写真集」が人気を集めているといいます。露出する部分が控えられているために、いわゆるポルノグラフィの範疇に収められるものではないかもしれませんし、読者は男性だけではなく女性もいるそうですが、人の身体を部位として切り分けて扱い、窃視することに戸惑いや躊躇を抱かない、そういった眼差しのあり方を「当たり前」のものとして良いのでしょうか? そのことを問う必要があります。広告のなかで身体を表象する図像は、受け手の自己認識のあり方や考え方に作用しますし、とくに成長過程にある若年層、子どもたちへの影響力は大きなものです。支配的なものの見方に対して違和感を表明したり、異議を唱えること、それがフィメール・ゲイズ「女性のまなざし」の担う役割であり、発揮する力だと思います。

水原希子