Photography Mayumi Hosokura

『ルイ14世の死』:アルベール・セラ監督インタビュー 前篇

Shinsuke Ohdera

死にゆく“太陽王”の姿を医学的に描いた『ルイ14世の死』で大きな話題を呼んでいる異才アルベール・セラ。「21世紀の前衛」とも称される彼がこの映画で試みた挑戦とは? 前篇は、セラの撮影システム、クリシェを排除した描写、頬の痙攣について。

Photography Mayumi Hosokura

『ルイ14世の死』は、スペイン出身の映画監督アルベール・セラにとって4本目の長編作品となる。ドン・キホーテを描いた2006年作品『騎士の名誉』でデビューした彼は、その後も東方の三賢人やカサノヴァ、ドラキュラなど史実かフィクションかを問わず著名なキャラクターをきわめてアヴァンギャルドな手法で描いてきた。第三作『私の死の物語』では、ロカルノ国際映画祭でグランプリも受賞している。『ルイ14世の死』は、タイトル通りフランス国王ルイ14世の最期の日々を描き、カンヌ国際映画祭でコンペ外上映されるなど、世界的に大きな話題を呼んでいる。

——ルイ14世は、「太陽王」とも呼ばれたフランスの著名な国王です。「朕は国家なり」という言葉で知られるなど、古いヨーロッパを象徴する存在であると思います。彼の身体は、個人を超え国家を象徴するもの、国家の身体であるとさえ言えるかもしれません。さらに、彼は若い頃はダンサーとしても知られ、非常にコントロールされた身体を備えた人でした。ところが、『ルイ14世の死』という作品は、その二つの意味でコントロールされた存在が、コントロールを失っていく。ただの身体へと崩壊していく。そのプロセスを描いた作品だと思いました。

その通りです。それこそがこの映画の中心的な物語戦略だと言って良いでしょう。映画の冒頭で、彼はまだ少しは立っていて、少しは食事もする。ところが、どんどん動きが少なくなっていき、やがて亡くなるまでほとんど何も起きない状態が続く。彼がいつ死んだのか、明確には分からないくらいです。死と苦痛に対する精神的アプローチを排除したこの医学的描写は、この映画をまさに“身体の映画”にしています。それは身体の単純な衰微であり最終的な崩壊でもある。

ルイ14世のように著名なキャラクターの最期の日々が描かれる場合、通常はドラマティックな効果と知的内容をたっぷり含んだ描写を行いがちです。しかし、この作品で私は、そこで見えるものに対してきわめて繊細で誠実な作品を作ろうと思ったのです。実際、この映画を見た多くの人たちが、ルイ14世はまさにこのように死んだはずだと言います。もちろん、彼らがそれを実際に見たわけではない。しかし、彼らの祖父母などの死を、この映画が思い出させるのでしょう。つまり、魅惑を欠いた陳腐な死というものを。死の背後に魂や来世のようなものが存在するかなんて誰にも分かりません。皮肉にも、きわめてバロック的で魅力ある環境の中で、この純粋で厳密な身体の衰微が進行していくわけです。視覚的な豪奢と描かれる事実の陳腐さ、この両者の共存こそが、この作品の成功を支えたのだと思います。

©CAPRICCI FILMS,ROSA FILMES,ANDERCRAUN FILMS,BOBI LUX 2016

もうひとつは、俳優です。この身体の内部で一体どういう精神的プロセスが進行しているのか。ほとんど何も話さないこの人間は、一体何を考えているのか。ここに、映画の最も美しいマジックのひとつがあります。つまり、私たちがスクリーンで誰かを見るとき、その人物が実際に何かを考えているに違いないと私たちは強く感じます。会話がなく、物語的な効果がなかったにせよ、あるいはその事実によって一層私たちはスクリーン上の人間と親密な関係を取り結び、その心について考えるわけです。

だが、ルイ14世はフランスではきわめて有名な人物であり、その物語や背景、衣装やディテールなど実に多くの情報が知られています。こうしたキャラクターを描くとき、匿名的な人物を描くのと同じようにミステリアスで私たちの心に触れるような何かをそこに見つけるのはとても難しい。それはたやすくクリシェに陥ってしまいます。ですから、クリシェを排除して映画を作ることが、ここでは最初の目標となりました。しかし同時に、それは危険な試みでもあります。なぜなら、クリシェを排除するあまり、作品が備えるべき歴史的感覚も失われかねないからです。

