あるリスナーの葛藤:HIPHOPのミソジニーと無自覚について

ファンって何だろう? 好きな対象のすべてを肯定する人? でもそれってファンっていうより信者じゃない? じゃあ改めて、ファンって何だろう?

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jul 24 2018, 6:45am

「HIPHOPが好きなの?」

イエスかノーかで回答できる、当たり障りない趣味の質問。相手はそういうつもりで私に問いかけてくれたのだとわかっているが、笑顔で頷くことはどうしてもできない。曖昧に笑って「ラップは毎日聴きます」と答えながら、また葛藤と目が合う。

ラップが好きだ。なんとなくまだ眠りたくない夜にはSALUとゆるふわギャングの「夜に失くす」を聴きながら絵を描く。嫌なことがあった日の帰り道にはAKLO「Outside the frame」で忘れる努力をする。気合を入れたい日にはKLOOZ「It’s My Turn」でテンションを上げる。予定のない土曜日の真昼、手持ち無沙汰な食事のお伴にstillichimiyaのツアーDVDを流す。たんすの奥から夏服を引っ張り出しつつ、KOPERU & ISSEI「Takin’Off」を聴いて行きもしない海を想像する。

つらい、楽しい、何にもない……日常の気分に合わせて言葉とリズムがほしいとき、ラップは大抵の望みを叶えてくれた。そこまで魅力を感じているからこそ、私はHIPHOPに内在された差別にどう向き合っていいのか、悩み続けている。

ラップを追っていてミソジニー(女性嫌悪)にぶつからない人間はいない。女性が酒や金と並ぶ「勝利者の財産」扱いされている曲、男性ラッパーのセルフボーストの道具にされている曲は無限にある。MCバトルでは差別的なディスで女性を貶めたラッパーに歓声が上がる風景が当たり前のようにあふれている。一線を超えたひどい言葉を山のように目にした。「お前は女だから股を開けばどこからか金が降ってくる」「女を武器にしている」「男はいつの時代も入れる側 女は受け入れな」……。いくらバトルでも、差別的な言葉が出てくると精神的に滅入る。聞いていられない。

アメリカ文学研究者の大和田俊之いわく、HIPHOPは「過剰にマッチョで女性蔑視的なジャンル」(*1)であり、「男子中学生並みの女性観」(*2)を保持した世界である。ミソジニーは社会全体の問題だが、HIPHOPの場ではより煮詰められたミソジニーが可視化されるのだ。イヴ・セジウィックは女性嫌悪と同性愛嫌悪を保持する男性同士の閉鎖的連帯を指して「ホモソーシャル」と名付けたが、HIPHOPはまさにこの典型だ。Young Hustleのインタビューで紹介されたDJ TY-KOHの「オンナはセックスだけでいい。セックス以外のことは全部男と一緒にやりたい」という発言が、コミュニティのありようを端的に表している。強固な男女二元論の上で女性を性の対象としてのみ価値づける姿勢は、見れば見るほど何も言えなくなる。

ライターの長谷川町蔵は、HIPHOPとは音楽ではなく「一定のルールのもとで参加者たちが優劣を競い合うゲームであり、コンペティション」(*3)なのだと述べた。「ゲーム」の「参加者」の多くが強固なホモソーシャルを形成している以上、HIPHOPは「男が男を褒め、男が男を貶す場」なのだ。この磁場の上では、女やクィアはいつまでたっても「よそ者」のままである。

ラップは好き、でもミソジニーはきつい。この葛藤を抱えながら暮らすとなると、接し方は限られてくる。「批判の必要なく鑑賞できるものだけ聴く」か、「鑑賞しながら批判する」の二択だ。前者に関しては、「安心できるラッパー探し」をするというより、最初好きだったラッパーの作品と次第に距離を置かざるを得なくなった結果としてそうなると言ったほうが正しい。

後者について……まず、批判と非難の差異に関して一応述べておきたい。非難と批判は全くの別物だ。対象を責めるためではなく、問題をはらむ対象がこの先どう変わるべきなのか考えるために評価・判断をする行為が批判である。公共にさらされたもので、批判を一切受けない権利を持つものは何もない。そしてコンテンツを楽しむことと批判することも、両立しうる行為だ。

その一方で、私はHIPHOP批判の難しさも強く意識している。ストリートカルチャーに対してポリティカル・コレクトネスを説く行為の暴力性は無視できないし、HIPHOPの成り立ちと差別は切っても切り離せないからだ。だからこそ、慎重に違和感を言語化する作業が必要なのだと思う。これが解決できない葛藤を踏まえて考えた、自分なりの「HIPHOPとの誠実な付き合い方」だった。

思い出すことがある。あるとき、ラップバトルイベントの動画についてちょっとした批判のコメントを書いたところ、「嫌なら聴くな」というコメントが寄せられた。明確な批判の拒絶だった。「私は織り込み済みで楽しんでいるのだから、外からどうこう言うな」……確かそういう趣旨のことを言われたと記憶している。当時の私は、今まで味わったことのない衝撃を受けた。ミソジニーを「織り込」めない自分は、一生「外の人間」なのだと知った。

「嫌なら聴くな」とは何だろう。裏を返せば「良いと思った者だけが聴け」だろうか。少し話はそれるが、先月に起きたRADWIMPSの「HINOMARU」騒動や、SEKAI NO OWARIの舞台セットが韓国のファンから女性差別だと指摘された事件においても、同様の反応が数多く確認できた(ちなみに、同時に散見されたのは「ファンなら彼に人を傷つける意思がないとわかるはず」言説である)。

批判に対してファンからこの言葉が出てくるのは、「よりよくするための変化を望む」より「現状を全肯定する」ことがファンのあるべき姿として重んじられているからではなかろうか。差別にまつわる議論には特に「怒ってばかりの人間より楽しんでいる自分たちが勝者である」と結論づけ、差別を告発した側を、感情を理由に黙らせようとする姿勢が頻繁に表れる。既存の仕組みを脅かし、新たな変化を望む切実な批判も、ポジティブ/ネガティブ、肯定/否定、ラブ/ヘイト、幸せ/不幸、かっけえ/だっせえ、という漠然としたプラスマイナスの二元論に押し込められれば、「ネガティブで否定的で不幸でだせえヘイト」として認識されることだろう。思考停止だ。足元にうまる問題に無自覚なまま生きていけるなら、確かにそれはひとつの幸福なのかもしれない。自分が踏んでいる足、あるいは自分を踏んでいる足を無視した先に、明るいものがあるとは思えないけれど。

「あなたが女性差別に反対しているのは、何かトラウマがあるからですか?」

こんな質問をされたことがある。意図せず思考が止まった。真っ白になった脳みそに「は?」という文字が浮かび、その場ではそれ以上の反論が出てこなかった。「自分は女性差別を実感したことがない」と目の前で話すその女性は、私がなぜ反差別を掲げるのか、本気で不思議そうにしていたのである。

トラウマ……トラウマかあ……。おそらくこの人にとって差別の問題は完全な「非日常」だ。どこかに差別をする「悪人」がいて、差別されて苦しむ「被害者」がいる。なるほど、あなたは被害者だから悪人を倒そうとしているのですね? ……こういうストーリーで反差別を解釈していたように思われた。「差別は常に直接の当事者がカウンターをするものだ」という無言の前提が透けて見える。

確かにその考え方に沿うなら、加害/被害の自覚がない限り差別が存在する実感はないだろう。ジェンダーギャップ指数ランキングは世界144カ国中114位、女性国会議員は全体のわずか1割で、女性の賃金は男性の7割程度、レイプ被害者の声が国家権力によって封殺されていても、これらすべてに対して「自分が直接関わっていない」と考えているなら差別を認識せずに生きていけるのだ。

しかし、本当に「当事者ではない人」など存在するのだろうか? 差別は単純な「誰かと誰かのバトル」ではない。社会の仕組みの問題なのだ。差別を構築するのは社会であり、社会を構成するのはすべての人間である。私にもあなたにも、社会に対する責任がある。全員が例外なく当事者だ。自分が苦痛を感じていなくても、差別に苦しむ他者が存在する限り考え続けねばならないのではないだろうか。

私は「社会を変えたい」と思っている。差別のない社会が見たい。ただのリスナー/ただのライター/ただの市民という弱い立場から何かを変えられると信じるのは、大げさで非現実的かもしれない。実際、差別的な発言を見たら批判する、差別的ではないアーティストを支持するなどの些細な行動で、何かが変わったと実感できた経験はほとんどなかった。それでも、もしかしたら見えないところで何かが変わっているかもしれない。今まで崩れなかった何かが変化しているかもしれない。自分の行動が何かを変えるかもしれないと信じないことには、何も始まらないような気がするのだ。今はただ、目の前の問題に真摯に向き合う限り、何か明るい兆しがもたらされる可能性があるという予感のみを、唯一両手で握りしめている。


*1 長谷川町蔵・大和田俊之著『文化系のためのヒップホップ入門』164頁、ARTES、2011
*2 同上 170頁、ARTES、2011年。
*3 同上 19頁、ARTES、2011年。