したがって、ルイ14世の最期の日々を描きつつ、あまりにクリシェには陥らず、あまりに愚かしいものにはせず、同時にあまりに予想のつく物語にはせず、あまりに抽象的な映画にもしない、そしてただ身体だけ、ただジャン=ピエール・レオがそこにいるだけの映画にもしない——こうした複雑なバランスがこの映画には要求されたわけです。

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——心に関して言えば、ルイ14世が夜中に水を所望する場面があります。彼は水を飲みたいはずなのに、「従者が違う」「コップが違う」と言ってなかなか飲みません。とても面白い場面でしたが、彼は一体何を考えていたのでしょうか。

それは私にも分かりません! 謎なんです。ルイ14世はこれまでに何度か映画化されていますが、この作品の彼がもっともリアルだと思います。なぜなら、彼の複雑さや人間性の厚みがこの映画でもっともよく示されているからです。いや、リアルと呼ぶべきではないかもしれません。ルイ14世という過去の存在が今そこにある身体として、その複雑さや曖昧さをそのままに、俳優にとっての、そして観客にとっての現在として生きられていることこそが重要なのです。この映画の撮影中に私は興味深い事実に気づきました。彼は自宅の中にたったひとつの部屋しか持たず、それがベッドルームだったのです。彼はその人生の大半で、特に何もしていないとき、ただベッドに横たわって過ごしていました。ベッドの外で起きていたこと、従者たちや宮廷の人間がどのようなキャラクターで何をしていたかについては、ある程度の情報があります。しかし、ルイ14世がベッドの上で何を考えていたかについては、本当に謎なんです。彼は自分の身体の問題で悩んでいたか、あるいは国家について悩んでいたか、家族の問題か、宗教的な問題か。これは本当に誰にも分かりません。

また、私の映画作りは、俳優が何かをしている姿を観察することにあります。俳優たちは私にとっても謎であるような何かを映画に持ち込む。もし、私が事前にすべてを知っていたら撮影をする意味はないし、それはあまりにもつまらない。ルイ14世を演じたジャン=ピエール・レオは、撮られることに対する虚栄心を持つタイプの人間です。彼は他の俳優では再現することのできないエレガンスをスクリーンで披露したいと願っていました。そしてこの場合、それは映画にとって有益なことでもありました。なぜなら、彼は王であり、他の誰よりも自分が優位に立つ人間だと信じており、それが仕草や様々な要素に現れているからです。だから、この映画で描かれるルイ14世の複雑さは、レオ自身の複雑さにも由来しているのです。彼の演技だけではなく、その人間性や身体的形状に基づく複雑さが映画に持ち込まれているのです。

——レオと他の俳優たちとの間ばかりでなく、監督とのあいだにもある種の闘いはあったと思いますか?

おそらくそうでしょう。最終的に作られた映画の中にそれが見える形で残っているかどうかは分かりませんが。撮影のあいだ、レオはきわめて慎ましかった。彼はずっと長いあいだ重要な役を演じておらず、この映画で自分ならではの存在感を示したいと考えていました。しかし同時に、それが自分のエゴを押しつけることではないとも理解していました。彼は多くの映画で特徴的に見られる彼ならではのイメージを持っていますが、にもかかわらず映画においては常に監督の意図こそが最優先されるべきだと分かっているのです。だから、それはエゴのぶつかり合いではありません。むしろ趣味の闘いだと言うべきでしょう。最終的な作品に何を残して何を削るべきか。一般的に言って、俳優たちはこうした選択においてきわめて悪趣味です。彼らは撮影の際に素晴らしいものを生み出すこともあれば、最悪のものを生み出すこともある。だがいずれにしても、その違いを理解できないのです。もし理解できるのであれば、映画作家になれば良い。映画作家は、撮影のときばかりではなく編集においても、あらゆる場面の最も強い側面を発見し、その背後に存在する流れやそれが導き出す運命を作品の中に持ち込むことができます。私の場合、撮影の際の自分の判断にも信頼を置いていません。だからモニターを手元に置かず、撮影が全て終了するまで映像を見ることもないのです。時間をかけて映像を分析することで、私ははじめてその映像を感じることができます。

——いくつかの場面で、レオの頬が痙攣しているのが見えます。それは彼の意思ではないでしょうが、この作品のなかで実に印象的な瞬間であり、同時に「身体の俳優」である彼にとっても、そのキャリアの中で重要なショットであったように感じました。

それは興味深い指摘です。あなたの言う通り、それはまずレオが意図した演技ではありません。つまり、撮影中滅多に起きることではないのです。そして、これがもし3時間かけて撮影の準備を整え、5分間だけ撮影するような通常の映画であったとしたら、こうした現実からのプレゼントを受け取ることはできなかったでしょう。私は映画作りを始めた当初から、スタッフたちには常に俳優たちのインスピレーションに従うよう望んできました。すなわち、一日中いつでも撮影できるようスタンバイしておくのです。もちろん、照明の変更などはありますが、すべて最小限に済ませるようにしています。あらゆるディテールや素晴らしい瞬間を逃したくないからです。こうした準備があったからこそ、ああした瞬間を捉えることができた。それは決して簡単なことではありません。

そして次に、こうした瞬間を作品の中に取り込むためには、それに相応しいタイミングを見つける必要があります。この場合なら、彼は明らかに健康な状態ではないが、かといって完全に衰弱しきったわけでもない。そうした流れのなかにこの映像が収められることが重要なのです。これを実現するためには、十分な量の素材が準備されている必要があります。私の映画システムは、三台のカメラを常に同時に回し、異なる複数の場面を並行して進め、それらの場面の会話を混合して撮影していくものです。だからこそ、最終的な作品に取り込むことのできる十分なバリエーションを持つ素材を集めることができたのです。したがって、レオの頬の痙攣は確かに意図せざるものではありますが、同時にそれが作品のなかに統合されているのは、映画作家の意図や十分な計画がそこにあるからだと言うことができるでしょう。

——王の身体への医学的アプローチという文脈のなかで、彼に霊薬を飲ませるルブランという不思議なキャラクターが登場します。彼は『私の死の物語』でカサノヴァ役を演じた俳優(ビセンス・アルタイオ)ですが、ここには何か共通したものが存在しますか?

ルブランもカサノヴァも、アンダーグラウンドな人生を生きる者たちです。カサノヴァは、宮廷から宮廷へと渡り歩いて、常にクレイジーな計画を提案し、クレイジーな関係を女性たちとのあいだに築き上げました。彼はアウトサイダーでしたが、そこにはいつも陽気な雰囲気が漂っていました。彼は女性たちに仕えるために生きていたのです。同じように、ルブランもまたアカデミックな存在ではありません。彼は伝統に属さず、身体と魂や精神とのつながりを信じています。それは今日の私たちから見れば疑わしい考えに見えますが、果たしてどうでしょう。この映画のなかで、私が気に入っている台詞のひとつを彼が口にします。「あなたのご病気は、身体の昇華であるように見えます。それは、より高次の場所に向かうため通り抜けなければならない苦しみであるのです」というものです。これは魂の救済という立場からの言葉ですが、医学的見地から見てもとても興味深いものです。というのは、衰微は身体と切り離すことのできない一部だからです。それは私たちの生命の自然な一部なのです。因みに、ルブランもまた歴史上の人間です。彼に関する記述が昔の文献にあります。

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——ルブランの存在は、映画に別のレイヤーを付け加えているように見えます。享楽や自由主義的な側面を。

そう! それは、身体はそれ自体として単体で存在しているわけではないという考え方に結びつきます。身体は、感情や精神や愛とつながっている。愛のイメージを心に持つことは、人生に大きな影響を与えます。それに対して、病気というものは実は重要な問題ではありません。それは人生の避けがたい一部に過ぎないのです。これは、この作品のもうひとつ別の観点を作るでしょう。ルブランを演じた俳優は、南フランス出身でとても面白い男です。私は彼のことが大好きです。もし彼がいなければ、この作品はずっと陰鬱で退屈なものになっていたはずです。彼の存在は、ルイ14世の生命に対してだけではなく、フィクションとしてのこの映画の生命にも大きな影響を及ぼしたと言って良いでしょう。本当は彼の登場場面をもう少し増やしたかったのですが、プロデューサーたちとの闘いでそれが上手くいきませんでした。もうひとつ、彼は私の映画に出ているときだけ素晴らしいんです。他の映画では全く違う。これも、私が彼を気に入っている理由のひとつです。私の映画のなかで誰かが素晴らしいからと言って、それは俳優たちが素晴らしいからとは限らない。素晴らしい映画作家がカメラの背後にいるということ——人々は、この事実に気づくべきでしょうね。

後篇はこちらから。

ルイ14世の死』5月26日(土)より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開